地域から世界へ! 日本のクラフトビールの未来をつくる「宮崎ひでじビール」の挑戦
人口減少やライフスタイルの変化、嗜好の多様化などの影響で、日本の酒類市場が変化している。アルコール飲料全体の消費量が減る中、小規模生産のクラフトビールが頭角を表し、2022年度の国内ビール系飲料全体市場の約1%を占める販売量は、ビール酒税が一本化される2026年には3%にまで膨らむとの予測もある。
クラフトビール文化が日本で育ち始めたのは、2010年以降のいわゆる第二次ブームから。以来、クラフトビールを醸造するブルワリーが全国各地で開業。その数は2024年時点で870カ所を超え、さらに他社に生産を委託するファントムブルワリーなどを含むと、1000カ所以上にも上るという。
そもそもクラフトビールのブルワリーが日本に誕生したのは1994年。酒税法改正で巻き起こった「地ビールブーム」まで遡る。
ビールの製造免許取得に必要な醸造量が大幅に引き下げられたことにより、これまで大手飲料メーカーしかできなかったビール製造業に、小規模業者の参入が可能に。飲食や酒造のノウハウを持たない異業種までが地域活性の観光資源として次々と醸造所を開設し、ローカルビールを製造し始めた。
現在、九州には71カ所のブルワリーがあるが、その中で最多となる年間350キロリットルの出荷量を誇るのが、宮崎県延岡市にある「宮崎ひでじビール」だ。完全自家培養酵母仕込みによる味わい深さとキレの良さが特徴で、国内外でさまざまな賞を受賞。「Think Global, Brew Local」をモットーに、宮崎の魅力を世界に発信しているブルワリーである。
創業者は、延岡市で石油卸業などを営んでいた「株式会社ニシダ」の西田英次(ひでじ)氏。水郷と呼ばれる延岡の行縢(むかばき)山の麓に、レストランを併設したブルワリーを建設する。地ビールブーム真っ只中の1996年のことだった。
今年で創業29年を数える宮崎ひでじビールは、今では日本有数のブルワリーにまで成長。現在社長を務める永野時彦氏はオープン直後からビール事業に携わり、日本のクラフトビールの歴史を体感してきたキーパーソンの一人である。
現在は会社運営の他に、「九州クラフトビール協会」や「全国地ビール醸造者協議会」などの要職に就き、イベントや勉強会を開催。ブルワリー代表者の一人として国税庁で意見交換するなど、これからの日本のクラフトビール業界について真剣に向き合う毎日を送っている。
PROFILE
永野時彦
ながの・ときひこ 宮崎ひでじビール株式会社代表取締役/1968年宮崎県西臼杵郡日之影町生まれ。1996年株式会社ニシダに入社、ビール事業部にて統括を務める。2010年EBOによりビール事業部を取得、同年7月「宮崎ひでじビール株式会社」を設立。現在は「(一社)全国地ビール醸造者協議会」副会長、「九州クラフトビール協会」会長などを兼任し、クラフトビール業界の情報発信のほか、健全な発展・育成にも全力を注ぐ。
ビール文化が未熟な日本で始まった「地ビールブーム」
〈▲ 創業当時のひでじビール。奥に醸造所があるブルワリーレストランスタイルだった〉
「ひでじビールは、(株式会社ニシダの)西田英次社長が『一企業が延岡の観光の役に立てば』という思いから、まちおこしの一環として事業をスタートしました。行縢山の麓を切り開き、ブルワリーレストランを建設。その費用は数億円もかかったと聞いています」
当時延岡市内のスーパーで働いていた永野氏は、地元の“ガソリン屋さん”のブルワリー開業計画を新聞で知ったという。
「なんて思い切った、夢のある事業を展開する会社なんだろう」――同じまちで起きていることに心を突き動かされ、永野氏はこの10カ月後には株式会社ニシダへ入社してしまう。
「最初に配属されたのはレストランでした。オープン当初は地ビール自体が全国的に流行りだったこともあり、ブルワリーレストランは連日大盛況でしたね。ビール事業部も50〜60人の従業員を抱える一大部署でした」
しかし地ビールブームは長く続かず、ブルワリーレストランも次第に客足が途絶えてしまう。
