北海道・深名線廃止30年。幌加内町を北上し、長い月日を感じながら出会えた遺構たち【上幌加内駅跡~名寄駅編】
JR深名線の廃止から30年経ち、廃線跡は農地などへ消えていましたが、幌加内町内を北上していくと点在する遺構に出会えました。なお、過去写真も紹介しています。年号がないものは2025年9月に撮影したものとなります。
木々の合間を凝視すれば廃線跡が見えてくる
上幌加内(かみほろかない)駅の跡をじっくりと観察したあとは、国道275号に沿って幌加内町を北上します。今さらながらの話ですが、深名線はJRバス深名線となり、公共交通機関としては生きています。が、本数は極端に少なく、廃線跡をたどりながら進むにはどうしても車となってしまいます。
上幌加内駅の次は政和(せいわ)駅でした。現役時代の上幌加内~政和間には、雨煙別(うえんべつ)、政和温泉という廃駅がありました。雨煙別駅は駅舎もありましたが、政和温泉駅は板張りのホームのみでした。
雨煙別駅跡付近へ到着。駅跡どころか、いまや線路ごと草木に没していますが、生い茂る木々を見つめていると、車両の幅ほどに若干空間があるのに気がつきます。地面には僅かながらバラストが残り、踏切であった道路脇には警報機の土台が埋もれ、辛うじて「ここが線路の位置か」と分かりました。
雨竜川を挟み、国道と廃線跡は併走します。周囲は山々が迫ってきて農地が少なくなり、峠のような様相となります。対岸の廃線跡は斜面にへばりつくようにあって、擁壁のコンクリートが確認できました。さらに雨竜川は道路へと近づき、対岸の廃線跡も手に取るように判別できます。雨竜川と山の斜面がせり出す狭隘池には、第三雨竜川橋梁が保存されています。
“ポンコタン”と呼ぶ雨竜川の渓谷に緑色のトラス橋は残る
今まで駅跡とわずかな廃線跡、上幌加内駅のちょっと残る線路を見てきましたが、ここにきて巨大な遺構に出会えました。第三雨竜川橋梁のプラットトラスと上路式プレートガーダ―です。
第三雨竜川橋梁は狭隘地に架けるため、吊橋状にして足場を吊って架橋するケーブルエレクション工法(吊足場式架設工法)が、道内で初採用されました。この地はアイヌの人々にとって神の宿る神聖な場所や集落を表す「ポンカムイコタン」、「ポンコタン」と呼ばれ、幌加内町民は第三雨竜川橋梁のことを「ポンコタン鉄橋」と称していました。
また深名線のキハの雄姿を捉える撮影派鉄道ファンには、渓谷に架かるトラスと手前にプレートガーダーという“絵になりやすさ”から有名な撮影地となっていて、私は何度も訪れて撮影した思い出深い場所です。ここは丘の上から撮るのですが赤い蟻の巣があって、よく噛まれて痛かった思い出があります。
第三雨竜川橋梁は急峻な地形に架かるゆえ、廃止後真っ先に解体されるのかと思いきや、幌加内町で撤去か保存か検討されて深名線の語り部として保存が決まり、整備補修のうえ保存されています。ケーブルエレクション工法で建設されたこともあり、土木学会の推奨土木遺産にも指定されました。
なおこの場所は、道の駅と幌加内せいわ温泉ルオントから徒歩で訪れることができます。深名線バスで下車して鉄橋を観察後に温泉で癒やされ、レストランで名産の幌加内そばに舌鼓を打つ。そんな遺構散策が手軽に体験できます。
思い出のある駅舎は原形が分からないほど改造された
政和温泉で一休みする、あるいは一気に名寄駅まで廃線跡をたどる、どちらの選択肢でも良いと思いますが、国道沿いは飲食店が極端に減っていきます。政和駅に残る政和駅舎も、廃止後は地元の方が食堂を営んでいましたが、2000年代初めにお店をたたみ、駅舎だけが残されました。
駅舎は農機具倉庫として現存しています。が、正面は大きな扉へと改造されており、駅舎であった証を探すのは難しいです。
政和駅は深名線が現役の頃に「駅寝」をしたことがあります。駅前の農協の方が親切にしてくださって、カップ麺のお湯を分けてくれたり、自転車を貸してくれたりと、あのときの思い出が蘇ってきました。倉庫へ大改造されましたが、解体されずに残ってくれたことに感謝します。
廃線跡はそば畑になり、ところどころ僅かに路盤が見え、細々と跡をたどれます。やがて添牛内(そえうしない)駅跡に到着。ここも駅舎が残存し、地元の方が中心となって保存会を立ち上げています。その模様はまた別稿でお伝えするとして先へ進みます。
廃線跡は農地から外れて途切れながらも続き、雨竜川を渡ると深名線もう一カ所の要衝、朱鞠内(しゅまりない)駅のあった地点へ到着します。駅跡は広い空間となっており、保線関係の建物が当時のまま残る以外は、道路とパークゴルフ場となりました。
