社会の中で哲学者が担ってきた役割とは?哲学のあり方を考える。山本貴光・吉川浩満・斎藤哲也鼎談
『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』の刊行を記念し、山本貴光さん、吉川浩満さん、斎藤哲也さんのトークイベントが紀伊國屋書店新宿本店で行われました。哲学入門書に精通する3人が哲学の世界に入ったきっかけや、哲学書の楽しみ方を語ります。さらに参加者との質疑応答では、社会の中で哲学者が担ってきた役割や、現代における哲学のあり方についても考えます。本記事では、その鼎談の模様をお届けします。
『哲学史入門』を読んだ率直な感想は?
斎藤 山本さん、吉川さんには『哲学史入門Ⅱ』の特別章「哲学史は何の役に立つのか」に登場いただきましたが、一読者として『哲学史入門』Ⅰ、Ⅱを読んだ感想をお聞かせていただけますか。
山本 哲学ってもともとややこしいものだけど、そのややこしさを悪い意味でわかりやすくせず、それぞれの専門家が勘所をビシッと教えてくれる本だと感じました。斎藤さんが読者代表として、「わからない」という立場で質問するわけですが、その質問がポイントを突いていて、訊かれた先生方が、「それならもうちょっと聞かせちゃうよ」と腕まくりする感じがあります。目の前で先生と斎藤さんの話を聞いているかのようでした。これは哲学史の提示の仕方として一種の発明と言ってもいい、というのが私の第一印象です。
吉川 聞き書きというコンセプトはいいですね。斎藤さんが「そんなこと気にするの?って思われるかもしれないけど聞く」という役を担うことで、初学者が本当に知りたいことや疑問に思うことがきちんと扱われるようになっている。すでに学識を備えた専門家が普通に入門書を書くと、内容はすばらしいけれども、初学者がつまずくポイントがスルーされていてピンとこない、ということも多いと思うので。
哲学史を意識した出来事
山本 今回、斎藤さんが他ならぬ哲学史をテーマに選んだのは、どんなお考えからですか。
斎藤 『試験に出る哲学』シリーズをNHK出版新書で出して、その前には『哲学用語図鑑』(プレジデント社)の監修・編集もしましたが、これらはどちらも教科書的な内容を咀嚼しやすくする工夫はたくさんしてますけど、哲学研究の現場でどんなことが議論されているかということまでは織り込めませんでした。その点で、ちょっと不完全燃焼感があり、なにかやり残しているんじゃないかという気持ちがあったんです。教科書に書かれていることも、研究の現場ではけっこう更新されている。そういうことを入門書の中に取り込んでみたいと思ったんですね。
思い返すと、僕の時代は小阪修平さんの『イラスト西洋哲学史』の存在が大きくて、この本で哲学史の面白さを知りました。非常にわかりやすく、なおかつ本格感もあった。おふたりが哲学史の世界に入ったきっかけは何でしたか?
吉川 私が学生の当時、書店に並んでいたいわゆる現代思想と呼ばれる本はすごく難しかった。でも、哲学史の方に目を転じると、もちろん個々の哲学者の話は難しいけれども、小阪さんの本のようなものもあり、私はそちらの方がすんなり面白いなと思えました。
山本 デリダやドゥルーズやフーコーが書いたものを読んでもわからない。わからないから、彼らが前提にしているひとつ手前の話を見てみる。構造主義にしても実存主義にしても現象学にしても、先行する哲学を批判して出てくる。そういう芋づるを辿っていくと、ヨーロッパ哲学の歴史をさしあたっては古代ギリシャまで遡ることになる。ここが哲学史の面白い所だと思います。
『哲学史入門』編集の裏側
山本 斎藤さんが『哲学史入門』のラインナップを選ぶ際、苦労された点や工夫された点はありますか。
斎藤 3巻目が一番苦労しました。主に19世紀末から20世紀の哲学・思想を扱っているんですが、哲学の潮流も多様になり、〇〇主義と言われるものもたくさん出てくる。1冊の中にそれらをすべて収めるのは普通に考えると不可能なんですよね。だから何を選んで、どのように構成するかという点はすごく悩みました。
山本 選ぶ時は何をポイントにしましたか?
