「傷つき」って何?──【学びのきほん 傷つきのこころ学】
精神科医・宮地尚子さんによる「傷とともに生きる人」のための、こころのケア論
人と人との距離感が変わりつつある現代では、誰もが多くの「傷つき」を経験します。
『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、精神科医で一橋大学教授の宮地尚子さんが、トラウマ研究の第一人者として「傷つき」の背景を分析しながら、数十年培ってきた専門的知識を初めて私たちの日常生活に落とし込んで解説します。
現代における、また本書における「傷つき」とは、どういったものを指すのでしょうか。
本書より、宮地さんによる解説を公開します。
「傷つき」って何?
人の心は、衝撃的な出来事に遭遇したときに深く傷つきます。精神医学や心理学の分野では、ある出来事によって心が耐え難いほどの衝撃を受け、その経験により同じような恐怖や不快感が続き、現在まで影響がおよぶ状態のことを「トラウマ」と定義しています。
トラウマは、甚大な自然災害や事故、凶悪犯罪など生命の危機を伴う恐怖に晒された体験や、性暴力など心身の統合を脅かされるような体験から生じる反応です。なかでも、もっともよく知られているのがPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれるものです。トラウマ体験から一定期間たった後も特定の症状が残り、その人の社会活動をさまたげている場合に使われる病名です。
しかし、私たちの心を傷つけ、消耗させるものは、生命を脅かすようなトラウマ体験だけではありません。無視されたり、拒絶されたり、貶められたりすることによって人の心は深く傷つきます。自分の存在が否定されたような感じや、裏切られ感、恥辱感、孤立感や疎外感など、そこにはさまざまな感情が湧きあがります。
実際には無視や拒絶をされていなくても、そのような不安を感じることもあります。人間の心というものは、日々の暮らしのなかで起こる、ちょっとした人間関係のすれちがいや誤解などで傷つくこともある、ひどく脆弱なものなのです。
それにもかかわらず、自分自身も周囲の人たちも、そのような日常の「傷つき」については、見て見ぬふりをしてしまうことがあります。トラウマ体験によって発症するPTSDがケアを必要とするように、日々の些細な「傷つき」であっても、適切なケアをせずに放置したままにしておけば、私たちの身体や気分に不快感をもたらし、場合によっては日常生活に支障をきたすものになります。
本書では、このように見過ごされがちな「傷つき」について、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、「傷つきやすい時代/「傷つく」と「傷つける」/傷つきの練習/傷つきを癒やすには、といった4つのテーマで、「傷つき」について考えていきます。
著者紹介
宮地尚子(みやじ・なおこ)
一橋大学大学院社会学研究科教授。1986年京都府立医科大学卒業。1993年同大学院修了。専門は文化精神医学・医療人類学。精神科の医師として臨床をおこないつつ、トラウマやジェンダーの研究をつづけている。著書に『トラウマ』(岩波新書)、『ははがうまれる』(福音館書店)、『環状島= トラウマの地政学』(みすず書房)、『傷を愛せるか』(ちくま文庫)など。
※刊行時の情報です
◆『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』より抜粋
◆ルビなどは割愛しています
◆TOP画像:Shutterstock