「元々石油の小売や卸しをする会社なので、いわゆる観光レジャー施設の運営は素人同然。さらに当時、本当に私たちにビールの知識があったかといえばそうではなく、見よう見まねで醸造していたところもあったんです。もっとも、それは我々だけに限らず、新興ブルワリーは技術的に未熟なところがほとんどで、味が値段に追いついていなかった。それが、地ビールが一過性のブームで終わったことの最大の原因だったと思います」
当時、全国に300近くあったブルワリーは次々と撤退、第一次地ビールブームは、わずか数年で終焉してしまう。ここから全国的に、長く厳しい地ビールの冬の時代に突入し、ひでじビールも事業存続の危機が訪れることとなる。
〈▲ 瓶ビール販売のほか、4種のクラフトビールを飲むこともできる売店〉
赤字補填のための出稼ぎ営業の日々
「2000年代初めからはビール事業部の赤字補填のため、集客が見込めるイベントに出店しだしました。出店してもやっぱりビールは売れない。しょうがないから、レストラン経営で得意だったフードを販売して日銭を稼いでいました。
当時の主要取引先に、宮崎市の大型リゾート施設『シーガイア(現フェニックス・シーガイア・リゾート)』がありました。イベントの数も多く、大規模なイベントが一つ当たれば100万単位の収入になるため、私を含む2名の社員で、毎週延岡市から宮崎市まで通っていましたね。その頃、シーガイアが事業再生に入るタイミングで、なんとかレジャー施設のテナントに潜り込むことにも成功。テナント事業で稼いで1年間の収支を揃えるようなことを2006年くらいまで続けていました」
立派な醸造施設を持ちながら、ビールは思うように売れず、テナントやイベントなどの“出稼ぎ”で糊口をしのぐ毎日。事業として健全な状態とは言えないものだった。
〈▲ 売り上げを補填するため、イベント出店に明け暮れる日々を過ごしていた〉
品質改善、自家培養酵母へのチャレンジ
「そもそもビール屋が、『ビールが売れないからフードで稼ごう』なんて本末転倒な話。『ビールを売って、ビール事業部を存続させよう!』と決断したのは、創業者・英次さんの意志を継いで会社を率いていた社長の西田英敏(ひでとし)さんでした。まずは延命措置だったテナントやイベント出店を全部やめ、改めて品質改善に注力することを考え、ビール酵母の純粋自家培養という方法を取り入れることになります」
ビールの主な原材は、麦芽とホップと水、そして酵母。麦汁の糖分をアルコールと炭酸ガスに分解し、ビールの香りを生み出す酵母は、ビールづくりに欠かせない醸造の命とも呼べる存在だ。
それまでは海外産のドライ酵母を使用していたが、目に見えない酵母を自分たちでコントロールできていなかった。そこで、安定したビールがつくれる、再現性のある酵母を培養することで、品質を底上げする作戦に出た。
〈▲ 安定したビールがつくれる酵母の自家培養〉
「ビールと日本酒の醸造経験のある酵母のスペシャリストに依頼し、3カ月間、毎週金曜から日曜に奈良県から来てもらいました。3日間で醸造のメカニズムをすべて指導してもらうんですが、当時の会社はなかなかのブラックで、そもそも1週間に7日仕事をしていたんですよ(笑)。7日間でやっていた通常業務を4日間にギュッと凝縮し、金曜〜週末は酵母を学ぶ。そして先生から新たに出された宿題をやりながら、次の週の仕事を4日でこなす。当時2名のブリュワーがいましたが二人ともフラフラで、座学を受けても居眠りが止まらない。相当きつかったと思います」
負のループからの脱却に向け、ビール事業部一丸となって身を削るような努力を続けた。英敏社長も、赤字続きのビール事業に資金を投入するなど、可能性を信じ続けた。
“できちゃったビール”から、“つくりたいビール”へ
品質改善のための抜本的改革。その一丁目一番地となる、酵母の自家培養技術を習得したことで、ひでじビールの品質は「著しく向上しました」と永野氏は振り返る。
