【THE ALFEE】50年の歴史 vol.1〜 まずは坂崎幸之助、桜井賢、高見沢俊彦の出会いから
【THE ALFEE】50年の歴史 vol.1
THE ALFEEデビュー50周年!坂崎幸之助、桜井賢、高見沢俊彦の出会いは?
THE ALFEEの結成は1973年、レコードデビューは1974年8月25日、ビクターから発売されたシングル「夏しぐれ」である。それ以前に坂崎幸之助、桜井賢、高見沢俊彦の3名はどのようにして出会ったのであろうか。
3人のうち高見沢と桜井は、同じ明治学院高校の同学年。ハードロック少年だった高見沢はレッド・ツェッペリンやディープ・パープルを演奏するロックバンドを結成していた。クラスが違う桜井は、サイモン&ガーファンクルなどのコピーバンド “コンフィデンス” に参加しており、これは桜井の美声に注目した同級生に誘われたというもの。桜井は10代の頃からアート・ガーファンクル張りの美しい高音域が魅力であったのだ。
コンフィデンスは、山野楽器で開催された、アマチュアのフォークコンテストに出場し、そこで坂崎と出会う。坂崎は1967年、中学1年でヤマハのFG110を購入し、アコースティックギターに親しんだ。本当はエレキが欲しかったそうだが “エレキは不良” という当時の風潮からアコギにしたという。都立墨田川高校ではフォークソング同好会を設立、高校3年時に1人でコンテストに参加。そこで桜井と出会う。
THE ALFEEの前身、コンフィデンスは1972年にレコードデビュー
坂崎はその後 “へそ下3寸” というグループを結成するも、のちに脱退。コンフィデンスに飛び入り参加して、その一員となる。その後コンフィデンスは審査員の1人だった小室等に目をかけられ、1972年にレコードデビューを果たした。この時の作品がシングル「昼下りの夢 / 街は生きていた」で、翌年2月にはこの2曲を含むアルバム『スクリーン・フォーク・アルバム 愛こんにちは』が、東宝映画『愛こんにちは』のオリジナル・サウンドトラックとして発売された。『愛こんにちは』は中国女優のチェン・チェンと、日本の歌手、三田明が共演したラブロマンスだが、残念ながらお蔵入り作品となり、サントラだけが東宝レコードから発売された。
その後、坂崎は桜井や高見沢と同じ明治学院大学に進学。そこで高見沢と出会い、坂崎が高見沢をコンフィデンスに引き入れる。ここでフォーク好きの坂崎と、ロック少年の高見沢が合流し、のちのTHE ALFEEの音楽的基盤が整うことになるのだが、2人はビートルズ好き、またウッドストックでのクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのギタープレイやハーモニーの美しさに惹かれており、高見沢を加え計4名となったコンフィデンスはバンド活動を本格化させていく。
この頃、1973年に東宝系列の東京映画『二十歳の原点』のサウンドトラックを四人囃子が担うこととなり、同作品の1曲「夜」を、コンフィデンス名義で高見沢が作詞している。レコードデビューに際し “シド” というバンド名に改名。それがいつの間にか「Alfie」(アルフィー)と改名されたが、バンド名は事務所の決定であった。
キャッチフレーズは “浪漫派アルフィー”
そして74年8月25日、ビクターから “浪漫派アルフィー” のキャッチフレーズで、「夏しぐれ」でメジャーデビューを果たす。この楽曲とB面「危険なリンゴ」は、作詞が松本隆、作編曲が筒美京平によるもので、事務所側から用意された楽曲であることは言うまでもない。
ただ、この時期、新人グループや、まだセールス面で成果を出していないグループには、プロの作家の曲が用意されることは普通であり、同時期にリリースされたオフコースの「忘れ雪」も同じ松本&筒美コンビによる作品で、この前年に発売されたアリスの「青春時代」も、なかにし礼&都倉俊一コンビの作。
こういったことはごく普通に行われていた。そして、作詞を手がけた松本隆も、はっぴいえんどのドラマーから作詞家に転身して間もない頃である。当初は、桜井がボーカルをとる「危険なリンゴ」がA面の予定だったが、急遽、高見沢がリードボーカルの「夏しぐれ」に決定。ギター未経験だった桜井は、アコギを担当することになった。
坂崎がメインボーカルを担った「青春の記憶」
75年5月には、同じ松本&筒美コンビによる「青春の記憶」をリリース(編曲は馬飼野康二)。ここでは坂崎がメインボーカルを担った。さらに同年8月に既出4曲を収録したファーストアルバム『青春の記憶』を発表する。このアルバムで興味深いのはB面のカバー曲で、南沙織の「ひとかけらの純情」(作詞・有馬三恵子)やブレッド&バター「白いハイウェイ」、つなき&みどり「ウエイト・アローン」(共に作詞・橋本淳)など、当時、筒美京平が他のアーティストに提供した楽曲が並んでいること。
