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南北朝時代の記憶を680余年語り継ぎ、五條家ゆかりの人々が今年も金烏(きんう)の御旗の元に集う|五條家御旗祭【福岡県八女市】

ローカリティ!

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2025年(令和7)年9月23日(秋分の日)福岡県八女市黒木町で五條家御旗祭(ごじょうけみはたまつり)が開催。金烏の御旗(きんうのみはた)や後醍醐天皇の綸旨(りんじ)など、貴重な史料が公開されました。

五條家25代当主五條元滋(ごじょう・もとじ)氏によると、征西将軍宮懐良親王(かねながしんのう/かねよししんのう)を補佐した五條頼元(ごじょう・よりもと)を中心に忠節を尽くした680余年前の末えいが、今なおその思いを芯に抱き年に一度集います。

また、五條家御旗祭後は「大渕体験交流施設 げんき館おおぶち」にて、令和7年度南北朝歴史講演事業として「安部龍太郎 郷土と歴史を語る」トークセッションも開催されました。

南北朝の歴史を今に伝える貴重な資料の数々

八女市黒木(くろぎ)町五條氏邸にて、五條家25代当主五條元滋氏、五條家宝物顕彰会の主催により行われた「五條家御旗祭」。宝物の確認と虫干しを兼ねていました。祭典のあとは当主による史料の数々のご説明とそれにまつわるお話をいただきました。

鎌倉幕府を倒し、建武の新政や足利尊氏(北朝)と対立した「後醍醐天皇」(南朝)。歴史上の人物が八女と関わりがあったことに驚きです。歴史の授業では出来事や流れを教わりますが、細かな出来事までは教わっていません。しかし、八女には南朝にゆかりのある人物たちが、時代を必死に生き抜いた証拠がありました。

五條家御旗祭もそのひとつ。後醍醐天皇の皇子「懐良親王」を補佐し、九州統一を支えた五條頼元。後醍醐天皇より賜ったものと共に、一族郎党・臣下に至るまで、南朝再興という思いを持ちつつ、生き延びることに感謝しながらお祭りを行っていたとされています。

金烏の御旗

後醍醐天皇より賜ったといわれる御旗。「烏」はカラスを表し、「金烏」(きんう)とは太陽を意味し、日の丸のシンボルデザイン案のひとつでもありました。

懐良親王はこれを持ち、九州に下向、やがて九州統一を果たします。その道のりは決して楽とは言えず、10歳で伊勢を旅立ち紀伊半島を南へ、瀬戸内海を通って鹿児島から菊池(現熊本県)に入ります。その時すでに成人しており、出発してから13年が経っています。それだけご苦労されたというお話を伺いました。

この旗を掲げることで、戦場では官軍を意味することになります。そしてそこには懐良親王がいらっしゃるということで、味方の士気を大きくあげる効果もあったかと思います。

良成親王着用の胴

良成親王(よしなりしんのう/りょうせいしんのう)の、具足、籠手(こて)、脛(すね)当て。胴部分には仙人と鶴が描かれており、長寿や吉祥を意味します。戦乱の世の中で一日でも長く生きられるようにという願いが込められているのでしょうか。

良成親王は後村上天皇(ごむらかみてんのう)の皇子、後醍醐天皇の孫にあたります。懐良親王の九州統一後、征西将軍職を引き継ぐことになります。具足などがやや小さく感じられるので、幼い頃のものか、体が小さい方だったのかということが推測されるそうです。

五條頼元着用の鎧

五條頼元が着用していたと伝えられている鎧です。70歳で筑後川の戦い(大保原[おおほばる]の戦い)に従軍していたといわれています。当時の方で70歳まで生きるというのは非常に長生きですね。歴戦の勇者といった風格が漂っていました。

当主のみに許された陣羽織

背中の菊と桐は皇室と日本を表します。非常に大事なものを背負っており、代々当主にしか着ることは許されなかったそうです。

この菊と桐が重なった家紋は、後醍醐天皇から「五條」の姓と共に賜ったもので、五條頼元は「金烏の御旗」「家紋」「姓」の三つを賜っています。それだけ信任が厚く自分の皇子を補佐するに充分な人物だったと推測されます。

