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20万円でも人は死ぬ

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20万円でも人は死ぬ

ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と。これもまた空であって、苦しいわざである。 ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。 すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。
「伝道の書‬ 4‬:8‬-10‬」


親会社から見放されたその後

おれの勤める零細企業は、親会社から見放された。そのことは前に書いた。

「手取り19万円の栄光の終わりに」


その後、どうなったのか。親会社は我が社に対する2000万円くらいの負債をチャラにしてくれた。チャラにしてくれた分、それに消費税がかかり、意外なところから困ることになったがそれはそれでいいだろう。

「元」親会社の社長は、なぜか毎月我が社を訪れて、日繰り表などをチェックしてはアドバイスらしきものをしてくれる。日繰り表をつけるのはおれの当番になった。


やっていけているのかどうか。いけていないとしかいえない。

おれはここ二ヶ月給料が出ていない。正確にいえば一回だけ10万円出た。なるほど二ヶ月分の家賃にはなる。少し足りないが。


ようするに、もううまくいっていない。親会社ができる前に戻ったといえばそのとおりだが、ともかくうまくいっていない赤字零細企業に逆戻りしたということだ。

こういう状況は慣れてはいたが、数年間の「手取り19万円の栄光」のなかにいたおれには、ややきびしいものがある。


親の引っ越し代を出す

そんななかで、おれは現金預金の半額を一気に放出した。なにをしたのか。親の引っ越し代を出したのだ。

親は古い借家の一軒家に住んでいたのだが、家主が「もう家が古すぎて不安だ」という理由で、前回か前々回の契約更新のときから契約の解除を望んでいた。


家主は、おれの親よりもさらに高齢らしい。いよいよ、もう限界だということになって、契約が更新されないことになった。

契約が継続中であれば、引っ越し代やその他の補償などあるところだろうが、契約がなされないのであればそれはない。親は家を失った。


ここで、人の助けがあって、近いところに引っ越すことができることになった。なったはいいが、おれがものを片付ける能力がないのと同じく、おれの母親にも片付ける能力がない。一方で、人工透析を受けている父親はAmazonなどでものを買い漁る。なにもできない分、買い物しかしない。

家はたいへんな物で溢れているらしい。らしい、というのは、おれは父親と縁を切っているので、その場を見たことがないからだ。


そして、母親から引っ越しにかかる費用を出せないかと言われたその金額は、おれの現金預金の半分くらいだったということだ。具体的にいえば、数十万円の話である。おれが一千万円の預金があって、半分出すという話ではないのだ。まあ、五百万円かかる引っ越しというのもないだろうが。


というわけで、おれは通帳に刻まれた金額がいきなり半額になった。もちろん、世の中の真っ当な勤め人からすれば、吹けば飛ぶような額だろう。それでもおれにはなにかもう数字が絶望的なものに思えた。


iMacがお亡くなりになる

会社から安定した給料は出ない。突発的な出費があった。そんななかでおれにおこったのはなにか。毎日仕事で使っているiMacの突然死である。


突然死、というのは言いすぎかもしれない。けっこう前から調子は悪かった。起動に時間がかかる。かかりすぎる。かかりすぎるので、毎日スリープして仕事を終わらせていた。起動している状態ではまともだっった。


が、ある日のことだ。InDesignというDTPアプリを使っていたら、配置した画像が謎のモノクロバグ画像になった。動きもすごく遅い。

おれがおもに使うのはIllustratorというアプリだが、まあInDesignでもそういうことが起こっては仕事にならない。これは復帰に時間がかかるとしても、いったん再起動するかということにした。


そうしたら、再起動することはなかったのだ。「起動ディスクが見つからない」という、まだMacintoshがベージュ色だったころからのトラブルがおきた。

おれのそれなりにパソコンの大先生なので必死に抵抗した。内蔵HDD(HDDなのです)をフォーマットしなおして、パーテーションを切って、そこにTime Machineからの復旧を試みた。Time MachineはMacのすべてのバックアップを取ってくれる機能である。一定時間に、すべてのデータを。


