【現代美術家丹羽勝次さん追悼 】「『行為の痕跡』を表現の核に据えた作品を追求」。晩年の記事から発言を振り返る
静岡新聞論説委員がお届けするアートやカルチャーに関するコラム。今回は11月30日に94歳で亡くなった現代美術家の丹羽勝次さんについて。(文=論説委員・橋爪充)
丹羽さんは静岡大を卒業後、県内で教員として食い扶持を稼ぎながら制作を続けた。1960年代後半には飯田昭二さんらと「グループ幻触」として活動。1968年に東京で行った「トリックス・アンド・ヴィジョン」展などで、日本の現代美術シーンに大きな影響を与えた。「もの派」の代表的作家である李禹煥さんや関根伸夫さんのインスピレーションも刺激した。
筆者は2012年5月に丹羽さんを初めて取材して以後、折に触れて話を聞いてきた。新聞記事が載ると、丹羽さんは必ず電話をかけてきて、あれこれ褒めてくれた。記者としてはフラットな立場でいるべきなのだが、丹羽さんが記事を褒めてくれるのは、この上なくうれしかった。
とはいえ、厳しい一面もあった。別の記者が書いた記事について「そういうつもりじゃないんだけどね」と言ってくることもあった。特に覚えているのは自らのことを「前衛芸術家」とした記事だった。シュルレアリスムをはじめとした20世紀初頭の抽象画のイメージが強い「前衛芸術」とは、一線を画す立場だった。
過去の新聞記事をたぐってみると、興味深い発言がいくつもあった。最初の取材記事は2012年05月15日付。静岡市葵区研屋町の「金座ボタニカ」のトークセッション「表現の可能性と不可能性」で当時静岡市清水区にあったオルタナティブスペース「スノドカフェ」の柚木康裕代表と対話している。郵便はがきを活用した「メールアート」など代表作を挙げながら、さまざまなエピソードを語った。グループ幻触の先導役だった美術評論家の石子順造さんの言葉を挙げている。「現代美術とは『美術の今』にどう向き合うかだ、と言われた。それまでの作品と決別する決断ができた」
2021年4月21日付では、個展と二人展を前にして制作に励む姿を描写した。アトリエに据えた杉板を前に、バーナーやチェーンソーを繊細に動かしていた。「絵を描くのではなく、絵を『つくって』いる」「作家による『イメージの再現』とは異なる、『行為の痕跡』を表現の核に据えた作品を追求する」
2023年10月5日付には、長女菜々さんとの二人展の様子が掲載されている。静岡市葵区の「東静岡アート&スポーツ/ヒロバ」に、「遠い空。近い空。」と名付けた平和を希求する作品を展開した。菜々さんの代表的シリーズの「色の帯」3本がはためき、勝次さんの代表作「箱」シリーズを思わせる青、ピンク、黄色の立方体が屹立していた。「人々が身を寄せ合う場」との言葉が残る。戦中を生きたからだろう。世界から戦火が消えることをずっと願っていた。