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ケラリーノ・サンドロヴィッチ(シス・カンパニー公演『桜の園』上演台本・演出)にインタビュー~「チェーホフと握手できるようなものに」

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ケラリーノ・サンドロヴィッチ

シス・カンパニー+ケラリーノ・サンドロヴィッチが紡いできたチェーホフ四大戯曲上演シリーズの最終章となる、シス・カンパニー公演 KERA meets CHEKHOV『桜の園』が、2024年12月8日(日)世田谷パブリックシアターにて開幕する。

ケラリーノ・サンドロヴィッチがアントン・チェーホフの四大戯曲の上演台本と演出を手がける本シリーズは、これまで『かもめ』(2013)、『三人姉妹』(2015)、『ワーニャ伯父さん』(2017)と上演され、『桜の園』は2020年の上演中止を経て今回の上演を迎えた。今作の出演者は、天海祐希、井上芳雄、大原櫻子、緒川たまき、峯村リエ、池谷のぶえ、荒川良々、鈴木浩介、山中崇、藤田秀世、山崎一、浅野和之ら。

稽古場にて行われたケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)の取材会の模様をお届けする。


■KERAがチェーホフ作品に惹かれる理由

――KERA meets CHEKHOVチェーホフ四大戯曲上演シリーズがついに完結します。改めてKERAさんがチェーホフ作品に惹かれる理由はどんなものですか?

チェーホフの戯曲は100年以上前に書かれたものだから、もはや古典と言っていいと思うのですが、古典でこれほど人物を相対的に書いている――例えばシェイクスピアであれば、その人が言っていること(=台詞)がその人の考えていることなんだけど、チェーホフの場合はその人が言っていることがその人の考えていることでは全くない。それが面白味だと思います。今はそういう芝居はいっぱいありますけど、この時代に書かれた芝居ではあまりないんじゃないか。そういう意味でチェーホフって、すごく革新的な作家だったんだと思いますね。あとはこの情感です。チェーホフ独特の情感というものが、どの作品にも漂っている。

――その中で『桜の園』には特にどんな面白さを感じていらっしゃいますか?

なんだろう……遺作ですからね。これまでやった三作は、「そして人生は続く」みたいな終わり方をしているんですよ。『かもめ』のトレープレフは自殺しちゃいますけど、残された人々の人生はおそらく変わらず続く。「生きていきましょう」という台詞に象徴されるように、ゴールが設けられていない感じがある。でも『桜の園』は、“8月22日の競売の日”というXデイが最初から明確に定められていて、そこに向かって物語が進んでいく。そこが特別なところなのかなと思います。チェーホフは、もうその頃には一日4行くらいしか書けなかったらしいのですが、フィールスが最後に語る台詞をそんな状態で書いていたかと思うと心打たれるものがあります。それと、四大戯曲は『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』の順で書かれているのですが、『三人姉妹』くらいからチェーホフの中のヴォードヴィルの雰囲気というのが顕著になっている。フリーキーな奇人たちが出没し始めて、『桜の園』では登場人物がかなりの奇人揃いになっています。そこも『桜の園』の面白味じゃないでしょうか。いま演出するとなるとそこが一番難しいんですけどね。


■上演台本を手がけるうえで考えたこと

――今作の上演台本を手がけるうえで、どのようなことをお考えになられましたか?

『桜の園』はこれまで何本も観てきた作品ですが、最初に観た時に感じた面白さをそのまま伝えたいなと思っています。自分のほうに引き寄せようとかあまり考えていません。そして壊そうとも考えていません。なるべくチェーホフと握手できるようなものにしたい。もちろん現代の観客に面白さが伝わるようにということは念頭に置いてますけれども、チェーホフが何を面白がっているのかを考えながら、自分としてはごくごく普通のチェーホフをやっているつもりです。シェイクスピアもそうですが、近年のチェーホフ上演は「いかに壊すか」が腕の見せどころみたいな上演が多いですよね。でも僕は、オーソドックスに作ります。お客さんが観てどう思うかはわかりませんが


■キャストの印象

――今回のキャストのみなさんについてはいかがですか?

初めて一緒に芝居をつくるのは、天海(祐希)さんと(大原)櫻子ちゃんと山中(崇)と荒川(良々)なんですけど、それ以外の人たちは割とみんなもう勝手知ったる……とまで言っちゃうと言いすぎなのかな(笑)。でも大体どういうタイプの役者さんかはわかっているつもりですし、初めての人たちには期待をしています。今日初めてちょっとだけ立ち稽古をしましたが、とても楽しいです

――天海さんの印象はいかがですか?

天海さんは完全無欠に近い人物を演じることが多い印象で、でも(今作で天海が演じる)ラネーフスカヤって極めてダメな人。うまく生きられない、無器用で隙だらけの人物を天海さんにやってもらう面白さというのはすごくあります。あと声の出し方とかね。天海さんは低いトーンで喋ることが多い。特に肝心な台詞は低いトーンの発声のほうが気持ちが乗せやすいんだと思いますが、そこは敢えて高音も駆使してなるべく広い声域を使って喋っていくのはどうだろうかとか、そんなことを本読みの時にお伝えしました。新鮮な天海祐希をお届けしたい(笑)。

『桜の園』キャスト写真


■120年前の作品をいま上演するうえで考えたこと

――『桜の園』は、1904年のモスクワ芸術座による初演から120年が経ちましたが、2024年の今との時代的な相似性や、逆に今の人には通じないかも?というような部分も含め、今これを上演する意味やその伝え方をどのようにお考えですか?

