極秘のふ号作戦~朝日を光り輝き太平洋を越えていった兵器「風船爆弾」の基地跡を訪ねて ②大津編【茨城県北茨城市】
太平洋戦争末期、旧日本軍が開発した「風船爆弾」。昨年12月、茨城県大津町(現:北茨城市)にあったその基地について、旧厚生省が調査した資料が国立公文書館保管の文書から発見されたと報道された。作戦に関連する資料は、終戦時に処分が命じられ詳細な記録は残されていないとされていただけに、歴史を紐解くための大きなステップとなる資料だ。
戦後70年以上経た現在でも、かろうじてこの地区では第二次世界大戦中にアメリカ本土に向けて風船爆弾を放った場所をたどることができる。今回は、この基地の痕跡を訪ね、風船爆弾というあまり知られていない歴史的事実に迫り、戦争の悲惨さ、そして平和の大切さを改めて考えてみたい。
北茨城市大津地区は、岡倉天心や横山大観が愛した景勝地・五浦海岸を有する太平洋に面した静かな町だ。しかし、この町にはこの特徴的な地理なゆえにかつて世界でも類を見ない秘密兵器が開発され、実際に使用されたという歴史がある。第二次世界大戦末期、日本は劣勢に立たされ、アメリカ本土を攻撃するための風船爆弾という風まかせの兵器を開発した。風船爆弾は、水素ガスを充填した高さ10mほどの気球に爆弾や焼夷弾を吊り下げ、ジェット気流に乗ってアメリカ本土に飛ばすというものであった。北茨城市大津、千葉県一宮、福島県いわき市勿来(なこそ)の3ヶ所に基地が設けられ、大量の風船爆弾が打ち上げられた。
茨城県天心記念五浦美術館から平潟港に続く太平洋を望む道の途中に「わすれじ平和の碑」が建立されている。碑文には、風船爆弾の開発や打ち上げ、そして戦争の悲惨さについて記されており、見た者に当時の状況を伝えている。
そして、碑の西側には、かつて風船爆弾を打ち上げるための放球台跡が残されている。しかし、草が深く覆い茂っていたこともあり、今回は安全上の観点から近づくのは断念した。
古い写真を見ると、放球台は太平洋に向かって一直線に並んでおり、かつてはここから無数の風船爆弾が空へと放たれていったことを想像させる。
風船爆弾は、アメリカ本土を攻撃し、国民の士気をくじくことを目的として開発された。しかし、実際には、アメリカに到達した風船爆弾は全体のわずか1割程度であり、大きな被害を与えるには至らなかった。
一方、日本国内では、風船爆弾の製造や打ち上げに携わった人々の犠牲も少なくなかった。風船爆弾の開発は、国家の貴重な資源を無駄に消費し、戦争の終結を遅らせる結果となったともいえよう。
風船爆弾は、科学技術が戦争に利用された悲劇的な例である。現在のドローンもその一例と言えるだろう。科学の進歩は、人類の生活を豊かにする一方で、破壊的な力をもたらす可能性も秘めている。私たちは、科学技術をどのように利用していくのか、深く考える必要がある。
また、風船爆弾は、戦争のむなしさを私たちに教えてくれる。戦争は、多くの犠牲者を生み出し、人々の心に深い傷跡を残す。私たちは、過去の過ちを繰り返さないために、歴史を学び、平和の大切さを心に刻んでいかなければならない。この地を訪れ、歴史に思いを馳せることで、未来を担う子どもたちへ平和の大切さを伝えていくことができるだろう。
だが、風船爆弾に関する情報は終戦直後に証拠隠滅のために資料が処分されたこともありまだまだ十分に解明されていない部分も多い。当時を知る者も今後さらに少なくなることから、さらなる調査研究を進めることで、より深い歴史認識を深めていくことが期待される。
極秘のふ号作戦~朝日に光り輝き太平洋を越えていった兵器「風船爆弾」とは?~①いわき市編 【福島県いわき市】はこちらのリンクからhttps://thelocality.net/fusenbakudan-nakoso/