五條頼元の元の姓は「清原」。平安時代から続く清原家を源流とし、代々朝廷に仕えていました。そういった家系からも、学問や帝王学などをしっかりと修めていた人物だったのではないのでしょうか。

後醍醐天皇最後の綸旨

右下が綸旨

五條家には文書が数多く伝わっており、国指定重要文化財となっています。その数は369通、17巻にもおよびます。

今回公開されたのは、「後醍醐天皇綸旨」(髻(もとどり)の綸旨)、後村上天皇の御宸筆(ごしんぴつ)、立花宗茂(たちばなむねしげ)からの手紙の3点です。

後醍醐天皇最後の綸旨といわれているのは、その日付です。後醍醐天皇が崩御されたのは、延元4年9月19日(旧暦8月16日)。そしてこの綸旨の日付は8月15日です。

内容はご病気が重いことから、後村上天皇に譲位したこと。そして今後も朝敵(北朝方)を追討すべしとのことです。

綸旨の大きさは9×10センチと小さく「髻の綸旨(もとどりのりんじ)」とよばれています。とても小さく密書として髻(髪を頭の上で束ねた所)の中に入れて運んだのではないでしょうか。

小さい懐良親王を補佐し、九州奪回の命を受け、その道半ばで受け取った五條頼元のお気持ちは、いかばかりのものだったのでしょうか。

後村上天皇の御宸筆は、九州平定するまでに至っているので、畿内(きない)に戻ってきてその力を発揮して欲しいという内容です。そして、その時には五條頼元も一緒に連れ帰ってきて欲しいとのこと。

五條頼元が後醍醐天皇、そして後村上天皇と二代に渡り、非常に厚く信頼されているということがこの御宸筆でも分かります。

良成親王の文書も一通あります。正平9年は南北朝合一し、この年で年号は終わっているのですが、良成親王が書いた文章には正平12年や13年の年号もあります。これは、南朝再興の意志をしっかりと持ちながら、手紙を書き続けていると考えられています。そして、南朝はこの八女の地方に残って、違う生き方をしながら、色々な方たちが家臣となって住みつき、この地域を発展させていきました。

時代は近世になり、立花宗茂からの手紙です。柳川(やながわ)藩主として大淵・矢部(現八女市黒木町大淵・八女市矢部村)地区を治めることになった、という挨拶文が五條氏に届いています。領地を治めるということは、前に治めていた方の心も受け継いで治める、という律儀な内容とのことです。

筑後川合戦の襖絵

1359(正平14)年、懐良親王軍4万に対し、北朝側の少弐(しょうに)大友軍6万が筑後川周辺で戦った「筑後川の合戦(大保川の戦)」を描いた襖絵です。非常に激しい白兵戦があり、懐良親王もその身に「三槍(さんそう)の傷」を負ったとされています。

襖絵には、懐良親王・五條頼元・菊池武光が描かれています。中央の竹で顔が隠れているのが、懐良親王です。その前で手をかざしている人物が五條頼元。

絵のいちばん右の武将、川の水で刀を洗っているのは菊池武光です。このことが「大刀洗川」(たちあらいがわ)の名前の由来といわれています。

南北朝争乱の中でも懐良親王が九州平定できた訳

北朝と南朝の争乱は全国におよび、特に機内・京都付近では領地の勢力図が、日々モザイクのように変わり続けています。その中でも懐良親王の九州平定(大宰府入り)というのは、ひときわ大きな功績となりました。

この九州平定という功績を成し遂げたのは、「年齢」というキーワードがあったからです。伊勢を出発し、紀伊半島・四国・鹿児島を回り、菊池にたどり着いた時には、成人を迎えていました。そして、菊池で迎え入れた菊池武光も、成人しており同じくらいの年齢でした。このタイミングは奇跡的で、戦いや病気などもあったと思われますが、これを乗り越えて生き抜いたのです。