人の営みというものは根源的にはあまり変わらないものなんじゃないかなとは思います。ただ、今って非常に混沌として希望を持てない時代だと思うんですね。チェーホフの芝居には常に将来のことを語る人物がいて、「100年後、200年後の世の人たちは」って希望的観測をもとに語られることが多いんですよね。120年後にいる我々としてはそこをある意味シニカルに捉えざるを得ないのですけれども……。そうした台詞を吐く登場人物に対して「ご期待に沿えず申し訳ない」って気持ちになったりもしますね(笑)。(今の人には通じないこと、については)当時特別だったことが今はもうあまり特別ではないとか、その逆とかもあると思います。農奴解放とかね。この作品が書かれた時にはまだ生々しい出来事だった。例えば、僕らが子供の頃は、おじいちゃんおばあちゃんはみんな戦争を生々しく語れたし、映画や小説で触れる戦争は記憶の中にある陰惨な出来事として感じられたと思うんですけれども、今は実感が薄れているでしょう。ただ、その反面、イヤ~なものがどんどんどんどん近づいてきている予感はある。この予感の下でチェーホフを上演すると、観客との間に何か共有するものが生まれるか、何も生まれないのか…


■チェーホフの喜劇性とKERAの笑いとで通じることとは

――チェーホフは敷居が高いと思われる方も多いかと思うのですが、初めてご覧になる方にその面白さをどんなふうに伝えますか?

『かもめ』とか『三人姉妹』をやっていた頃は、よく稽古場で「チェーホフって寝ちゃうよね。だから客席で寝る人がなるべく少ない上演を目指しましょう」みたいなことを、半分冗談で言っていました(笑)。物語がすごく面白いとか、どんでん返しがあるとか、そういうものではないですからね。面白味はもっとデリケートなところにある。チェーホフの芝居って、重要な出来事はおおむね幕間に起きているんです。亡くなった宮沢章夫さんが提唱していた例えで言うと、カーチェイスをしているシーンは見せず、給油しているシーンを見せる。だからその給油シーンでカーチェイスがどれだけ感じられるかが勝負だっていう、そういう面白さなんですよね。あとは人と人との関係のデリケートさから滲み出てくる可笑しさが、そこかしこに潜んでいる。しみじみとした可笑しさや、やるせない可笑しさですね。

――チェーホフの中にある喜劇性について、ご自身の笑いと通じる部分はありますか?

『桜の園』と『かもめ』はチェーホフが“喜劇”と謳っていて、幾多の上演が、そのことに振り回されている感がありますよね。この作品をことさらウエットでシリアスなものだと捉えられたくなかったから、チェーホフはあえて“喜劇”と謳ったんじゃないかなと思っています。『桜の園』は、笑い声になるかどうかで言えば“喜劇”ではないかもしれないですね。どう頑張っても、爆笑に次ぐ爆笑みたいな上演にはなり得ない。そういう意味では“喜劇”ではない。ただ、この人たちの愚かさは、極端過ぎて、もはや可笑しいでしょ? 「もう絶対このままじゃまずいよ。なんとかしなきゃ桜の園が売れちゃうよ」って言われているのに聞く耳を持たない二人が策を練らないまま桜の園は売れてしまうっていう話ですからね。こうした愚かさって、僕が書いていたナンセンスに極めて近い気がします。これだけロパーヒンが言っているのにラネーフスカヤとガーエフが何もしないというのは、やっぱり“喜劇”的だと思いますね。いやあ、難しいですよ、「出来事」で面白がらせる舞台と違って。演劇で、生身の人間と一緒に一ケ月強間稽古するってことを考えると、台本をそのままやれば面白くなるようなものをやるよりも、チェーホフ劇のように、やりようによっては何が面白いのかまったくわからなくなっちゃうみたいなもののほうが楽しいですよね。


■シリーズを振り返って

――KERA meets CHEKHOVシリーズを振り返っていかがですか?

最初はこわごわでした。1本目の『かもめ』は本当に手探りで、2本目の『三人姉妹』でちょっとわかったかなという感じがして、3本目の『ワーニャ伯父さん』で、ようやくだいぶわかった。手応えがありました。個人的には満足しているんですよ。自分なりのチェーホフ解釈ができたかなっていう。チェーホフは、本読みをしていてもなんか作家の作為が見えないんです。演出がちゃんとそこを見つけて強調してあげないと素通りしていってしまう。僕は演劇っていうのは恥ずかしいものなんだっていう入口から入って、どうやって恥ずかしくない演劇をやればいいんだろうとずっと探していた人間なので、なんかそのひとつの方法をチェーホフが提示してくれているような気もします。あざとさが見えないんですよね。そこが惹かれる理由だし、それでいいんだっていう勇気をもらっております

――最後にお客様へのメッセージをお願いします。

かなり面白いと思います。ただ質として、ディズニーランドのような、次から次へと与えてくれるような面白さではありません。舞台を覗き見ていただいて、能動的にいろんなことを感じていただくことによって生まれる面白さだと思います。かといって「この難題を解いてごらん」というような難しさはないと思っています。そこに生きているのは我々と同じ人間で、我々と同じように浅はかな隙だらけのダメな人たち。その人たちが右往左往する様を客席で一緒に楽しんで観てもらえればいいと思います

取材・文=中川實穗

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