「品質改良は過去の自分たちを全否定することからのスタートだったので、複雑な心境でしたが、自分たちが本気でうまいと思えるビールが作れるようになったのは、この技術を確立してから。今だから言えますが、それまでは自社商品を心からおいしいとは思っていませんでした。
“つくってできちゃったビール”を、おいしいと言い聞かせながら売るしかなかったので、常にモヤモヤ感が付きまといましたが、『これが仕事だから』『地域のためになるのだから』と自分に言い聞かせ、営業先を回っていました」
語弊を恐れずに言えば、技術的に未熟であったとしても、つくろうと思えばビールはつくれてしまう。ゆえに、《自分たちがつくろうと思ったビールではなく、できちゃったビールを売る》という現象は、「我々だけではなく、当時から現在に至るまでクラフト系ブルワリーが陥りがちな共通課題」だと永野氏は指摘する。
本当においしいと言い切れる自信作が完成した。ここから成功のストーリーを描いていた永野氏だったが、しばらく商品が売れることはなかったという。
「ある意味で自業自得とも言えるのですが、それまでに『ひでじビール=高くてまずい』というマイナスのイメージを植え付けてしまっていたんですよね…。それを覆すのが大変でした」
成功の先の事業部廃止宣告
〈▲ 開業当時の商品。ビールは「ゴールデンフォックスエール」など3種類だった〉
これまでの赤字を挽回すべく、永野氏をはじめとする事業部メンバーは足掻き続けた。しかし事業は好転することなく、創業から15年目となる2010年、会社からビール事業部の廃止を言い渡されてしまう。
「情に厚く、我々の取り組みを応援してくれていた英敏社長が突然亡くなったことで、状況が一変しました。間もなく就任した新社長は、経営スタイルがこれまでと180度違う方で、とにかく数字に強かった。彼からすれば、15年も赤字を垂れ流し続けたビール事業部を残す理由はなかったのかな」
新社長就任から2カ月後、ビール事業の終了が決定するも、永野氏は「ひでじビール」のブランドを残すことを画策する。
「当時事業部には、私以外に5名の社員がいました。事業部がなくなると彼らとその家族が路頭に迷うことになる。それだけは避けたかった」
入社して間もない頃、地ビールブームに翻弄されたビール事業部で、永野氏はスタッフを大量にリストラする任務を任されたことがある。昨日まで一緒に働いていた仲間を会社の都合で解雇することに葛藤を抱え、もう二度とそんな思いはしたくない、させたくないと強く思った。その苦い経験も、ビール事業を存続させたいという気持ちに拍車をかけた。
「あとは、品質が向上したビールを志半ばで諦めたくないという気持ちも強かった。おいしいビールだから、一度飲んでもらえればわかる。自信を持って売れる商品があるのに売れないのは、私たちの販売能力が低いだけ。自分の中で納得がいかないし、絶対売れると思ってもいたんです。なにより、(西田)英次さんの思い、彼が抱いたロマンを受け継ぎたかった」
「誰もやらないなら、俺がやる!」
延岡市内の有名企業を回りビール事業部の買収を打診したが、誰もが事業継続は不可能と判断し、首を縦に振る者はいなかった。買い手がつかず八方塞がりとなった永野氏は、あろうことか新社長に対し「自分にビール事業を売って欲しい」と交渉。従業員が自社の事業を買い取るEBO(Employee Buy-Out)を持ちかけた。
「当時、頭の中が真っ白で不安だらけの毎日だったから、精神状態もおかしかったんだと思います。『誰もやってくれないなら俺がやる!』って、後先考えずに口にしてしまったんですよね」
その時の原動力となったのが、5名の仲間の存在だった。「永野さんがやってくれるならついていきます!」。そんな言葉にほだされ、事業計画書を作成。そして新社長に面会を申し出た。
「経営や数字のことを全く理解していない一社員が、とんでもないことを言い出した。何を質問されてもまともに答えることができない。『お前みたいな奴が経営なんてできるか!』と全否定されました。普通ならここで諦めるのかもしれませんが、私は諦めきれなかった。