この同じ年齢の若武者2人が、後醍醐天皇の命を受けて「九州平定」の思いを一つにしてタッグを組んでいきました。

もし、菊池武光が老人だったら?小さい子どもだったら、このタッグは成立していなかったかもしれず、懐良親王は1人で奮戦しないといけない状態で、「九州平定」は難しかったかもしれません。

また、五條頼元が70歳まで生きるということも大変だったと思います。学問も治め、帝王学を親王様に伝えられたという満足感はあったのではないかと。

戦乱の世の中でも必死に生き抜き、そういった奇跡の積み重ねが、八女の地域の南朝に対する気持ちを持っている方が多いのではないかと思います。

今なお伝わる忠節の心

懐良親王は55歳、良成親王は38歳で亡くなったと言われています。しかし、南朝再興の気持ちをもった家臣たちは、ほとんど北朝に寝返ることなく、その後も八女の地域に残って発展させていきます。

この地域の多くの方々は、南朝の末裔の子孫だということをしっかりと「生活の芯」に持っています。五條元滋氏の小さい頃、通りがかりのおじいさんが「私んところも親王さんの家来で働いたですもんね〜」というエピソードも伺いました。

本当にこの「五條家御旗祭」では、貴重なお話、史料の数々を拝見させていただきました。

ゆかりある人々の気持ちの柱には、今も「金烏の御旗」があり、毎年文書や鎧を確認すると共に、五條家を中心に「南朝の家臣の末裔」という心も、一緒に確認しているように感じました。

安部龍太郎と八女市そして太平記

五條家御旗祭のあと、五條元滋氏のトークセッションに参加いたしました。その対談相手はなんと、直木賞作家の安部龍太郎氏でした。実はご出身が八女市黒木町大淵(剣持)とのこと。小さい頃から南北朝の動乱を寝物語のように聞かされ育っています。

「剣持」とはその名の通り、剣を持つ役割で、このあたりに住む方々は良成親王を補佐した末裔と想像されます。ご自身も南北朝や後南朝時代の歴史小説を数多く書かれており、いわば「安部龍太郎版太平記」でもあります。

この地で育った安部氏だからこそ、日本人にとって「天皇」という、とても大きく難しいテーマを考えられていました。

今回はお二人に加えて、聞き手に八女市田崎廣助美術館館長 持丸末喜(もちまる・すえき)氏が務めました。

内容はふるさとの思い出、上京してから作家を目指すまでの軌跡、そして現在までをエピソードを交えてお話いただきました。またどう生きるのか、ということを2時間、前のめりで聞かせていただきました。

南北朝時代はなぜ起こったのか、ということや。元寇(げんこう)がきっかけとなり、宋との貿易や商業流通による争いなどの、安部氏の持つ歴史観・世界観を伺いました。

八女市のみならず、日本史・世界史を俯瞰(ふかん)しながら、歴史観を考えるという視点は、私の中では考えに及ばなかったものでした。加えて「南北朝時代とは?」「日本史と世界史を分けずに考える」そして、中でも私の背中を押してくれた言葉は「郷土史を教える」というものでした。

現在宗像(むなかた)市の歴史観光ボランティアガイドとして活動している自分にとって、まさに!というもの。「地元に住んでいてこんなすごい歴史があるなんて知らなかった」というお声を聞く。そこから民話や伝承をもっと知りたい、史跡を訪れてみたいという方も多く、私もその一人です。

小・中学校で郷土の偉人や歴史をさらっと習いますが、成長するにつれて関わりが薄れていきます。後に、自分が遊んでいたあの公園は実は歴史公園で、すごいところに住んでいたんだ、ということもしばしば感じます。

このようなことをより多くの方に知ってもらいたく、記事やInstagramで発信と、私なりの「現代版語り部」という活動をしています。

知っているようで知らない郷土のことを、誰かの心に残るように発信をしていこうと、強く思った取材となりました。

*写真は全て筆者撮影

情報

場所:八女市指定文化財「五條氏邸」
〒834-1202 福岡県八女市黒木町大淵3932
交通アクセス:八女ICから車で約60分

久田一彰

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