無駄だった。iMacは完全に息絶えた。ただ、Time Machineには最期の日の昼までのデータがすべて残っている。これを新しいMacに移行すれば、数時間の作業を除いて、またもとの環境に帰ることができる。

新しいMacがあれば。


新しいMacが買えない

が、我が社には新しいMacを買う金がなかった。その額、約20万円。

20万円で新しくて能力の高いiMacを買える。モリサワのフォントもAdobeのアプリも、メールやなんらかんやらの設定もすべて復旧できる。


が、社員に給料を出せない会社に、新しいiMacを買う金はなかった。社員の給料より先に、取引業者に先払いしなければならない金がある。

親会社がいたころは、全部先払いしていた。それなのに、いきなりまた、「仕事が終わって入金があるまで半金で」みたいなことにしたらどうなるか。信用を失ってしまうだろう。むろん、iMacを買わなくてもそんな金ないという事情なのだが。


さて、どうするべきか。おれも働かなくてはならない。働くにはMacが必要だ。ならば、自腹を切ってとりあえず買うべきだろうか。おれの現金預金は少ない。20万円出すと、かなり苦しい。引っ越し代を出していないのであれば、「私物としてiMac買って仕事に使いますよ」と言うことができたし、やったであろう。ただ、おれは現金預金を見て、そう言い出すことはできなかった。


そこで、どうしたか。おれは、自分のアパートで使っていたDELLのノートパソコンを会社に持っていくことにした。ノートパソコンとはいえ、ゲーミングPCである。そんなに新しいものではない。

しかしながら、コロナ禍のころ、リモートワークできないかと試して、Adobeのソフトが十二分に動いたことは確認している。これを使うしかないのではないか。


おれは自分のDELLを会社に持っていった。持っていって、Adobeのアプリをインストールした。モリサワのフォントをインストールした。Creative Cloudでファイルの共有をできるようにした。もちろん、メールやその他の設定もした(仕事用に三つアカウントを設定する必要があった)。


とりあえず、最低限の仕事ができるようには整えた。おれのDELLにはエッチなゲームのデータとか入ったままだ。もう仕方ない。せめてデスクトップの壁紙だけはすばらしいストライクウィッチーズのそれから、なにか抽象的なデフォルトのものに変えた。


手足がもげる

Adobeのアプリが使える。モリサワのフォントが使える。ファイルの同期もできる。これであるていど仕事ができる環境は整った。とはいえ、問題は多い。

細かい話は多いが、Macに入っていた主要フォントのHelveticaがつかえない。なにより、Illustratorのリンクファイルがリンク切れになる。濁点、半濁点を含んだファイル名は文字コードの関係からMac-Win間でうまくいかないことは知っていたが、そうでないファイルまでリンク切れになる。このあたり、なんの話をしているんだという人も多いだろうが、まあ、なにかたいへんなことが起こっているのだ。


Helveticaは、モリサワ提供の似たようなサンセリフ英文フォント(学名を取り扱うので斜体が必要)に置き換えることにした。リンクについてはどうしようか。同じファイルを繰り返して使うので、いまさらすべて半角英数のファイル名にするわけにもいかない。これはどうしていいかわからない。


おれは、なにをしていいかさっぱりわからなくなった。せいぜい、左手に異常な痛みを覚えるようになった原因である「Ctrl」を「Alt」キーと入れ替えることくらいしかできなかった。


……しかしなんだ、みんな手が大きいのか。おれの手は「子どもの手みたい」と言われることがあるが、本来のCtrlキーの位置でコピペほかいろいろのショートカットを使える気がしないのだが。おれの小指は短すぎるのか? すべてがいやになる。


