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朝ドラでは“ぼんくら社員” 史実のやなせたかしは有能編集マンだった ※あんぱん

草の実堂

画像 : イメージ(屋台でカストリ酒を飲む人々 1947年) public domain

面接はグダグダで、入社後配属された社会部でも役に立たず「のぶの後押しのおかげで入社できた」と言われてしまった“たかし”。

朝ドラ「あんぱん」では、ずいぶんと「ぼんくら社員」に描かれている“たかし”ですが、実際のやなせ氏は『月刊高知』でマルチクリエイターの本領をいかんなく発揮し、編集部員として、なくてはならない存在でした。

記事の執筆はもちろん、挿絵や似顔絵、得意の漫画にいたるまでなんでもこなし、この時の経験が、のちの漫画家・やなせたかしの誕生に大いに役立ったそうです。

後年、「困ったときのやなせさん」と言われ、さまざまな仕事を請け負っていたやなせ氏。

彼の『月刊高知』編集部時代の働きぶりを見ていきましょう。

アメリカの雑誌に触発され、風呂場で絵を描く

画像 : イメージ(屋台でカストリ酒を飲む人々 1947年) public domain

敗戦後、戦地から無事帰還したものの茫然自失となったやなせ氏は、なにをする気にもなれず、父方の祖母の家に足しげく通っていました。

この頃のやなせ氏はいつもうつむいて歩いており、近所の方があいさつするのもはばかられるほど、人を寄せ付けないオーラを出していたそうです。

しかし、いつまでもブラブラしているわけにもいかず、戦友に誘われるまま、やなせ氏はアメリカ軍の兵舎から出る廃品を集める会社へと入ります。

その会社は、集めた廃品の中からまだ使えそうなものを選び、空瓶で水筒をつくったり、金属類を鍋や釜に変えたりして販売している、今でいうリサイクル業でした。

ある日、ゴミの中にアメリカの雑誌を見つけたやなせ氏は、それらを家に持ち帰りました。

終戦直後の物不足の日本では考えられないような上質な紙に美しい印刷。

洗練されたイラストや漫画を毎日眺めているうちに「絵を描きたい」という情動が湧きあがってきます。
居ても立ってもいられなくなったやなせ氏は、燃料不足で使わなくなった風呂場に机を持ちこみ、一心不乱に絵を描き始めました。

水が出る風呂場は、絵を描くのに都合がよく、しまいには布団まで持ち込んで、風呂場で寝起きするようになってしまったそうです。

子どもの頃、母親のいない淋しさを絵を描くことで紛らわし、転校先では絵をきっかけに友人ができました。

中学時代には、漫画が入賞して懸賞金の一部を、今は亡き弟に小遣いとして渡したこともあり、軍隊時代でさえ、紙芝居や壁新聞の漫画を描いて人々を喜ばせていました。

やなせ氏にとって絵は、自分自身の一部だったのでしょう。

絵を描くことで、やなせ氏は本来の自分を取り戻していったのでした。

独創的な記事で、みごと入社試験に合格

画像 : 昭和20年代の日曜市(追手筋)出典「街路市の歴史」高知市公式ホームページ

来る日も来る日も風呂場で絵を描いているうちに、やなせ氏は「創造的な仕事をしたい」と思うようになっていました。

そんな時、運よく高知新聞社が記者を募集していることを知り、さっそく入社試験に挑みます。

試験問題は高知の「日曜市」を記事にまとめるというものでした。

日曜市の歴史を解説したような、よくあるタイプの記事では面白くないと考えたやなせ氏は、

「市場に来ている人たちにインタビューしてみたら、みんな高知新聞社の受験者だった」

というオチの短編に仕上げました。

そんな独創的な記事が評価され、結果はみごと合格。70人中5人という狭き門を勝ち抜きました。

こうしてやなせ氏は、父親と同じ新聞記者の道を歩むことになったのでした

社会部に配属されるも、すぐに『月刊高知』編集部へ異動

画像 : 田中英光 public domain

昭和21年5月、高知新聞社に入社したやなせ氏は、社会部の先輩記者から新聞原稿の書き方を学び、卓球の試合の取材や県会議員へのインタビューなどの記事を執筆していました。

