村上春樹がデビュー以来一貫して書き続けるテーマとは?【読めない人のための村上春樹入門】
村上文学の魅力を読みやすい文体で解説し、作家像を一新する入門書『読めない人のための村上春樹入門』が発売されました。「自由の困難さ」というテーマを軸に、『ノルウェイの森』や『1Q84』などのベストセラーから「ドライブ・マイ・カー」などの短編やエッセイ、インタビューに至るまで幅広く紹介しながら、村上作品の魅力と本質をゼロから解説する本書より、「はじめに」を抜粋して公開します。
苦しみ悩む人々に寄り添い、人生と向き合えるよう背中を押す文学
本書は二種類の「読めない人」を想定して書かれております。
ひとつには、有名な村上春樹の作品が気になっているけれど、日常忙しくて読み始められない方。もうひとつには、すでに村上春樹の作品の読者ではあるけれど、読み終えられていないとか、村上の描く世界になじめないとか、村上作品の良さがよくわからないと首を傾げている方々です。もっと言えば、たいていの村上作品を読んではいるが、いまひとつ理解しきれず消化不良だと感じている方々も、本書の読者になりそうです。
村上春樹は、現代日本の作家の中で圧倒的な人気を誇る存在です。『ノルウェイの森』(一九八七年)は国内で累計一千三百万部が発行されていますし、ほとんどの長編はミリオンセラーになっています。ある雑誌の村上春樹特集号によれば、国内で発行されたものだけでも、村上春樹作品をすべて積み上げると高さは一七八〇キロメートルになり、国際宇宙ステーションを通り越してしまうそうです(『BRUTUS』二〇二一年十一月号)。
国内でも十分知名度の高い作家ですが、現在では海外での人気のほうがむしろ驚くべき規模になっています。詳細は本論に譲りますが、村上作品は英語圏だけでなく、アジア、ロシア、旧ソ連圏やヨーロッパでもベストセラーになっています。村上春樹以上に世界文学の名に値する作品を書く日本人作家は現存しないのですが、これほど海外で読まれ、文学的にも評価されているという事実は、国内の人々にそれほど知られていません。
英語で書かれたハルキ・ムラカミ研究論文は数えきれないほどあり、ムラカミ研究者や翻訳者が集う学会は世界中で開催されています。日本語や日本文化に関する授業を提供する大学は海外にも多数ありますが、学生に日本について学ぶ動機を与えているのは多くの場合、「ミヤザキ」か「ムラカミ」です。ジブリアニメか村上春樹のどちらか、または両方に強い関心があって、彼らは日本に興味を持つようになるのです。
このような日本人作家がいるという事実は「おおごと」です。いくら謙虚で自慢しないことが日本人の習慣であったとしても、この「おおごと」と向き合い、その意味を自分なりに考えてみることは、私たちにとって価値のあることではないでしょうか。
デビュー以来一貫して同じテーマを扱う村上作品
村上作品は確かに、スムーズな理解を許さないところがあります。主人公がエレベーターで突然異次元の世界に送られたり、枯れた井戸の底に降りて引きこもったり、巨大な蛙がしゃべったりします。驚くようなストーリー展開と思わせぶりな比喩の頻出に、ついていけないと感じて通読を断念した読者もいるでしょう。しかし丁寧に読んでいくと見えてくるのは、村上春樹はデビュー以来一貫して同じテーマを扱っているということです。
それは、「自由を生きる」ということです。自由をテーマにした文学と言うといくぶん平凡に聞こえるかもしれませんが、村上春樹は、「権力に抵抗しろ」「逃走して自由になれ」といって読者を煽るわけでも、「自由に生きるべきだ」と説教するわけでもありません。むしろ、世の中では少数派に属するタイプの人間を主人公として、自由に生きることの困難を描いているのです。
もちろん、だから人間に自由なんてないんだ、と開き直るような態度とは、村上は無縁です。皮肉な態度で世の中を眺めるような村上作品の登場人物を思い浮かべた方もいるかもしれませんが、そこで自由の追求が断念されているわけではない。村上は、様々な人間の様々な側面を描くことによって、彼らの何が不自由なのか、何に気づけば彼らはその不自由を克服できるのかを、読者自身が考えるための俯瞰的な視座を提供しているのです。こうした観点から、村上作品の勘所と、読み方のコツを伝えることが本書の目的です。
