キリスト教の聖典を、人類共通の財産として読み直す──若松英輔さんが読む『新約聖書 福音書』【NHK100分de名著】
『新約聖書 福音書』を、批評家・随筆家の若松英輔さんがやさしく解説
あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である──
弱きもの・小さきものに寄り添ったイエス・キリスト。
批評家・随筆家の若松英輔さんが『新約聖書』に収められた四つの「福音書」を読みとくNHK『100分de名著』テキストでは、その言葉の奥にあるものを辿ることで、キリスト教の聖典を人類共通の財産として読み直します。
今回は本書「はじめに」より、そのイントロダクションをご紹介します。
神のコトバと対話し、自分自身と向き合う(はじめに)
今回、皆さんと読み進めていく「福音書(ふくいんしょ)」は、じつは一冊の本ではありません。そもそも「福音書」という名前の本も、本来は存在しないのです。
『新約聖書』を知る人は少なくないと思います。キリスト教の聖典です。キリスト教という宗教は、この本から生まれたといってもよいくらいです。
この本を開くと「マタイによる福音書」という題名が目に入ってきます。それが終わると「マルコによる福音書」が始まり、その次には「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」と続きます。これら四つの文章をまとめて「福音書」と呼びます。
四つの福音書で描かれているのはイエスの生涯です。記されていることは同じではないのですが、四つの福音書はそれぞれ、イエスという人物がどのように生き、何を語ったか、あるいは語らずに体現したのかを描いています。つまり、これから読むのは、長く伝承されてきたイエスという人間の一生の軌跡(きせき)なのです。
「生涯を読む」という試みには、一つ一つの事実を確認することに終わらない何かがあります。私たち自身の一生もそうなのではないでしょうか。語ったことよりも、語り得ないことのほうが、人間の一生には多い。言葉にならなかった真実、それを見過ごしてしまっては、「生涯を読む」ことはできません。
さて、「福音」とは何でしょうか。 「福」は「よろこび」、「音」とは「知らせ」を意味します。つまり、福音とは「よろこびの知らせ」なのです。この本における「よろこびの知らせ」とは何か。それは、救世主(世を救う者)が人の姿をして世に現れたということを指しています。神という、人間からは遠く離れた彼方(かなた)にいるはずの存在が、人の姿をして生まれ、私たちと苦しみをともにし、生きるとは何かという、人生でもっとも大切なことをじかに教えてくれた。何にも勝る「よろこびの知らせ」にほかならない、ということなのです。イエスこそ、その救世主なのです。
しかし、ここで大きな疑問が湧いてきます。「福音書」はキリスト教徒、キリスト者にとっては「よろこびの知らせ」かもしれないが、それ以外の人にとってはそうではないのではないか。キリスト者以外の人が読んでも、そこに意味あるものは見いだせないのではないか、そんな声も聞こえてきそうです。
こうした問いには歴史に応えてもらうのがよいかもしれません。インドの独立運動において指導的な役割をになったガンディーは『新約聖書』を愛読し、イエスに深く学びました。詩人のリルケは、宗教としてのキリスト教に非常に懐疑的でしたが、やはり『新約聖書』を愛し、ある若者にこの本と深くつながることを強くすすめています。
『新約聖書』がなければキリスト教がここまで広まることはなかったと思います。しかし、この本、そしてその中核をなす「福音書」は、キリスト者以外の多くの人に読まれ、さまざまな影響を及ぼしてきました。キリスト者にとって聖典であることと、それが開かれた書物であることは矛盾しません。キリスト者以外の人だからこそ読み解ける言葉がこの書物の中に豊かに備わっていたとしても驚くべきことではないように思います。
「福音書」を、読んでいくうえで、キリスト教に関する知識は必ずしも必要ではありません。むしろ、先入観や知識は邪魔になることすらある。それよりも、あなた自身の苦しみや悲しみ、嘆きといったさまざまな経験をよき導き手として、それぞれの「イエス」と出会ってみてほしいのです。「福音書」を読むとは、読者それぞれの「わたしのイエス」を発見することなのです。
「福音書」は難解な書物ではありません。しかし、なかなか「読み終わらない本」でもあります。これから皆さんと「福音書」を読む旅に出かけるのですが、その前に幾人かの先人の言葉を紹介したいと思います。この旅に向き合う態度の参考になると思うのです。次に引用するのは、民藝(みんげい)運動の指導者として知られる柳宗悦(やなぎ・むねよし)が、若き日に書いた『神について』という本にある一節です。
福音書は文字によって読まれてはならないのです。あの夥(おびただ)しい経巻(きょうかん)は、文字を越えようとする文字なのです。言葉なき境にその言葉を読まないなら、真理の扉を開くことはできないのです。総(すべ)ての経典は言わざる言葉なのです。人は字義に囚(とら)われるにつれて字義から離れるのです。
(柳宗悦『柳宗悦宗教選集 第二巻 神について』)
文字をなぞっているだけでは十分ではない。文字の奥に言葉を超えたもう一つの「コトバ」を感じなければならないというのです。言葉なき境の「コトバ」を読む。
これから「コトバ」と書くときは、文字や声といった言語には収まらない意味の顕(あら)われを意味することにします。「福音書」を読むときは、文字や声になる言葉だけでなく、コトバも感じ得るような心を準備する必要がある、ということです。
「福音書」を読むとき、文字だけを追っていくと、大きな矛盾に直面し、投げ出したくなるかもしれません。しかし、矛盾が矛盾に終わらないことがあることも、私たちは人生の現場で経験しているのではないでしょうか。