斎藤 『哲学史入門 Ⅲ』は、第1章が現象学。第2章が分析哲学。第3章がフランクフルト学派を中心としたドイツの現代思想。最後がフランス現代思想という章立てです。19世紀末から20世紀の哲学を考えた時に、現象学は分析哲学と非常に近しい問題意識から立ち上がっていき、どちらも連綿と続いている潮流なので外せない。残りの2章をどうするかが悩みどころでしたが、ドイツ・フランスの現代思想にするのが収まりがよかろうと。
山本 「これも入れたかった」というものはありますか。
斎藤 哲学者でいえばニーチェですね。後世への影響を考えると、1章まるまる使ってもいいぐらいの主役級の哲学者だと思うのですが、あまりにも特異点すぎて、哲学史の特定の潮流の中にうまく位置づけられない。結果的にはフランス現代思想の源流的なところで触れるにとどまりました。
ただ、ニーチェに関しては、入門書も研究書もたくさん出ていて、学びたい人はいくらでも読んで補強する環境が整ってますよね。このシリーズは、あれもこれもと網羅するよりは、哲学史を学ぶ面白さを伝える本なので、欲張らずにいこうと。
インタビューをするうえでのポイント
山本 こうしたインタビューや取材では、聞き手が準備せず、著者がすでに書いていることを知らずに聞いたりすると、答える方もおざなりになってしまったりするものですよね。先生に話を聞きに行く際、どんなふうに準備したらこんな話が聞けるのかを伺おうと思ったのですが……これは企業秘密ですか?(笑)
斎藤 それぞれの指南役の「必殺技」というか、こだわりのある議論は、繰り返しをいとわず聞いていこうと決めていました。それを話し言葉にすることで、これまでにない説明の仕方も出るかもしれないなって。もう1つは、素朴な疑問であっても恥ずかしがらずに聞こう、ということです。
当然、主要な著書や論文は目を通していきますが、同時に、事前に質問案みたいなものを編集者を通じて先生に送っているんです。質問案では「先生の本は読んだ上でのこういう質問です」ということがわかるような書き方をしています。この質問案しだいで、先生のほうもエンジンのかかり方が違う気がするんですね。
山本 そうした質問メモがちゃんとしていると、「これは生ぬるいことでは許されないぞ」といった緊張感も出そうですね。実際にお話を聞きに行った結果はいかがでしたか。
斎藤 とにかくみなさん、熱量たっぷりに話してくれました(笑)。コロナ禍でコミュニケーションが取りづらい時期が続いたあとだった、ということもあると思うけれど、気がつけば3時間ぐらいがあっという間にすぎていく。インタビュー形式で哲学のことを思う存分話すっていう場が、意外となかったのかもしれない。
吉川 確かにね。同業者相手の学会とも学生相手の授業ともちょっと違う感じだから、新鮮だったんじゃないかな。
山本 哲学について自分が考えていることに興味を持って、とことん話に耳を傾けてもらうという状態は、存外稀というか、どこにでも転がっている状態ではないかもしれませんね。斎藤さんが聞き手なら、「この人なら話せる」という安心感みたいなものも働くでしょうし。
『人文的、あまりに人文的#02』について
斎藤 山本さんと吉川さんが「文学フリマ」に出展した同人誌『人文的、あまりに人文的#02』について伺います。特集では「いままで哲学の本を読んだことがない人におすすめする〈はじめての哲学書〉はなんですか?」というアンケートを、錚々たる方々から集められています。永井均さん、大澤真幸さん、古田徹也さん、ネオ高等遊民さんなど、界隈の著名人勢揃いという豪華メンツでしたが、みなさんの回答を見ると、プラトンを薦めている人が多かったですよね。
山本 私は東工大で哲学の講義を持っているのですが、プラトンは薦めやすいんですよね。私の場合、理由は単純です。ひとつは、難しい概念が飛び交う抽象度の高い独話体とちがって、ソクラテスが誰かと話し合う様子を書いてあるという点。誰かと話しながら考えを進めていくという、このやり方自体が哲学の方法でもある。誰かを反射板にしながら、自分1人では考えられないことを考える、いわば協働作業のスタイルですね。
もうひとつのポイントは、プラトンが書いたものは時代ごとに新訳が出ているということです。岩波書店から出ている『プラトン全集』も素晴らしいし、各種文庫などで新訳が出たタイミングで学生に薦めることも多いです。
吉川 新訳の良さというのはあるよね。最近『ゴルギアス』を30年ぶりに読んだのだけど、昔読んだものとは全然違う。当たり前だけど、新訳だから今の言葉になっているわけで、これがすごく良かった。昔の訳は日本語の言葉遣い自体が今と相当違うから、その部分の解釈も必要になってきたりする。
〈はじめての哲学書〉山本さんと吉川さんが薦める一冊は?
