「バカのフリ」ができる人間は、本当に強い。
軍事スパイと言えば、多くの人が容姿端麗なイケメンか、もしくはアニメ『ルパン三世』の峰不二子のような、才気あふれる美女を思い浮かべるだろうか。
華麗な社交術で人をリードし惹きつける、魅力的な紳士淑女だ。
ジェームス・ボンドで知られる映画007(ダブルオーセブン)ではまさにそんな世界が繰り広げられるが、しかしそんなイメージはもちろん虚構でしかない。
隠密に活動しなければならない存在なのに、華やかに目立ってしまっては仕事にならないのだから当然だろう。
無能な凡人を装い、敵から警戒すらされない存在になることが求められる。
それでいて洞察力、敵味方を見分ける嗅覚、恐怖を克服する胆力など、あらゆる能力に秀でていなければならない。
超人的に優秀でありながら、虚栄心を抑え込む心の強さが必要ということである。
そしてそんな凄いスパイが、日露戦争(1904-1905年)の時の日本にもいた。明石元二郎という。
「明石の仕事は陸軍10個師団(20万人)に相当する」とまで言われた、伝説的な存在だ。
資料によりバラツキはあるが、当時、大陸で戦っていた日本陸軍の兵力が25~30万であったことを考えると、どれほどの活躍であったかわかるだろう。
その明石について、こんなエピソードがある。
日露戦争の開戦直前、各国の情報収集が活発になり、神経質になっていた時のこと。
あるパーティーで明石は、ドイツ軍、ロシア軍の士官と同席する。
「貴官は何語を話せますか?」
「フランス語がやっとです」
ドイツ軍の士官から話しかけられ、そう応じる明石。
そのフランス語すら、初学者のようにたどたどしい。
「ドイツ語は話せますか?」
「申し訳ございません、全くわかりません」
するとその士官は、傍らにいるロシア軍の士官とドイツ語で、両国の機密情報を話し始めた。
おわかりだと思うが、明石はフランス語もドイツ語も、ネイティブ並みに堪能であった。
そして居心地の悪そうなフリをしながら、彼らの会話を一言一句、聞いていたのである。
簡単なようだが、この「バカのフリ」ができる人間は、本当に強い。
そして「バカのフリ」を見破れない、見た目の印象で人の力量を見抜いた気になるビジネスパーソンは余りにも多い。
そんなビジネスパーソンが組織を滅ぼし、また会社の元凶になっている構図は、令和の時代も何も変わっていない。
なぜそんなことが言えるのか。
「わからないので教えて下さい」
話は変わるが、私には少し変わった同い年の友人がいる。
若い頃からの付き合いで、父親は東証一部(現:プライム市場)上場企業の現役社長だ。
創業社長の御曹司で、控えめに見て数百億円の資産があるであろう、下世話な言い方をすると“上級国民”のドラ息子である。
その彼と初めて出会った時のことは、今も忘れられない。
ある大手企業が求めるコンペで競合になり、最終の2社に残った時のこと。
彼は当時、よくわからない会社の代表取締役の名刺で参加していた。
一方の私も、誰も知らないような中小企業の取締役での参加である。
そしてそれぞれの提案事項に担当者が質問をして、要件定義を満たすのかを繰り返し確認する。
そんな中、ちょっとした“事件”が起きた。
「この提案内容では少し、ウチの求める要件に僅かに足りない気がするのですが。この部分、少し技術的な裏付けを説明してくれませんか?」
「そうなのですね。実は私、技術者じゃないのでよくわかりません。どのあたりが足りないのか教えて下さい」
私は思わず、担当者と彼の顔を見比べてしまった。
いや、その程度の質問に答えられないわけがないだろう。
わからないなら、お前はなんでここにいるんだ?