自由についての理解がなぜ重要なのかといえば、それは、日本に生きる私たちの多くが、自らの自由を疑っていないからです。それは無理もないことで、世界を見渡せば確かに日本は恵まれています。独裁政権ではないし、発達した科学技術のおかげで便利だし、衣食住など物質的な面での豊かさもあるし、望めば様々な教育も受けられる。そのような環境では、自分は不自由を被っているかもしれない、などと立ち止まって考える機会はなかなか訪れないでしょう。あわただしい日常のうちに年月は過ぎていきます。
しかし晩年に及んで、人はふと思うかもしれません。「もう少し人生を楽しんでもよかったのではないか?」「もう少し冒険してみてもよかったのではないか?」と。そういえばさほど楽しめなかった、もっと冒険してみたかった、と感じるなら、それは自らの思考を妨げる何かが、存在していたせいかもしれない。そして人は思うでしょう。「どうしてもっと早く気づかなかったのか」と。知らないことを知らない、または知ろうとしないままでいると、人生に要らぬ苦労を引き込みかねません。村上文学は、私たちが自由に生きられるはずなのにそうしていないことに、様々な角度から気づかせるのです。
村上春樹とその文学を見直す
私は東京女子大学の英文学科を卒業後、文学の勉強を続けるためにオーストラリアの大学院に留学しました。そこでの研究生活で私に求められたのは、「科学的根拠」から思考を出発させる習慣を徹底する、ということでした。科学的根拠は「客観的事実」とも言い換えられます。そして、「論理的整合性」。これらを根本的な原理として論文を書かないかぎり、どんなに独創的だと思われるアイデアでも、査読では「非学問的」と評価されて、はじかれてしまいます。私もそのルールに則って学問的に、研究として、村上春樹について書きたいことを思う存分に博士論文に書いて学位を取り、日本へ帰って来ました。論文で主張したことは、本書中ではたとえば第四章に、いくらか生かされています。
村上春樹研究で一定程度の達成感を得る一方で、私は、文学の「大切な部分」に迫るには別のやり方があるのではないかと、うすうす感じていました。こうした「研究」のスタイルでは捉えられない文学の「真実」がある気がしたのです。一般的に言って、研究は科学的根拠を絶対視して、より多くのデータを集め、統計をとって、そこから見えてくる傾向を真実と捉えます。その方法でなければたどり着けない真実もあるでしょう。しかしその方法ではたどり着けない真実もあるのです。
そもそも文学研究の道へ進んだきっかけは、文学が見せてくれる世界に「リアルな答え」を発見したと感じたからでした。自分とは何者か、人生とは何か、なぜ人は苦しむのか、という思春期以降の疑問に対する答えが、百年以上前に書かれたり、遠く離れた国で書かれたりした文学の中にあると気づいたからです。日本での学生時代には、定番の夏目漱石、芥川龍之介、太宰治から、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、サリンジャー、カポーティまでむさぼるように読みました。その中で村上春樹にも出会います。
文学の登場人物の多くは、時代も社会も性別も文化も言語も身分も、読者の自分とは異なります。にもかかわらず、彼らに共感を覚えるとき、自分や人生についての疑問が解消されるという体験を繰り返してきました。他者の声にじっくり耳を傾けることで、他者が自分の鏡像のように現れてきて、それを見つめることで自己理解が深まる。そして自己理解が深まると、苦悩が軽減すると知りました。科学的研究は個々の声に耳を傾けることに必ずしも関心を向けませんが、文学は、苦しみ悩む人々に寄り添い、人生と向き合えるよう背中を押す作用をもっています。私は、研究として読むことで、そのような文学の「真実」から離れてしまうのではないか、「だとしたらそもそも文学に研究って必要なのだろうか?」とまで感じることがありました。
村上春樹は各国の大学で研究される世界的ベストセラー作家ですから、関連する書籍もたくさん刊行されています。村上春樹という人物の半生を詳細に紹介したものや、村上作品の表現技法を客観的に論じたものなど、様々な角度から村上やその文学についての本が書かれてきた一方で、「苦しみ悩む人々に寄り添い、人生と向き合えるよう背中を押す文学」としての村上文学の性格がどれほど探求されてきたかというと、まだまだ足りない。本書はこうした観点から、村上春樹とその文学を見直していきます。
村上春樹が発信し続けてきた思想とは?