斎藤 当たり前ですけど、〈はじめての哲学書〉アンケートでは、編者である山本さんと吉川さんの回答は掲載されていませんよね。もしお二人がこのアンケートをいまもらったら、何を薦めますか?
山本 答えるたびに答えが変わるかもしれないという前提で言えば、デカルトの『方法叙説』です。哲学書というよりは日記のような感じで書いてあって読みやすい本です。デカルトは先人や同時代の嘘か本当か分からないようなことが紛れ込んでいる学問に不満だったのでしょうね。同書では、どうしたらより確実な知識を得られるだろう、と考えていく過程を描写しています。デカルトがそこで展開する思考の働かせ方はかなりラディカルで、賛否はともかくものを考える際の大きな手がかりになる。「哲学の手触り」というものを「方法」という、真似ができる形で書いてあるのがすごくいいなと思っています。
吉川 今はプラトンブームが来ているので、プラトンの初期の著作『ゴルギアス』をおすすめしたい。ゴルギアスは当時の弁論家で、すごく偉い人です。そこでソクラテスが3人――ゴルギアス、ゴルギアスの取り巻き、心酔する人――を、1人で順番に論駁していくんですけど、3人ともタイプが違っていて非常に面白い。
私が30年前に初めて読んだ時は、そこでどんなことが主張されているのか、どんな良いことが書いてあるのか、っていうことだけに関心がありました。でも、いま読んでみると、議論する時、ソクラテスが相手にいろいろと気を遣っていることに気が付くんです。これから一問一答風にやるけどいいですか、あなたは演説みたいに喋るのがお得意なようですけれど、一問一答風にやることに納得してもらえますかって、手続きを踏みながらやっているわけ。これってすごいことだなとか、若い頃にはなかった新しい発見がありました。まあ、それでも恨まれて死刑を宣告されるんですけどね。
斎藤 プラトンの対話篇と、デカルトの『方法叙説』は、〈はじめての哲学書〉としてはたしかに鉄板な感じがしますね。
ここからは、イベント参加者との質疑応答にうつります。
質問者1 お三方自身が初めて読んだ哲学書はなんですか。もしくは、これを読んで哲学に興味を持ったというのがあれば教えてほしいです。
山本 初めて手にとって読んだのは別の本だったと思いますが、これはよくわからないけどすごいなと思って哲学に俄然興味が出たきっかけは、アリストテレスの『形而上学』でした。読書をしていると、「古代ギリシャ人たちが、世界は何からできているのかについて考えた」「タレスという人が、世界は水からできていると言った」と、いろんな本でさかんに言われている。この出所が知りたいと思ったんですね。
そもそものタレスが書いたものはほとんど残っていないと言われているのに、誰がどのようにしてこの話が伝わったのか。そんな興味を持って調べてるうちに、どうもその話はアリストテレスが『形而上学』の最初の方に書いてるらしいとわかる。それで『形而上学』を読むのですが、初めはちんぷんかんぷんでした。『形而上学』に何が書いてあるかを知りたいっていうのが、ひょっとしたら私が哲学の本を読む原動力になったのではないか、そんな気さえします。
斎藤 哲学・思想に興味をもったきっかけとしては、西部邁さんの本が大きかったと思います。一時期は、『大衆への反逆』とか『生まじめな戯れ』、『批評する精神』シリーズとかむさぼるように読んでました。西部さんの本って、さまざまな哲学や思想のリソースが盛り込まれていて、ある種、哲学・思想ガイドとして読めるところがあった。西部さんの独特の解釈も面白くて、そこからいろんな哲学書・思想書に手を伸ばしていきました。
あとは浪人時代ですかね。昔の予備校って、雑談好きな先生が多かったんです。たまたま帰りの電車が一緒だった古文の先生が、ハイデガーや西田幾多郎の話をしてくれたこともありました。
吉川 私は高校まで卓球ばっかりやっていて、大学で何をするか考えたこともありませんでした。でも大学入学直前の高校最後の春休みに、何か勉強しようと思って田舎の書店へ行き、とりあえず文庫の棚を覗いて目に飛びこんできたのが、本多勝一の『殺す側の論理』『殺される側の論理』や『中国の旅』。タイトルに惹かれて読んでみたらものすごい衝撃だった。正義ってどこにあんのって思ったんですよ。純粋な哲学書ではないけど、今となっては、それが経験としては1番大きいかな。
現代における哲学者の在り方とは
質問者2 社会とうまく折り合いをつけつつも、登場した哲学者たちのように生きるにはどうすればいいでしょうか?