そこから週に1、2回社長に面談を申し込み続け、毎回けちょんけちょんにやられました。何度もダメ出しをくらい、『今日ダメだったら、もう諦めよう』という気持ちで腹を括ったものの、そこでも受け止めてもらえず。その面談の最後に、『数億円かけて山の中に造った醸造所を、壊して更地にするんですか! またお金がかかりますね‼︎』と暴言を吐き、帰りました。完全に終わったなと思いました」
しかし、社長の反応は意外なものだった。
「翌日社長から『もう一度本社に来い』と連絡があり、なにを言われるのかと思って会社に行くと『譲る』と。当時は、自分がやっていることがEBOだったことも、そんな言葉があることすら知らず、上司である社長に対し敵対的買収を仕掛けていたんです。今思うとありえないなと思うけど、そんな自分に事業を譲ると言ってくれた。最終的に良心的な金額で譲渡してもらえることになったんですけど、あれは社長の親心だったんだろうとも思っています」
担保ゼロ、地元愛で勝ち得た奇跡の融資
社長の“親心”で成立したEBO。しかし、資金調達が一筋縄ではいかなかった。事業計画書を携え延岡市内にある全ての金融機関を回ったが、担保もないので窓口で門前払い。全ての銀行に融資を断られた。
「会社をつくれば、銀行がすぐにお金を貸してくれると思い込んでいたんです。自分でも呆れるくらい考えが甘かった。途方に暮れつつ、日頃から相談できる間柄だった延岡市観光労働部長の元を訪ねました。すると私の話を真剣に聞いてくれて、延岡商工会議所の会頭さんに電話を入れてくれたり、すでに窓口で融資を断れている金融機関の担当者にも繋いでくれました。行政の立場にいる人がここまで親身になってくれた理由は、私が前職から続けているボランティア活動への評価でした」
〈▲ 地元の物産観光イベントを手伝う永野氏〉
みんなで一つのことを成し遂げた時の達成感が好きで、地域のイベントやボランティア活動にも積極的に参加していた永野氏は、地元で知られる存在だった。
「部長はそうした私の活動を知っていて、『こいつは延岡の街のことをよく考えている。うまく転べば、地元にとっても必要な企業になると思う』と、方々に相談してくれていたようです。そのおかげで、窓口で断られた銀行では支店長が直々に話を聞いてくれました。最終的には銀行と、国民生活金融公庫が協調して融資してくれました。先方にとってはリスクしかないので、今振り返っても奇跡的なことが起きたと思っています」
社名と共に、創業者〈ひでじ〉の思いを引き継ぐ
〈▲ 2010年当時の商品。これら4種類が主力商品として会社を支えた〉
地ビールブームの熱狂を経験し、衰退期をもがき続けた「ひでじビール」は閉鎖を免れ、2010年11月、従業員による「宮崎ひでじビール株式会社」として、新たなスタートラインに立った。
新会社設立に際し、周りは口を揃えて「『ひでじビール』というブランド名は変えた方がいい」と進言してきたという。
「ひでじビールには負のイメージもある。それよりも心機一転、横文字のかっこいい名前を付けた方が成功できる、とね。まぁ、そういう意見も理解はできましたけどね」
永野氏は、創業者である西田英次氏の名前を冠したこの名前を、頑なに守った。
「英次さんは、めちゃくちゃロマンがあるおじいさんだったんですよ。観光空白地帯の延岡に、自分たちで新たな観光拠点をつくろう。同じ県北エリアの人気観光地である高千穂から、半分でも観光客を延岡に引っ張ろう。そして延岡に来た観光客をさらにシーガイアに運んで、宮崎県全体を潤そう――そんなことを夢見ながら、ブルワリー事業を計画した。結果的にビール事業は失敗しましたが、地域貢献の想いを胸に数億という大金を投入し西田英次の粋な生き方は、本当にかっこいいと思うんですよね。ひでじビール=英次。残さなきゃダメでしょ」
西田英次氏がビール事業に託した夢。それは、ただおいしいビールを醸すだけでなく、それを多くの人が愛し、それを求めて地域に人々がやって来る未来をつくること。永野氏はその夢を実現するため、今もチャレンジを続けている。
――後編につづく。