おれが仕事に使っていたiMacはおれの道具ではあったが、おれの身体の延長のようなものであった。おれの視線であり、手指であった。それを実感した。

それが奪われて、似たようでまるで違うなにかになってしまった。このストレスは大きかった。自分の想像する以上に大きなストレスだった。


データもすべて同僚の人がおれのバックアップからサルベージしなくてはいけないし、ウィンドウひとつひとつの動きが覚えられない。あっちを開いていては、こっちを開く。その動作もすべてぎこちなさが伴う。

かろうじておれができていた仕事が、とても非効率になった。アプリのショートカットにとどまらず、思考の上、動作の上でショートカットしていたすべてがつっかかる。たいへんなストレスだ。


20万円で人は死ぬ

解決策は皆無なのか? 実のところ違う。おれが現金預金以外の資産、資産というほどでもないが、株や投資信託を現金化すればいいだけの話だ。

もちろん、おれに一千万円の資産があるわけもない。おれの年齢ならあって当然であろう、少なすぎるくらいだろう。おれにはその程度の金もない。だが、その五分の一の十分の一を取り崩せば、おれは私物としてiMacが手に入る。労働環境はもとに戻る。


が、どうにもおれにはそんな気が起こらなかった。そうするのに激しい抵抗があるわけでもなかったが、すすんでする気にもならなかった。なにもしたくなかった。全部にうんざりしてしまった。四方八方から、「おまえの人生はここで終わりだ」と言われているような気持ちになった。


死ぬことが急接近した。おれも長いこと精神障害をやっているし、それ以前から、子供のころからずっと生きにくかった。

死が頭をよぎることは何度もあった。だが、そのなかでも、今回はとくにスッと入ってきた。「ああ、ここで死ぬか」と思った。そしておれは思った。「人は20万円でも死ぬものだな」と。


人は20万円でも死ぬ。20万円が最後の一押し、the last strawと言いたいわけでもない。20万円が全てで、その20万円が足りなくて人は死ぬこともある。そういう実感だ。


よく、「そのぐらいの金で死ぬことはない」という物言いはあるが、そんなのは、そうではないな、そう思った。死んでいないおれに言う資格があるのかわからないが、いや、死ぬこともあるよ。そういう知見を得た。

この知見は役に立つのか? おれにはそんなことはわからない。


それでも生きているのだが

そうだ、それでもまだ生きている。生きていることで、このテキストはなんの価値もない可能性はある。そんなことはどうでもいい。


おれはこのような情況になってから、しばらくがんばった。おれにもがんばるということはある。がんばって抑うつに陥らないようにした。が、双極性障害の抑うつは「がんばり」でどうにかなるものでもない。「がんばり」でどうにかなるなら医者はいらない。


そしておれは深くて重い抑うつに陥った。朝起きられないだけではない、昼になってなんとか出社してもつらく、夕方さらに厳しくなり、帰り道はどんなお年寄りよりものろのろと帰る。もちろん仕事は捗らないし、憂鬱は増していく。脳には霞がかかったようだし、身体は動かない、動いてもスローモーションだ。


Vanitas vanitatum et omnia vanitas. とはいえ、苦境を述べれば差し伸べる手もある。実際にいまこれを書いているのは自宅の安アパートだ。パソコンがなくなったのでは? いや、中古のノートパソコンを恵んでいただいた。胃腸的な意味で食べるのも苦しいが、Amazonのほしいものリストから贈っていただいたカップ焼きそばは食べられる。


おれの命はもう少しつづく。つづくだろうが長いはずもない。二ヶ月給料が出ていない。親に資産もないのに生まれてくるのは辛い。この社会で金を稼ぐ能力に欠けて生まれてくるのも辛い。

後者はとくになんとかなるだろうと思う人は多いだろうが、それはあなたがそうできるだけの能力があるからだ。おれは20万円足りなくて死ぬタイプの無能だ。生まれてきて、いったいなんだったんだろうな?

それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。 しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。」 伝道の書‬ 4‬:2‬-3

***


【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Iain Buchanan

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