【乾久子さん「ことばのまわり 10年目を歩く」】 複数の時間軸が自分の中に押し寄せる。「本」の形をした「アート的」な何か
静岡新聞論説委員がお届けするアート&カルチャーに関するコラム。今回は1月22日に初版発行(奥付)された美術家乾久子さん(浜松市西区)の新刊「ことばのまわり 10年目を歩く」(荒蝦夷)を題材に。
くじ引きと言葉から連想する絵の制作を組み合わせた「くじびきドローイング」で知られるアーティストの乾久子さんは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から10年目の2021年、3月から12月までに計7回福島県を旅した。10月には福島市内で個展も開いた。本書はいわばその「旅日記」である。
一部は過去形の「ですます」調だが、大部分は現在進行形で自分自身が見たもの、聞いた話、味わった料理が語られる。「旅日記」の体裁を保ちつつ、持参したスケッチに描いたドローイング23点も併載している。
乾さんは2022年3月11日に浜松市中区の鴨江アートセンターで開いたトークイベントで、この旅について語った。自分は取材者としてその場所にいた。本に掲載された作品のいくつかは、その時に目にしている。
不思議な感覚が押し寄せた。
乾さんは東日本大震災の翌日、2011年3月12日付の新聞1面を真っ黒に塗りつぶした。翌日も、その翌日も同じ行為を繰り返した。それは「作品」となった。この本の中で乾さんは制作について「何とか気持ちを収めようとした」と振り返っている。「行みたいな感じでやっていました」という、2011年3月の「行為」がまずある。
この本の中の乾さんはそれから10年後、2021年を生きている。10年前の自分の作品の着地点を探すため、常磐線に乗って福島県に入る。3月、6月、7月、9月、10月、11月、12月。いわき市や郡山市、会津若松市を訪ね、電車の車中や宿泊先で筆や色鉛筆を走らせる。
私はそのことを2022年のトークで克明に聞いた。そして2025年の今、この本を手にしている。2021年の旅の記述はコロナ禍と共にある。「県境を越える」ことに相当な覚悟があった時期だ。自分自身はそれをすっかり忘れている。
東日本大震災を起点に、四つの時間が自分に流れ込んで来た。この本は「本」という形をしているけれど、読んで終わりの書物ではない。五感をフルに動員して鑑賞する、「アート」に似た何かだと受け止めた。
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