【伊達政宗の両腕】 片倉小十郎と伊達成実の驚きの行動とは?
奥州で勢力を広げ「独眼竜」の異名でも有名な伊達政宗。
「生まれてくるのが10年遅かった」と評されるほどの政宗には、当然、優秀な家臣がついていた。
今回は伊達政宗の両腕とも呼ばれる、片倉景綱(かたくら かげつな)と、伊達成実(だて しげざね)の驚きの行動について紹介したい。
智の片倉小十郎・武の伊達成実
通称・片倉小十郎の名で知られる片倉景綱(かげつな)は、政宗の父・輝宗の小姓としてその仕官生活をスタートさせた。
景綱の異父姉・喜多は、政宗の乳母であり、女性でありながら文武両道に通じ、軍学書を好んで読むような勉強家だった。
この姉の影響を受けて、小十郎も幼少期から学問に励むようになり、剣術にも長け、笛の名手でもあったという。
政宗の教育係として抜擢された景綱は、政宗よりも10歳ほど年上だった。
幼少期から右目を患い内向的だった政宗をしっかりと導き、時には友人のように寄り添いながらも、主君として忠誠を誓った。
その忠誠心は子孫にも受け継がれ、景綱が亡くなったあとも、息子が「小十郎」を名乗り、側に仕えた。
伊達成実(しげざね)は、政宗と同じ伊達一族で、政宗から見ると成実は、父方の「いとこ」であり「おじいとこ」でもあるという複雑な間柄である。
成実は、政宗の父・輝宗を烏帽子親として元服し、以来、政宗に忠誠を尽くして仕えてきた。
成実は猛将として知られており「人取橋の戦い」では、圧倒的な敵軍の中で政宗を逃がすために奮戦している。
郡山合戦・摺上原の戦い・葛西大崎一揆鎮圧・朝鮮出兵にも参加し、武功を積み上げていった。
戦場だけでなく内政にも優れており、複数の城を治め、領民からは深く信頼され、慕われていた。
成実は、ただの猛将ではなく、統治者としての手腕をも併せ持った名将だったのだ。
片倉小十郎の「政宗の右目を抉り出した」逸話
片倉小十郎にまつわる有名な逸話の一つに、政宗の右目を抉り出したというものがある。
幼い頃の政宗は天然痘に罹患し、その影響で右目の視力を失ってしまった。右目は白く濁り、見開いた状態で盛り上がっていたため、敵に掴まれる恐れがあるとして、抉り出す必要が生じた。
政宗は自ら目を抉り出そうとしたが、困難であったため、小十郎が代わって行ったという。
この逸話には諸説あり、後に政宗の遺骨が調査され、眼窩に異常がなかったために創作とされているが、二人の深い信頼関係を象徴する逸話として語り継がれている。
片倉小十郎の助言が伊達家を救う
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして行った『小田原征伐』は、関東の北条氏を滅ぼすための大規模な軍事作戦だった。
この時期、関東より北に領地を持つ大名たちは、秀吉に従うか、戦うかという選択を迫られており、秀吉に従うと決めた者は小田原に参陣する必要があった。
政宗もまた、この選択に迷っていた。秀吉はすでに九州まで平定し、残るは関東以北の地域だけであった。
戦いを挑むのは極めて難しい相手であったが、政宗は「北条と同盟し、東北の武将たちを結束させれば、何とか戦う道があるのではないか」とも考えた。
そんな政宗の葛藤を見抜いたのが、片倉小十郎であった。小十郎は冷静に情勢を見極め「小田原に参陣すべき」と政宗に助言した。
政宗はその助言を受け入れ、結局、小田原に遅れて参陣した。
もしこの助言がなければ、伊達家は秀吉に攻め滅ぼされていたかもしれない。
出奔の理由は?伊達政実の苦悩
猛将・伊達成実(しげざね)は、実は一度、政宗の元を突如離れて出奔したことがある。
この出来事が起こったのは、豊臣秀吉が天下統一を果たした後のことだった。
当時、秀吉の命により朝鮮出兵が行われ、成実もその遠征に参加したが、帰国後まもなくして出奔してしまったのだ。
この時期、日本国内では「秀次事件」という大きな騒動が発生していた。
この事件は、秀吉の後継者であり関白を務めていた豊臣秀次が、突如として謀反の疑いをかけられ、切腹させられたというもので、秀次と親交が深かった者たちにもその影響が波及した。政宗もまた、秀次と親しい関係にあったため、その影響を受けていた。
成実が出奔した理由は明確にはわかっていないが、いくつかの推測がなされている。
・多大な戦功が評価されず、政宗の叔父の留守政景や石川照光の俸禄より少なかった
・政宗の秀次事件の影響を最小限にするために、成実が疑いを被って高野山へ身を隠した
・武勇の誉れ高い成実に、他家から仕官の声がかかった
・政宗の秘密工作として出奔した
1600年、関ヶ原の戦いが起こると、成実は上杉景勝から「5万石で家臣にならないか」という打診があったが、断った。
徳川家康に仕官する話もあったが、これは政宗に妨害されている。西軍・東軍どちらも、成実の動向を気にしていたようだ。
だが結局、成実はその年のうちに伊達家に戻った。
片倉小十郎が、政宗の叔父である留守政景と石川照光の協力を仰ぎ、成実帰参を画策したのである。
小十郎は成実と数十年来の付き合いがあり、気性も心得ており、息子の烏帽子親を頼む程、親しい間柄であった。
留守政景と石川照光は、成実の出奔の原因となった可能性のある人物だが、彼ら自身は成実を高く評価していた。
家格上位の重臣自らが帰参説得を務める事で、本気度を示したのである。
政宗も成実を許し、すぐに「北の関ヶ原」と呼ばれる一連の戦闘に参加し、軍功を上げたという。
おわりに
伊達政宗の家臣は個性派揃いである。上記二人の他にも様々な家臣がおり、政宗自身も個性的な性格をしている。
「智の小十郎・武の成実」と呼ばれた二人の家臣は、政宗とは特に親密な関係であったようである。
政宗が太鼓を打ち、小十郎が笛を奏でたという逸話や、政宗が成実宛に書いた「特に用はないが、最近会っていないので手紙を書いた」という気楽な手紙も残っている。
この二人の存在なくして、政宗の成功はなかっただろう。
参考:『伊達政宗と片倉小十郎 新人物往来社 著者 飯田勝彦』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部
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