ところが、1ヶ月が過ぎた頃、やなせ氏は『月刊高知』編集部へ配置転換となり、編集長の下、スタッフは3人という編集部で企画、編集、取材、製本まで、すべての業務をこなすことになります。

やなせ氏は、インタビューやルポ記事を執筆するほか、小説の挿絵や取材相手の似顔絵、ファッションページの図解とどんな仕事も一手に引き受けました。

誌面のレイアウト変更で余白ができると、編集長から「やなせ君、豆カット描いて」と言われ、ササッと描き上げます。

漫画家の横山泰三氏に依頼していた表紙のイラストが間に合わないと言われれば、「ほいきた」と、代理で表紙を描きました。

表紙は好評で『月刊高知』第2号から、表紙はやなせ氏の担当となりました。

活躍はイラストや挿絵にとどまらず、紙面が埋まらない時は「名和梨夫(なわなしお)」というペンネームで短い物語も執筆し、編集業務のほか、広告取りから集金、座談会の司会など、仕事という仕事はすべてこなしました。

昭和22年の新年号では、付録に「すごろく」をつけようという案がもち上がり、やなせ氏はアイデアと絵を担当しています。

出来上がったすごろくが、うまく遊べるのかどうか、編集部のメンバーで実際にサイコロを振ってワイワイやっていると、いつの間にか他の部の人たちも参加して、大いに盛り上がったそうです。

また『月刊高知』は文芸欄が充実しており、やなせ氏は『オリンポスの果実』で有名な作家・田中英光氏の担当でした。

田中氏との付き合いは高知新聞社をやめた後も続き、挿絵の仕事の紹介をしてもらったこともあったそうです。

初の漫画がGHQの警告を受ける

画像 : 第二次世界大戦中の軍事郵便はがき public domain

あれもこれもとマルチな才能を発揮し、バリバリ働くやなせ氏は、もちろん漫画も描いています。

当時のやなせ氏の漫画は、個性的かつ新鮮な筆致で、彼の特異な才能を編集部のだれもが認めていたそうです。

しかし、その船出は順風満帆というわけではありませんでした。

創刊号に掲載された初の漫画が、GHQの検閲に引っかかってしまったのです。

「新版キュウリ婦人伝」というタイトルのその漫画は、キュウリが大好きな少女が女性科学者となり、長年の研究の末、キュウリの味噌漬けを発見するという、どうということもない内容でした。

しかし、創刊号が出版されるや否や、GHQの警告が編集部あてに軍事郵便で届いたのです。

こんなダジャレの漫画にもGHQが目を光らせていたことに、編集部の面々は驚きを隠せません。

幸い警告だけで事なきを得ましたが、やなせ氏は翌月号で、「軽率だった」とおわびの文章を書いています。

そんな紆余曲折を経て、『月刊高知』7月創刊号は2000部を発行し、付録のすごろくが効いたのでしょうか、半年後の正月号は1万部を突破しました。

『月刊高知』編集部という最高の居場所を得て、やなせ氏の心の傷は癒されていたのかもしれません。

しかし、編集部全員で行った東京出張ののち、やなせ氏は再び「東京へ行きたい」という気持ちを強く抱くようになります。

「東京で、もういちど漫画家として勝負したい」

戦争によって絶たれてしまった漫画家への夢が、再び胸の中で燃え上がる気配をやなせ氏は感じていたのでした。

参考文献
梯久美子『やなせたかしの生涯』文芸春秋
山田一郎 聞き手『南風対談』続 高知新聞社
高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語:最愛の妻 暢さんとの歩み』
高知新聞社史編纂委員会編『高知新聞五十年史』高知新聞社
文 / 草の実堂編集部

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