次に引くのは、ロシアの文豪、ドストエフスキーが、ある手紙の中で書いている言葉です。イエスがどれほど特異な人物だったのかということが、じつに魅力的な筆致で描かれています。
信仰箇条(かじょう)と言うのは、非常に簡単なものなのです。つまり、次の様に信ずる事なのです、キリストよりも美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適(かな)った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。実際、僕は妬(ねた)ましい程の愛情で独語するのです、そんなものが他にある筈(はず)がないのだ、と。そればかりではない、たとえ誰かがキリストは真理の埒外(らちがい)にいるという事を僕に証明したとしても、又、事実、真理はキリストの裡(うち)にはないとしても、僕は真理とともにあるより、寧(むし)ろキリストと一緒にいたいのです
(ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡 小林秀雄「カラマアゾフの兄弟」『ドストエフスキイの生活』)
「真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたい」という言葉は印象的です。人間が認識する真理よりも、もっと大事なものをイエス・キリストは教えてくれるというのです。人間は「ただ一つの真理」を追究しようとしがちだけれど、そこにとどまらない場所にイエスは導いていってくれるのではないか。私はそこに行きたいのだと、ドストエフスキーは言っているように思います。
次に引く一節は、詩人で音楽家の近藤宏一(こんどうこういち)の言葉です。彼は、かつてハンセン病をわずらっていました。今、日本においてハンセン病は完全に治癒する病であるだけでなく、発症する可能性も極めて低くなっています。しかし、彼が若いときは状況が違っていました。病のため彼は視力や指の感覚も失ってしまいます。
目が不自由な人は点字で書物を読む。指を使えない彼は点字を読むことも難しい。しかし、あることがきっかけで彼は「どうしても自分で聖書が読みたい」という内面からの強い促しに突き動かされ、舌で点字を読むという手段を取るのです。点字には凹凸がありますから、やがて舌は傷ついて血まみれになってしまいます。それでも構わず読み続けた。その思いを彼はこう記しています。
私は聖書をどうしても自分で読みたいと思った。しかしハンセンで病んだ私の手は指先の感覚がなく、点字の細かい点を探り当てる事は到底無理な事であったから、知覚の残っている唇と、舌先で探り読むことを思いついた。これは群馬県の栗生楽泉園(くりうらくせんえん)の病友が始めたことで、私にも出来るに違いないという一縷(いちる)の望みがあったからである。
(近藤宏一『闇を光に』)
『新約聖書』を開くとき、いつも彼の姿が思い浮かびます。彼の試みは、「あたま」で言葉を理解しがちな現代人への良き戒(いまし)めになっているように思うからです。
本を読むときに「わかった」と思うことは、とても恐ろしいことなのかもしれません。「わかった」と感じるとき、人はそれ以上探究しなくなるからです。「福音書」を読むときも同じです。大切なのは「わかった」という過去形ではなく、常に「わかりつつある」という状態に自分を置いておくことなのかもしれません。
血まみれの舌で聖書を読んでいる近藤宏一の姿は、容易に「わかった」と思うことの危うさを教えてくれると思うのです。彼にとって「読む」とは、意味を味わうことでした。「読む」ことをめぐって彼は同じ文章で、こんなふうにも書いています。
ある者は点字聖書の紙面に舌先を触れて、直接神のことばを味わうでしょう。
(同前)
私たちも「福音書」を読むときは、書かれていることを単なる情報として受け止めるのではなく、言葉だけでなく、その奥にあるコトバを深く味わいたいと思います。読むという営みそのものが一つの経験となって、これまでの自分を超えた「本当の自分」に私たちを導いてくれる。「福音書」を読みながら、皆さんと一緒にそんな「経験」をしてみたいと考えています。
人生のある時期までは、読んだ本の数を誇るような傾向があるのかもしれません。しかし少し年齢を重ねてきて私は、「読み終えることができない」「読み終えたなんてとても言えない」、そう感じる本と出会うことも、読書の醍醐味(だいごみ)だと感じるようになってきました。多く読むのではなく、深く読むのです。内容を知的にだけ理解するためではなく、深く心で味わうために読む本。今回取り上げる「福音書」が、皆さんにとっての、そんな「読み終えることができない」一冊になることを願っています。
講師
若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家
著書に『詩集 見えない涙』(亜紀書房)、『小林秀雄── 美しい花』(文藝春秋)、『悲しみの秘義』(文春文庫)、『種まく人』『詩集美しいとき』(亜紀書房)、『学びのきほん はじめての利他学』『14歳の教室── どう読みどう生きるか』(NHK出版)などがある。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 『新約聖書 福音書』2024年8月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『新約聖書 福音書』からの引用は、『新約聖書 原文校訂による口語訳』(フランシスコ会聖書研究所訳注、サンパウロ)に拠ります。引用箇所には、福音書名とその章・節を記しています。例えば、(「ルカによる福音書」2・8-14)は「ルカによる福音書」の2章8節から14節の引用であることを表します。