文学は、特定の人物をじっくり観察し、その声を詳細に語ります。その手法を通してでなければ伝えられない真実があるからです。村上春樹も、個々の人間の声にじっくり耳を傾けます。その姿勢は、彼がオウム真理教について調べたときに現れました。
村上は一九九五年の地下鉄サリン事件をきっかけに一連のオウム事件に強い関心を抱きます。裁判を傍聴し、サリン事件の被害者六十二人と、事件当時は教団に所属していた八人の元信者にインタビューを行い、『アンダーグラウンド』(一九九七年)と『約束された場所で』(一九九八年)という作品に収めました。村上がサリン事件の被害者にインタビューすると決めたのは、教団の首領・麻原彰晃や実行犯たちに関する洪水のような報道の中で、「被害者」たちがひと括りにされ、彼らの個々の声が拾われていないことに気づいたからでした。その理由をこう言っています。
そこにいる生身の人間を「顔のない多くの被害者の一人(ワン・オブ・ゼム)」で終わらせたくなかったからだ。 (『アンダーグラウンド』27―28頁)
そして村上は、事件当日の彼らの体験談のみを記録しようとはしませんでした。取材にあたり、彼らについてその個々人の背景からまず知ろうとしたと言います。
僕はもちろん事件に興味があったから、この取材を始めたわけなんですが、でも本当に興味があったのは人間なんです。〔中略〕どこで生まれて、どんな家庭で育って、どんな子供で、学校で何をして、いつ結婚して、子供が何人いて、何が趣味で、会社はどんなで……そんなことを延々話していました。 (『約束された場所で』271頁)
ニュースは、実行犯がいかに恐ろしい人間たちで、この事件がいかに残虐なものなのかを報道しはじめ、そのために必要な情報を集めるようになります。しかし村上が関心を向けたのは、個々の人間の語る物語でした。そこに大切なものが含まれていると信じたからであり、それを聞いた結果、村上は相手を好きになっていったと言います。
僕がこの仕事から得たいちばん貴重な体験は、話を聞いている相手の人を素直に好きになれるということだったんじゃないかと思います。(同278頁)
これは小説を読む体験に似ています。小説を読んで読者は、自分とは何の関係もない登場人物に感情移入したり、共感したりします。そして多くの場合、読者は主人公を好きになり、彼らに寄り添いたくなったり、その人生を応援したくなったりします。しかし、報道の中で「多くの被害者の一人(ワン・オブ・ゼム)」として扱われる人々に、視聴者が共感を抱くことはまずありません。〈その人も自分と同じように悩んだり人を愛したりする生身の人間である〉という当たり前の事実を忘れ、自分とは無関係な誰かとして眺めるにとどまってしまうのです。〈我が事〉として真剣に向き合おうという意欲はわいてきません。
村上は彼らの物語をじっくり聞くことで、ファクト(事実)よりも、真実が知りたくなったと言います。
僕はこの本を書いている途中から、事実そのものをあばいていくことにはあまり興味が持てなくなったんです。それよりはその人たちの立場に身を置いてものを見て考えていくことのほうに興味が移りました。 (同280頁)僕はあくまで断りつきでですが、ファクトよりは真実を取りたいですね。世界というのはそれぞれの目に映ったもののことではないかと。そういうものをたくさん集めて、総合していくことによって見えてくる事実もあるのではないかと。 (同282頁)
客観的な事実より、「それぞれの目に映ったもの」という「真実」に価値を置く。これが村上春樹という小説家の態度です。この態度が滲にじみ出る彼の作品にこそ世界中の読者が魅力を覚えているとみるのが、本書の基本的な立場です。
村上は「それぞれの目に映ったもの」、そして個々の語りが持つ力を信じます。ここに、村上の考える「自由」との関わりがあります。本論で様々な角度から見ていきますが、核心を先取りして言えば、人は自らの持つ固有の物語に価値があると信じるとき、それを自らの「力」とします。その力は、自由を生きるうえで、欠かすことのできないものです。
これと対照的なのが、自由を自らの外に求める態度です。村上のインタビューによれば、オウム真理教の信者たちは、自由を得ようとして、絶対的な教祖に帰依することを選んでいました。絶対的なものへの帰依は、自由の放棄にほかなりません。こうして彼らは主体性を奪われ、反社会的な価値を信じる世界へ導かれていくことになります。
現代を生きる私たちは、これを過去の話として片づけるわけにはいきません。オウム事件のころ情報化社会と呼ばれていた世の中は、その後のインターネットとSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及によって今や情報過多社会とも呼ぶべき状態に移行しています。物語はいくらでも外から与えられます。内なる物語を信じるというような、時間と労力を要することは、もはや容易ではなくなっているのです。
本論では、村上春樹の主要な作品を取り上げ、また、エッセイやインタビューから広く手がかりを集めて、村上の文学を自由というテーマで読み返していきます。一九七九年のデビュー以来、村上春樹が発信し続けてきた思想には、現代を生きる私たちであれば、誰もが共感してしまうものがあり、それを知れば村上文学の世界的な人気の理由にも納得したくなるでしょう。核となる部分には、「自由を生きる」という価値があるのです。
これまで村上作品を「読めなかった」方、そして「読みきれなかった」「消化不良だった」方は、ぜひ本書をめくってみてください。村上春樹という巨大な存在をめぐって、きっと靄の晴れるような思いをしていただけるはずです。
仁平千香子
1985年、福島県生まれ。文筆家、フリースクール東京y’sBe学園実学講師。東京女子大学文理学部英米文学科卒業後、豪ウーロンゴン大学人文学部で修士号、シドニー大学人文学部で村上春樹研究の博士号を取得後、山口大学で8年間講師を務める。著書に、Haruki Murakami: Storytelling and
Productive Distance(Routledge)、『故郷を忘れた日本人へ:なぜ私たちは「不安」で「生きにくい」のか』(啓文社書房)など。