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「ミラノダービー」を戦った英雄が静岡へ。磐田のスキラッチと清水のマッサーロ、ダービーで本領発揮したのは?【静岡ダービーを振り返る vol.3】

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【スポーツライター・望月文夫】
清水エスパルスとジュビロ磐田による県内最大の「静岡ダービー」は、世界的な有名選手たちも両チームのユニフォームに袖を通して闘志をむき出しにした。中でも注目度が高かったのが、ともにイタリア代表経験がある、1990年W杯得点王の磐田FWサルヴァトーレ・スキラッチ(元インテル)と1994年W杯準優勝に貢献した清水FWダニエレ・マッサーロ(元ACミラン)だろう。

1994年4月、一足先に来日したのがスキラッチだ。清水に1年遅れでJリーグに参入し盛り上がる磐田だったが、頼みのエースFW中山雅史がケガで長期離脱。入れ替わるように加入すると、この年の年間王者のヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)戦でいきなり初得点を決め2−0の快勝に導いた。準優勝したナビスコ杯でも決勝までの4試合でチームの全5点を決め、中山不在の不安を一気に払しょくした。

一方のマッサーロは、翌1995年第2ステージ(8月)から参戦。前年のW杯準Vを引っ提げての加入は、スキラッチを超えた存在感だった。第9節までに3得点したものの直後に大ケガで離脱。リハビリ中も記者の取材には快く応じ、高い注目度を維持したまま迎えた翌1996年も第5節から3試合連続となる6得点と量産した。30代半ばを迎え引退の声もささやかれる中で、元イタリア代表FWの実力を証明して見せた。

そんな2人は互いをどう見ていたのか。マッサーロは「素晴らしいストライカーだと思うよ。大勢いる代表経験FWの一人だけどね」と上から目線でスキラッチが特別でないことを強調した。一方のスキラッチはマッサーロを「代表歴が長い有名選手」と評したが、「プレーはあまり見たことがない」と早々に話を切り上げた。

そんな2人は同時期にイタリア・ミラノのクラブに所属。国内だけでなく、世界が注目する「ミラノダービー」でも対戦していた。1994年3月、ミランがホームのセリエA第28節だ。先制されたインテルのスキラッチが途中出場から同点弾を決めると、勝ち越し弾を押し込んだのはミランのマッサーロだった。

マッサーロが優位だったミラノから静岡に舞台が移ると、流れは一変した。ダービーでは1994年から7試合出場11得点と、驚異の得点力で清水キラーと呼ばれたスキラッチに対し、出場2試合無得点のマッサーロ。唯一直接対決となった1996年4月の第10節も、フル出場したスキラッチに対し、マッサーロは2枚の警告で後半20分に退場。大きく明暗を分けたダービー対決となった。

インパクトを残したスキラッチは、リーグ戦通算78試合56得点、ナビスコ杯も14試合で9得点。1997年早々に腰痛を悪化させ引退した後でこう振り返った。「磐田に加入して期待の大きさが伝わってきた。それに応えてチームを引っ張ることで精いっぱいだった」。物静かで鋭い眼光のせいもあってダーティーな印象も与える選手だったが、実は献身的にチームを背負ってプレーしていたのだ。

スキラッチのファーストネーム「サルヴァトーレ」は、イタリア語で救世主を意味する。まさに救いの神となって、その後の磐田の黄金期形成にも大きく貢献した。その救世主の最大の見せ場が『静岡ダービー』だったことは、多くのサッカーファン、サポーター、関係者が認めている。
【スポーツライター・望月文夫】
1958年静岡市生まれ。出版社時代に編集記者としてサッカー誌『ストライカー』を創刊。その後フリーとなり、サッカー誌『サッカーグランプリ』、スポーツ誌『ナンバー』、スポーツ新聞などにも長く執筆。テレビ局のスポーツイベント、IT企業のスポーツサイトにも参加し、サッカー、陸上を中心に取材歴は43年目に突入。

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