安静にしなかった後悔は今も消えず、“流産”という経験があったからこその今がある
9歳の女の子1人を育てながらライティングの仕事をし、週に1、2日は外勤も兼務する、ママライターのくらゆぅです。娘は1人目の子どもで、この時は妊娠を望み基礎体温も測り、計画的に28歳で妊娠をしました。早い段階でつわりもあり妊娠している喜びを日々感じながら、施設栄養士として働いていました。
意識してなかった2回目の妊娠は娘が1歳10カ月の時
今回はその子の後に授かった子のお話です。娘が1歳10ヶ月位の時に2人目の妊娠がわかりました。この時は仕事を辞め、専業主婦でした。
その時は「生理が遅れているなぁ」程度にしか思っておらず、しばらくしてから病院へ受診しました。前回の出産した病院でも受診した病院でもなく、近所の内科と併設した病院に行きました。すると妊娠7週で、心拍が確認できました。
快適な妊娠ライフの矢先に“出血とおなかに異変”が
心拍も確認できたので、役所で母子手帳を受け取り、1人目の時にひどかったつわりも今回はまったくなく、「なんて快適な妊娠ライフだろう」と思っていた矢先に異変はおきました。
9週目の出来事で、出血とおなかの張りを感じたのです。受診すると、エコーではおなかの中の赤ちゃんは大きく成長していたのですが、“切迫流産”の可能性があると言われてしまいました。
止血のための飲み薬を1週間分処方され、「自宅でなるべく安静にするように」と言われました。止血剤を処方され、「この薬を飲んでいればきっとすぐに出血も収まるよね、“なるべく”ってことはそんなに安静にしていなくても、きっと大丈夫」と、この時は事態を深刻に考えていなかった自分がいました。
安静と言い切れない生活のツケが、流産という結果に
予定していた約束をそのまま継続し、娘を連れて外出。当時の娘はまだ“抱っこちゃん全開”でベビーカーよりも歩くよりも抱っこ紐が大好き。私も遠回りのゆるい坂道より、近くの急坂&階段を選び、安静とはほど遠い生活を送ってしまいました。
外出して気分転換している事で、おなかの張りが収まっていたのも事実で、おなかの子のSOSに気持ちを傾けてあげなかったのです。薬が切れ受診し、エコーを確認、そこで心拍が止まってしまっている事を伝えられました。
流産したのです。12週目目前の出来事でした。「まさか」と、一瞬頭の中が真っ白になり、今後の話をされていても内容がまったく入ってきませんでした。せっかく授かった命を殺してしまったという罪悪感に、この時にはじめてかられたのです。
娘にはサヨナラをしてくれていた12週間だけの我が子
母には「なんで」と残念がられ、夫は「そっか」と言うだけ。手術するまでの1日半はとても長くて、孤独で、深い後悔が押し寄せました。またこの時、娘は片言ながらに「赤ちゃんがお空に行く姿を見た」と教えてくれ、娘にはサヨナラしていたと思うと一気に涙が込み上げてきました。
「下の子を生んであげられなくてごめんね」と、娘をギュッと抱きしめながら、2人に謝るだけが精一杯でした。手術当日、娘を母に預け1人で病院へ。手術室のベッドに横になり、最後の「ごめんね」を、おなかをさすり伝えました。
麻酔のマスクをされ「1、2、3…」の声と共に意識が飛び、気が付いた時には病室のベッドの上でした。起きられるようになると、処置された事処分する事を伝えられました。
処分されると聞いた時「もうどうにもできないし」と、冷静な自分がいました。後日「安らかに」と願いを込めて、お寺で水子供養をしてもらいました。医師が病理に出してくれましたが、結局流産の原因を聞きに行く勇気がなく、知らぬままに。流産直後は自分の軽率な行動を責める日々でしたが、日が経つにつれ娘の幼稚園のプレ教室、始めた在宅ワークが忙しくなり、気持ちは落ち着いていきました。「あの子が生きていたら」と、今も思う事は多々あります。私の中で12週間だけでもいてくれたからこそ、今の自分と家族があると思い、前向きに日々を過ごしています。
[くらゆぅ*プロフィール]
神奈川の坂が多い街に在住。9歳の娘と夫の3人暮らし。娘に溺愛しつつ、ジムやテニスと体を動かす時間や、ママ友たちとのランチや飲み会。大好きなアーティストのライブに行き自分の時間も大切にしています。
※この記事は個人の体験記です。記事に掲載の画像はイメージです。