朱鞠内駅は幌加内駅と共に駅職員が常駐し、腕木式信号機の音が響く駅でしたが、駅舎もとうに解体され、鉄道のあった証はモニュメントと敷地のみです。
国道から離れた遺構は山深い森へと消える
ところで、朱鞠内駅跡の北側には二手に分岐する遺構があります。廃線跡から西へ分岐するもう一つの路盤も草むしていますが、これは天塩山地を越えて日本海側の羽幌まで至る“予定”であった「名羽線」の跡です。
名羽線は名寄と羽幌の頭文字をとった路線名で、貨物輸送などを目的とした路線でしたが、天塩山地の峠越え箇所を残し、路盤の建設が8割ほど完成した時点で、国鉄の財政難などの理由によって中止となってしまいました。路盤は天塩山地の深い森へと没しています。
さて、深名線の跡へと戻りましょう。廃線跡は旧湖畔駅から人造湖の朱鞠内湖の左手をぐるりと回りながら東へ進路を変え、北母子里(きたもしり)駅、天塩弥生(てしおやよい)駅、西名寄駅、名寄駅へと東進していました。
廃線跡は深い森の中へと吸い込まれ、森はヒグマの生息地です。夏は生命力の強い草木に阻まれ、春と秋はヒグマの動きが活発となるとのことで、無理は禁物です。それに、地図上では記されている林道はゲートがあって通行できず、近寄ることすら困難です。
湖畔~北母子里間は現役時代、宇津内(うつない)、蕗の台、白樺と廃駅が連続していました。宇津内駅は近隣の宇津内ダム建設のため、他の2駅は入植者などのために存在していました。
この3駅の跡には訪れることすら困難ですが、宇津内駅舎は廃駅後に留萌本線の北一已駅舎へと転用されたとのことで、駅舎はいまも現役です。留萌本線は2026年に全廃が決定しています。深名線の廃線跡巡りの跡に北一已駅へ訪れたときも、旅人の姿が数人見受けられました。
日本最寒の地の駅跡は電波塔だった
廃線跡は朱鞠内湖をぐるっと回って母子里(もしり)の集落へ至ります。ここには北母子里駅がありました。母子里は1978年に日本最寒記録マイナス41.2℃を記録した地です。夏でも朝晩はかなり冷え込み、冬は……、言わずもがな。とにかく寒い場所です。
現役時代は最寒地の無人駅で「駅寝(えきね)」をするというのが、一部の旅人に人気でした。野宿旅や駅寝旅の旅人は1990年代でもちらほらと見受けられ、日本全国の駅寝ができる駅をまとめた本『STBのすすめ』も発売されるほどでした。
私は北母子里駅が駅寝に人気だとの情報を得て、冬は生命の危険があるので止めましたが、夏に2回駅寝をしたことがありました。しかし夏でも寒く、とうてい寝られるようなものではありませんでした。
そんな思い出の詰まった駅舎は廃止後に解体され、携帯電話会社の基地局となっています。駅舎の位置には電波塔が物々しく林立し、あの頃の思い出は蘇りにくい光景です。ですが、裏手にはホームが残っていました。
よかった! ここはあの駅寝をした駅で合っていたのだ。痕跡すらないより、何かしら遺構が残っていると安堵するものです。北母子里駅は現役末期こそホーム一面のみの無人駅でしたが、林業や開拓などでにぎわった頃は転車台も備える交換駅で、貨物ホームも2線ありました。
ホーム脇の林の中にはコンクリート構造物が見えます。葉の落ちる春先や晩秋では確認しやすいでしょう。なおホーム跡には政和のポンコタン鉄橋で悩まされた赤い蟻の巣があって、用心しないと服の中にまで蟻が入り込んで噛むので注意してください。
思い出深い北母子里駅を去って名寄方面へと進みます。以前訪れたとき、小学校跡地の脇にバス停が目に入り、横断歩道標識には「□母子里」と縦書きの黄色い看板がありました。駅手前の線路脇に設置して運転士に次の駅を知らせる標識、だと思います。
「北」の部分を消していますが、限りなくその標識に近かったです。今回は見落としてしまったのですが、以前撮影したものをお見せします(ストリートビューでは確認できますね)。
廃線跡と道路はまたもや離れていき、北母子里〜天塩弥生間に存在した深名線最長の名雨トンネル(全長1530m、連続22パーミル勾配)も、深い森で人知れず眠っています。衛星地図ではうっすらと廃線跡の“筋”が森の中に描かれているのが判別できますが、ここを踏破するのは並大抵のことでは難しいでしょう。
峠を越えて名寄市へと入り、山間部から平野部へと景色が変わるころ、天塩弥生駅がありました。天塩弥生駅については次の記事で詳しく紹介します。廃線跡はすっかりと田んぼへと姿を変え、どこに線路があったのか判別できませんでした。
あらためて、廃止30年の長い月日をひしひしと感じずにはいられませんでした。次回は天塩弥生駅跡に“泊まり”ます!
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。