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デビューから45年、テクノ演歌といわれた松村和子の「帰ってこいよ」のパンチの利いた望郷歌謡を聴けば、今でも必ず元気になる

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デビューから45年、テクノ演歌といわれた松村和子の「帰ってこいよ」のパンチの利いた望郷歌謡を聴けば、今でも必ず元気になる

 タイトルそのままの「帰ってこいよ」のサビが、耳から離れない。

 カエッテコイヨ~、カエッテコイヨ~、カエ~ッテ コ~イヨ~~~と3番まで同じサビが繰り返される、松村和子の声量豊かな鮮やかな伸びのある声を数十年ぶりに聴いた。過日、某BSテレビの歌謡番組で「デビューして45年、63歳になります」と彼女は言った。往年の異色のスタイルと少女の風貌はデビュー当時の松村和子、そのままだった。懐かしさがこみ上げ、画面に釘付けになった。

 昭和55年(1980)4月に発売されたデビュー曲「帰ってこいよ」が、いきなりヒットしはじめ、オリコンチャートは週間5位、TBSテレビ「ザ・ベストテン」にランクインして4位にまで上り詰めた。翌年までヒットは続き、1981年「第32回NHK紅白歌合戦」に初出場。45年前デビューした松村和子18歳にして歌手人生を決定した出来事だった。彼女は、「この楽曲に出合わなかったら、今まで歌い続けてきた私の歌手人生はない」とテレビを通して明快に発言した。

 北海道出身。父は芸能プロダクションを経営し母は民謡歌手、民謡茶屋を経営する芸能一家で、3人兄弟の真ん中に生まれた。野口五郎に憧れて歌手になりたいと思ったのは中学生の頃。母から民謡や歌謡曲を仕込まれた。15歳で上京したのは、ビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)のオーディションに挑戦するためだった。民謡で鍛えられた喉と声量、歌唱力で合格。時を経たずデビューのチャンスが巡ってきた。作詞・平山忠夫、作曲・一代のぼる、編曲・斉藤恒夫による新譜が手渡された。が、詞と音源をはじめて聴いた彼女の開口一番は、「これは民謡じゃない、これってダサくない!?」だった。「北海道育ちで青森もお岩木山も知らないし、(15、6歳の私が歌うには)田舎っぽく感じた」という。いよいよポップスが台頭し大ヒットする時代のこと、カエッテコイヨーは確かにダサかった。しかし、カラオケを聴き直し歌ってみると周囲から「これ、売れるわ!」と絶賛されて自信がわいたという。

 
 演歌らしからぬアップテンポ、三味線が畏まった邦楽の演奏しか使われなかったはずが、ひっくり返したようなエレキギターまがいのロックの乗り、テクノポップス系の演歌と青森・津軽の風景がミスマッチの面白さを誘った。懸命に津軽三味線の練習に励んで「帰ってこいよ」だけは弾けるようになったといい、ギターを操るようにつま弾いた。デビューは18歳になったばかり、振袖は膝までで白いパンツを履いていた。腰まである長い髪を揺らしてギターならぬ津軽三味線を抱えて歌う姿は、まるでロックで弾かれる少女のように見えた。「あの頃、テクノ演歌って呼ばれたんです」と言ったが、奇をてらってヒットを狙った楽曲でないことは松村自身の歌唱力が証明していた。1980年の第22回日本レコード大賞新人賞を受賞。演歌のジャンルでは、彼女だけだった。

 最優秀新人賞を競ったのは、岩崎良美「あなた色のマノン」、河合奈保子「ヤング・ボーイ」、田原俊彦「ハッとして!Good」、松田聖子「青い珊瑚礁」。大晦日の帝国ホテルの表彰式の光景を、松村ははっきりと覚えている。「聖子ちゃんかな、と思いながら発表を待ったんですが、俊ちゃんの名前が挙がった一瞬、聖子ちゃんの悔しそうな表情が忘れられないし私も残念な思いだった」と言った。同年、第13回日本有線大賞の最優秀新人賞では、田原俊彦、松田聖子をおいて面目を保った。

 
 それにしても45年前に初めて耳にした「カエッテコイヨ~」が、なぜ懐かしくよみがえったのか。その頃、ボクは雑誌や書籍の編集に夜も日もなく追われていたし、カラオケに興じる暇などなかった。まして、岩木山など青森県のどこに位置するのかも無知。テレビの歌謡番組もほとんど見られず状態だった。それでも、あの威勢のいい松村の高音は一度聴いたら忘れられないインパクトがあった。パチンコ屋から流れたのか、商店街のスピーカーからだったのか。ある日、仕事が終わってほぼ深夜近く、軽くー杯飲っていたら聴こえてきたのは、「帰ってこいよ」だった。

 正直いえば、カエッテコイヨ~のフレーズだけが脳裏に刻まれていたせいか、故郷の親父か母親が東京に出て行った息子(娘?)を想う楽曲だろう、とてっきり思い込んでいた。東京生まれ東京育ちには、故郷を想う感傷がない。それでも、「そういえば、このところ全然帰ってないな」と我に返った。仕事にかまけて、同じ東京のひと駅違いにもかかわらず、突然、無沙汰の情が溢れた。明治生まれの親父は、長患いの長女を亡くして認知症が一気に進み、特養老人ホームに入ってー年も経った頃だったか。母ー人住む団地の部屋が浮かんだ。ぽろぽろと涙がこぼれた。松村和子の高音を聴き入って、30歳を超えて初めて感じた望郷の念だった

 見渡せばこの威勢のいい歌が流れる店内にいた年配の男たちが、なぜか、しんみりしていた。集団就職の世代にとって、帰ってこいよ、と叫ばれれば誰でも同じような郷愁に耽るのだろうか。青森・津軽でなくとも、岩木山でなくとも、かつて過ごした故郷の情景とともに、歌詞の通り、おふくろが褒めていた気立てのいい彼女の顔が浮かんでいるのだろうか。コップ酒をー口啜るたびに、決して帰って来いと口にしたことがない我が母の強さを想った。

 
 実際には、この楽曲は、故郷の津軽から東京へ出て行った女の子を想う男の恋心である。キャッチフレーズは〈帰ってきた男衆(やんしゅう)演歌〉だった。太田裕美の大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」の逆パターンといえる。親が息子を呼び戻そうとする歌ではなかった。それでも詞には、おふくろの思いやりがしっかりと刻まれている。お前の嫁に欲しかった娘だった、と今夜もひとりごとを言っている、と。1980年の東京の空は、茜色だったか、否、すっかり光化学スモッグに汚れていたはずだ。茜色の空、白いリンゴの花、お岩木山、津軽の風…、変わりつつある昭和の都会の風景に対抗するように、故郷の風景を刻んでいる。

 1980年代を思い返せば、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のニューウェイブといえるテクノ・ポップが台頭し、女性ファッション雑誌が相次いで創刊。ボクは商売柄無関心ではいられなかったが、『J J』『Can Can』『Olive』etc.横目にしながら「何のこっちゃ」とうそぶいていた。日本の社会には新しい空気が吹き込もうとしていた。ひょっとしたら、「帰ってこいよ」の「あの娘」はまっさきに東京に出て行きたがった、青森生まれの翔んでる女だったのか。松村和子の強烈なデビューとアクティヴさは、時代を映していたのかも知れない。

文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫

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