第3回【東宝映画スタア☆パレード】 森繁久彌(前編)☆ 権威や体制に抗った喜劇俳優
今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
セクハラやコンプライアンスなる概念、ましてや「Me Too」運動など、影も形もなかった時代に生きた俳優、森繁久彌。女性に対する奔放な言動でも知られるが、当事者たちから反発がなかったのは、その生き様が軽やかで清々しいものだったからに違いない。
芸歴においても、映画のみならず、舞台、テレビ、ラジオ、歌(作曲)、声優など様々なジャンルで誰もが知る代表作をもつ人間など、森繁をおいてほかにない(※1)。
森繁久彌を語るとき、真っ先に取り上げられるのが『社長』と『駅前』の両シリーズである。実際1960年代の東宝のプログラムは、これらの森繁喜劇を中心に回っていたといっても過言ではない。『社長』ものは正月興行を任されることが多く、『駅前』の方も年二本のペースで連作され、61年以降は主にクレージー映画(※2)とのカップリングで東宝の屋台骨を支えた。
森繁の次男・建(たつる)氏は、「黒澤明があんなにお金をかけて映画を撮れるのは、おれが社長シリーズで稼いでいるからだ」と父が言い放つのを、直接その耳で聞いている。かねて、人足Aとして配役された『七人の侍』に出演しなかった森繁であるから、黒澤明という〝権威的なるもの〟への反発心があったことは確か。実際、黒澤作品への出演は一本もない。
共に『次郎長三国志』に出ていた加東大介(※3)が、黒澤の命により『七人の侍』に引き抜かれていくのを目の当たりにしたことが、反発の引き金となったとも考えられるが、これに関する森繁の発言は残されていない(※4)。
黒澤に反抗したのは森繁だけではない。社長シリーズの盟友・三木のり平は、『天国と地獄』(63:併映は『続社長漫遊記』)で江ノ電の運転手役(実際には沢村いき雄が演じた)にキャスティングされた際、オファーしてきた助監督の「あんたを黒澤映画に使ってやる」的な〈上から目線〉の態度に立腹、出演をきっぱりと断ったと自著で明言している。
これに対し、森繁とは腹を割った間柄だった山茶花究が『悪い奴ほどよく眠る』(60)と『用心棒』(61:併映は『社長道中記』)に、駅前シリーズの相棒・伴淳三郎が『どですかでん』(71)に出演。それぞれ儲け役を得たのは、映画ファンならよくご存知のことであろう。
当の森繁は、『三等重役』や『次郎長三国志』シリーズ(森の石松役)でのブレークにより、昭和20年代末には東宝のみならず、新東宝、大映など複数の映画会社を行き来する人気俳優となっていた。1953(昭和28)年に「五社協定」(俳優等の引き抜き禁止に関する申し合わせ)が結ばれたのは新生日活への対抗策であったが、まさに森繁のような活動(すなわちギャラアップ)を規制するためのものでもあったのだ。
かくして東宝は、森繁を傍系会社にプールするという手に出る。これが「東京映画」で、監督では川島雄三や佐伯幸三、俳優ではフランキー堺や伊藤雄之助、山崎努(意外!)、淡島千景、淡路恵子、池内淳子、乙羽信子などが所属。『駅前旅館』(58)に始まる駅前シリーズもここでつくられている。
奔放な言動で知られた森繁だけあって、会社や監督には様々な場面で物議を醸す発言を残しているが、何はともあれ『夫婦善哉』(55:豊田四郎監督)の話をせねばならない。
▲「僕をぶったたく役が多かった」という淡島千景とは、その後も駅前シリーズ等で共演を重ねた
(イラスト:Produce any Colour TaIZ/岡本和泉)
東宝が織田作之助の代表作を映画化するにあたってセットしたのは、淡島千景との共演であった。ところが、淡島が所属していた松竹は(いかに彼女が宝塚出身とは言え)東宝作品への出演をなかなか容認せず、女房役は有馬稲子へとシフト。有馬の張り切りようは彼女の自伝的書物に詳しいが、東宝は非情にも『夫婦善哉』製作中止の断を下す。
このとき森繁が取った行動は、まさに東宝に対する痛烈な〈反抗〉だった。「(法善寺横丁のセットに)予算を使い過ぎたので見送りになった」と言い訳をする森岩雄取締役に対し、「そんなずさんなことでよく所長が務まりますね」(※5)と言い放った森繁。よほど腹の虫が治まらなかったのか、遂には他社の映画に出まくるという挙に出る。
結果、1955年の公開作は何と十八本(※6)。「もう東宝には戻らないつもり」で出た『警察日記』(のちに名コンビとなる久松静児監督作)を皮切りに、出演した映画は日活七本、新東宝七本、東宝二本、東京映画二本と、ほとんどが他社作品。協定破りの是非を問われた森繁が放った言葉は「東宝は本妻、新東宝は二号で、日活は最近気移りした三号」なる一言。このままでは日活に引き抜かれてしまうと恐れた東宝が、森繁にかけた言葉は「俺たちは待っている」であった。
東宝への謀反が奏功し、結局『夫婦善哉』は淡島との初共演作として実現。その後の役者としての方向性を決める役柄を得た森繁だが、他の映画での役柄の多様性には驚くばかり。
いわゆるアチャラカ喜劇から東宝お得意のサラリーマンもの、さらには青春映画に時代劇、チャンバラやくざものからシリアスな社会派作品と、それこそジャンルを問わず、悪役・ペテン師に至るまで森繁が様々な役をこなしたのは、「すべて観客へのサービス精神によるもの」と断ずる建氏。普通、豊田四郎や久松静児の文芸映画で評価された役者は、悪ノリ=ドタバタの極致『スラバヤ殿下』(筆者はこれを心から愛する者だが)などには出ないもの。これも、森繁の喜劇役者としての矜持・美学の表れと見れば納得がゆこう。
ちなみに、森繁の社長シリーズのギャラは「正続篇二本で一本半分」の額。これは〝二本撮り〟の『次郎長三国志』も同様で、案外こんなところに森繁の会社への反発の原点があったのかもしれない。
後編となる次回は、森繁がかの大監督に反逆の狼煙を上げたお話を。反骨精神は東宝や黒澤明に向けられただけではなかったのだ……。
※1 国民栄誉賞と文化勲章を併せて受けた喜劇俳優は、今のところ森繁ただ一人。
※2 『無責任』二部作に始まり、クレージーキャッツ全員で出演した『作戦』シリーズ、植木等主演による『日本一(の男)』シリーズの他、時代劇シリーズがあった。
※3 加東は監督のマキノ雅弘の義弟にあたる。念願の役だった三保の豚松は、マキノにより脚本が書き換えられ、殴込みの際に「殺されて」しまうことに。
※4 同じく出演拒否した古川ロッパは、「あんまりひどい役で呆れた。金も安いに違いない」と日記に綴り、その理由を明らかにしている。
※5 森岩雄を撮影所長とみなしての発言。しかし、当時の所長は雨宮恒之。森は製作本部長であった。
※6 日活では森の石松まで演じる無軌道ぶり。そのほとんどが主演作というのが凄いが、いったい、いつの間に撮ったのか?
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。