その中にはオフコース「忘れ雪」のB面「水いらずの午後」も収録されており、筒美を介してTHE ALFEEとオフコースの邂逅がなされているのは興味深い。また、南沙織は前年12月発売のアルバム『20才』で「夏しぐれ」をカバーしている。
アルバムには坂崎作曲の「一年目の春」や(本名の坂崎幸二名義)、高見沢作詞・作曲の「卒業」「ロマンス・レイン」も採用されており、最初から自作曲を手がけていくという、グループの姿勢も感じ取れる。こういったアルバムの制作は、歌謡曲全盛時代ならではのビジネスモデルであった。
3作目のシングル「府中捕物控」が発売中止に
彼らのシングル3作目に予定されていた「府中捕物控」では、中日ドラゴンズの応援歌「燃えよ!ドラゴンズ」などの作者である山本正之が作詞・作曲を担当。だが、三億円事件をパロディ的に扱った内容が、社の良識に反するという理由で発売中止となり、これを機にTHE ALFEEはビクターとの契約を解除。その後は所属レコード会社がない時代が長く続く。
この間、3人はライブハウスでの活動を地道に重ねる一方で、同じ事務所の研ナオコ、由紀さおり、かまやつひろしらのバックバンドを務めていた。ことに同じ3人組グループであるガロとは関わりが深く、両グループはメンバー構成が同じという以上に、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングに影響を受けるなど、音楽性の面でも近いところがあった。
この雌伏の期間に、メンバーたちは自作曲の制作に注力するが、ことに高見沢はガロの大野真澄から助言を受け、オリジナル曲の作成に積極的に取り組んだという。76年には元ガロのメンバー、マーク(堀内護)のグループ、バースデーとのジョイントライブを日本青年館で行うなどかなり密な交流があった。THE ALFEEはその後、2015年発売のアルバム『三位一体』で、ガロへの敬意を込めた「碧空の記憶」という曲を発表している。
また、研ナオコの「窓ガラス」がヒットしていた78年の夏頃、『紅白歌のベストテン』や『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』などの歌番組ではTHE ALFEEがバックをつとめていた。
前作から3年8ヶ月ぶりのシングル「ラブレター」
やがて、ライブハウスの動員が増えていき、レコード会社数社から誘いの声が上がり、そしてキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)に移籍し、1979年1月21日、同社のF-LABELから実に3年8ヶ月ぶりのシングル「ラブレター」を発表する。
高見沢の作詞・作曲、クニ河内の編曲によるボサノバ・タッチの哀愁メロディーに間奏で挿入される美麗なストリングスの調べ、掛け合いや3声コーラスなど、THE ALFEEの音楽性の根底にあるロマンチックな作風が凝縮されたかのような1作だ。元々、ライブハウス時代にインスト曲として演奏されていたものだったそうである。また、彼らはこの時期から表記を「Alfie」から「ALFEE」に変えている。
独自の魅力を放っているアルバム「TIME AND TIDE」
大きなヒットには結び付かなかったものの、これ以降、3ヶ月に1枚というアイドル並みのペースでシングル「踊り子のように」「星降る夜に」「冬将軍」を立て続けに発表。同年8月21日にはアルバム『TIME AND TIDE』を発表し、全12曲中10曲が高見沢の作詞・作曲。他に「街角のヒーロー」「セイリング」が坂崎の作詞で、アレンジはメンバーのほかクニ河内と矢野立美が務めている。全編を通して聴ける美しい3者のハーモニーと、ギターのアンサンブルで統一された内容は、その後、ロック化していく彼らの他のアルバムでは聴けない、独自の魅力を放っている。
この79年には、桜井がTBS系ドラマ『熱愛一家・LOVE』に出演したり、坂崎が助演し、メンバー全員も顔を見せたコメディ映画『下落合焼とりムービー』が公開されるなど、バンド以外の仕事も増えていく。高見沢は同じ事務所のアイドル高見知佳に「しのび逢い」を作詞・作曲、のちにこの曲は85年に柏原芳恵が「し・の・び・愛」としてカバーしている。
まだ大きなセールスには結びついていないものの、地道なライブハウスでの演奏は継続され、怒涛のシングルリリースとその他幅広い活動によって、次第に彼らの認知度、人気は高まりを見せていく。この期間の活動が大きな成果を挙げるのは80年代に入ってからである。
THE ALFEE 50 SONGS 1974-1996
THE ALFEE デビュー50周年を記念し、1974年〜1996年リリースのシングル曲を中心に、リーダー高見沢俊彦がセレクトしたベスト盤。
・発売:2024年8月16日(金)
・仕様:CD4枚組+60ページ・ブックレット封入+3方背BOX
・価格:5500円(税込)