それほど初歩的な質問に、彼はあっけらかんと「わからないので教えて下さい」と言う。
担当者は呆れたように、噛んで含めるように要件定義を改めて説明し始める。
すると話は、少し怪しい方向に向かい始めた。
担当者こそ、技術的なことがわかっていないであろう、少し事実誤認の内容を含めた説明を始める。
さらに、見積もりに入っていない要求事項まで話し始め、私は冷や汗をかき始めていた。
(いやこの仕事、その条件じゃ全然、ペイしねえじゃん…)
結局その日、彼も私も最終的な受注意向を表明しないままに、同社を去った。
そして帰りのエレベーターの中で、彼に話しかける。
「失礼ですが、もし宜しければ教えて下さい。あんな初歩的な質問、わからないわけがないでしょう。なぜわからないフリをしたのですか?」
「本当にわからなかっただけです!」
「いえいえ、それはさすがに嘘だとわかります。おかげさまで助かりました。ウチはこの仕事から撤退するつもりです」
「奇遇ですね、実は私もそう思ってました!」
(…このキツネタヌキ野郎め)
後日、仲良くなってから当時のことを改めて聞いたことがあるのだが、彼はこんな説明をした。
「だって、知ったかぶりせずに説明してもらったほうが、相手の知識や狙いまで、詳しい情報が手に入るじゃないですか」
“ホタテマン”
そんなきっかけで、彼と妙に仲良くなったある日のこと。
長年の友人である陸上自衛官と、飲みに行く約束をすることがあった。
主要部隊での指揮官職を歴任し、また若い頃には、主要国で防衛駐在官(駐在武官、軍事スパイに相当)も務めたことがある高官である。
そんな友人との飲み会に、キツネタヌキ野郎を連れて行ったらどんな“化学反応”を起こすのか、興味を持つ。
当日、当たり障りのない会話で乾杯が終わり、コース料理の最初のオードブル盛り合わせが運ばれてくる。
するとここで、またも思いがけない“事件”が起きる。
人数分のオードブルが“一緒盛り”になっている大皿から、高官が蒸しホタテを2つ、取ってしまったのである。
すぐに間違いに気が付き、ホタテを皿に戻す高官。
とは言え、一度箸で掴んでしまったという状況を皆が気がついているので、なんとも言えない空気が流れた。
(少し間を空けてから、俺が取ろう)
そう思った瞬間、キツネタヌキ野郎が箸を伸ばし、そのホタテを皿に入れると、すぐに食べてしまったのである。
そして何事もなく場が盛り上がると、お開きの時間になった時、高官は思いがけないことを提案した。
「この後、ご友人も含め皆で、私の官舎まで来ませんか?ぜひ飲み直しましょう」
いやいやいや。
長年のお付き合いの私でも、まだプライベート空間にまで入れてもらったことはなかったぞ。
きっとキツネタヌキ野郎の、あの“ホタテ効果”なのだろう。
それ以外にも、私が気がつけていない所作で、本職の“軍事スパイ”の心を掴んでいたのではないだろうか。
結局その日、終電ギリギリまで痛飲し、高官のギター弾き語りまで聞かせてもらって楽しい時間を過ごした。
そして帰り道。
電車の中でキツネタヌキにこんな質問をする。
「オードブルのホタテ、見事でしたね。先を越されました」
「なんのことですか?私はただ、ホタテを食べたかっただけです」
この件以来、私は彼のことを “キツネタヌキ野郎”改め、親愛の情を込めて“ホタテマン”と呼んでいる。
虚栄心など1円にもならない
話は冒頭の、明石元二郎についてだ。
なぜ「バカのフリ」を見破れないビジネスパーソンは、今も昔も組織や会社を滅ぼす元凶なのか。
ホタテマンの話をした後に多くの説明は不要だろうが、彼はいつも、まさに「バカのフリ」をする。
そして彼は今も、何をしてるのかよくわからない会社の名刺で仕事をしており、決して父親のことを話すこともない。
そうやって、第一印象で人を判断する浅薄な人間なのか、肩書きと付き合いたがる相手なのかを見極める。
加えて、ホタテのエピソードがそうであるように、常に周囲に集中して気を配り、“嫌な役割”を積極的に拾っている。
ただし、その好意を一方的に受けるだけなのか。
言い換えれば、ギバーに対しテイカーとしてだけ振る舞う相手かどうかも、ここで峻別している。
そんな彼と一緒に、ある会社の仕事で共同提案を出した時のこと。
いつものように「わからないので教えて下さい!」と連発する彼に、相手の取締役はあからさまに見下したような笑いを浮かべていた。
さらに後日、訪問のお礼メールは私には届いたが、彼には来なかったという。
「いやー、僕バカですからね。相手にされなくても仕方ないですね!」
と笑っていたが、彼と相手の取締役、どちらが愚かなのかは明らかだ。
そうやって、「バカのフリ」を見破れないビジネスパーソンは、全く気が付かないままに目の前を流れる大きな機会を掴み損ねる。
しかしなぜ人は、この「バカのフリ」に”騙されて”しまうのだろうか。
それはきっと、「自分は優秀な人間」という図々しい勘違いに、気がつけていないからなのではないのか。
さらに言えば、虚栄心や承認欲求など、1円にもならないどころか、時に人生に大失敗を引き起こすリスクでしかないことを理解すれば、誰だって”ホタテマン”になることもできる。
もちろん、ホタテマンに“騙される”こともなくなるはずだ。
友人との与太話であったが、何かの役に立てるようなら嬉しく思う。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
唐揚げをいくら食べても太らないのですが、カップヌードルを3日連続で食べると確実に1kg太るんです。
なんでや。
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