斎藤 直接のお答えにはならないかもしれませんが、ソクラテスもプラトンも、デカルトもそうだろうけど、ある種の過激さみたいなものを持っていたと思うんですよね。マイノリティ性というか反抗心みたいなものを抱えていた。ただ現在は、哲学自体が非常に細分化、専門化されてきているので、哲学者の役割も昔とはずいぶん変わってきていますよね。
山本 ご質問を聞いて、最近、岩波文庫で刊行が始まったアレクサンドル・ゲルツェンの『過去と思索』という自伝を思い出しました。ゲルツェンは19世紀のロシアで貴族の子どもとして生まれながら、革命思想を抱いたために流刑になり、後には亡命を余儀なくされた人です。思想があからさまに危険視された時代ですね。
例えば、日本でも戦前戦中にはそういう状況があった。現行の政治体制を覆そうとする思想が警察などによる取り締まりの対象となり、命を落とす人もあった。というのは、社会を変える必要を感じてものを考えた人びとの、「社会とうまく折り合い」がつかないケースの話でした。
今はどちらかというと経済至上主義で、「それでご飯は食べられますか、儲かりますか」という方向で「役に立つ、立たない」という区分のされ方をすることも多いですね。
吉川 今の山本君の話を受けて申し上げると、かつてのソクラテスやデカルトといった哲学者たちは、よくも悪くも秩序をかく乱する役割を担っていた。今は確かに学問として専門分化されたからプレゼンスは下がっていて、むしろそういう役割を求められてはいないのだけど、かつての哲学者と機能的に等価な存在っていうのは常にいる。
例えば現代ならYouTuberかもしれないし、宗教家かもしれない。そういう意味では、我々が前提としている価値観を揺さぶるような存在っていうのは、ずっといるでしょうね。またそういう人たちが、よくも悪くも脚光を浴びたり、力を持ったり、迫害されたり、ということはずっとあると思っています。この世の中で危険な存在であらざるを得ない人っていうのは、今もいるだろうなと。それがたまたま制度的な意味での哲学者ではないだけかもしれない。
山本 制度は、現在哲学を考える上では存外重要ではないかと思います。大まかに言えば19世紀あたりから、ヨーロッパの大学の仕組みが現在のような形になって、日本も明治期に入ってそれを輸入した。大学の学部や学科のような分類が、学問の縄張りを定めてしまった面がある。加えて現在は、論文を書くことが業績にカウントされる評価システムがあり、その中でどうパフォーマンスするかが問われるようになった。また、人はそうしたルールが定められると、その枠の中で最適化を目指したりがんばったりする生き物でもある。
一方には、そんなふうに制度化された研究としての哲学がある。他方では、哲学を、それこそソクラテスのような営みとしての哲学にまで戻して考えてみると、制度とは別のかたちで今もそこかしこで行われていると言えるかもしれない。
斎藤 『哲学史入門』シリーズの刊行をきっかけに、日本初の哲学YouTuberとして活躍しているネオ高等遊民さんと対談する機会をもちました。ネオ高等遊民さんの活動は非常にユニークで、新しさを感じましたね。タイに住んで、哲学動画を配信しつつ、さまざまな勉強会や読書会のプラットフォームにもなっている。まさに制度化されていない場所で、新しいタイプの「哲学者」が出ている証左かもしれません。
山本貴光
1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。著書『文体の科学』(新潮社)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文学のエコロジー』(講談社)など。
吉川浩満
1972年生まれ。文筆家・編集者。著書『理不尽な進化』『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(ちくま文庫)、『哲学の門前』(紀伊國屋書店)など。
斎藤哲也
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。