村上春樹の恋愛小説「ノルウェイの森」は ビートルズ「ホワイト・アルバム」からの影響?
ビートルズの “カバー曲” で始まる村上春樹「ノルウェイの森」
ハンブルク空港に着陸間近のボーイング747号機でふと流れたビートルズの「ノルウェイの森」(小説タイトルに表記を合わせます)を聞いて、38歳の主人公ワタナベが愛した女性・直子の死という、20年近く前の記憶を手繰り寄せていくこの小説の書き出しは、とても印象的だ。かく言う僕もたしか高校生の頃に読んで、それから15年近く経っているが、かなり鮮明に覚えていた。
…はずだった。しかし読み返してみると、それは “どこかのオーケストラが甘く演奏する” ものだったとある。要するにカバー曲だった。僕はてっきりオリジナルだと錯覚していた。おびただしく出てくる楽曲が単なる記号や雰囲気づくりではなく、ときに深い象徴性をもたされることが村上作品の特徴であるならば、この「ノルウェイの森」がカバーバージョンであることも、何かしらの意味があるのかもしれない(ましてや小説冒頭の第1曲である)。
文学史的には、紅茶に浸したマドレーヌの薫りからふと幼少期の記憶を思い出すマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』との類似性がある。マドレーヌがビートルズの楽曲に置き換わっているのであり、記憶というのは常に理性というより嗅覚とか聴覚とか、感覚的なところから “襲撃” してくるものだ。
ではなぜカバーなのか? “記憶というものはなんだか不思議なものだ” という語り口に始まり、ワタナベはいかに記憶というものが日々薄れていくもので、不完全なものかをとうとうと語る。“鮮明に覚えてない今だからこそ、自分は暗い青春時代について書くことができるのだ” とさえ言う。そう考えると、死んだ直子の思い出に結びついた「ノルウェイの森」が原曲と異なるカバーであることは、この語り手の記憶がアレンジメントされたもの、バイアスのかかったものだと暗示しているのかもしれない。
村上春樹の小説「ノルウェイの森」バックボーンは「ラバー・ソウル」?
ビートルズは人々の集合記憶のなかで、60年代を指示するノスタルジー的な記号になっている。しかしさらに注目すべき点は、ビートルズ自体が「イン・マイ・ライフ」や「ペニー・レイン」といった楽曲でリヴァプールへの郷愁を歌にしたことだ。ノスタルジーを呼び起こすビートルズ自体が、ノスタルジーを歌っていたバンドだった。だからワタナベのビートルズを契機にした回想は、妙な説得力を帯びるのかもしれない。
この小説は「ノルウェイの森」で始まり、(明示はされないものの)「ノーウェア・マン」で終わるが、この2曲はアルバム『ラバー・ソウル』からのものだ。ビートルズのこのアルバムが小説のバックボーンにあることの意味は大きい。
『ラバー・ソウル』はビートルズの転機になった作品として知られ、ここから歌詞は深みを増し、インド音楽などを取り入れた楽曲はアヴァンギャルド化していった。要するに初期ビートルズのイノセントな時代が終わりを告げた陰鬱さをもっているのであり、それは子供と大人の中間領域にある大学生のワタナベが作中で何度も “大人にならねば” と通過儀礼的に自分に言い聞かせる姿に重なる。
村上春樹が着想を得た「ホワイト・アルバム」
…と15年前の僕は思っていた。しかし村上自らパーソナリティーを務めるTOKYO FMの番組『村上RADIO』の特集「The Beatle Night」で著者が明かしたところによると、ギリシアのスペッツェス島で、海岸で釣りなどしながらぼーっとして、毎日カセットテープで聞いてたビートルズの『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』(以下、白盤とします)が妙に心に染みたらしく、そこから『ノルウェイの森』執筆が始まったというのだ。
『ラバー・ソウル』じゃないのか…。やれやれ。しかし、なるほど。その情報込みで再読してみると、『白盤』の曲が少なからず出て来ることに気づく。特に小説ラストの直子の死を弔う場面で、レイコさんがギターで力尽きるまで色々な曲を歌うリストのなかに、「ジュリア」が入っていることは見逃せない。
死と生の表裏一体を物語る「ジュリア」と「オブ・ラ・ディ、オ・ブラ・ダ」
この曲はジョン・レノンが5歳のときに離婚し、17歳のときに交通事故死した母ジュリアのことを歌ったもので、『白盤』B面を締めくくる陰鬱で静謐なレクイエムだ。この曲にはオノ・ヨーコへの呼びかけ「Ocean Child(大洋の子)」というリリックがある。
『ノルウェイの森』で直子の死に動転したワタナベが、山陰地方の海岸で直子とのオーラルセックスを思い出し、ウォッカを飲む印象的なシーンは、おそらく「ジュリア」の影響がある。死と暗い海のイメージが結びついている上に、ワタナベは偶然出会った親切な漁師に “母が死んだ” と嘘をつく。ジョンの曲のように、ここで海は母性にも結び付けられる。そしてワタナベはこの海岸で、親友キズキの自殺から学んだ教訓を思い出す。
“死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ”
この言葉で僕が思い出すのは、死を歌った「ジュリア」という曲が、生の喧騒を歌った「オ・ブラ・ディ、オ・ブラ・ダ」のシングルB面に収録されたという事実だ。生と死は、人生という名のレコードのA面とB面で、表裏一体なのである。それは自殺に憑りつかれた直子と、ワタナベと同じ大学に通い、活発に人生を謳歌する緑の関係性にまでふえんしてもよいものだ。だからワタナベは、本質的にどちらかを選ぶことはできない。
ノルウェイの森で描かれる “白”
再読の感動もあってやたら長くなってしまったが、ここまで来たら全部書いてやるぞ(?)。『白盤』がベースにあることを踏まえると、この作品全体が “白” のイメージに妙に結びついていることが見えてくる。書き込みもしるしもない直子の部屋の真っ白なカレンダー、人里離れた “異界” の象徴としての阿美荘(*収容施設)の医師のセリフ “また冬にもいらっしゃい。何もかもまっ白でいいもんですよ” 。
ワタナベの阿美荘での最後の直子との邂逅は、3日間雪に包まれたもので、“さよなら” と直子は意味深に言う。直子が自殺前にワタナベの手紙を焼き払った際に生じた白い灰、そして手紙同様に、白い灰になった直子… 白さは常に死のムードを醸している。
村上が60年代末に大学生活を送った団塊世代であることまで踏まえると、収容施設の陰鬱な雪景色は、全共闘運動の敗北として60年代の終焉を告げた、あの “あさま山荘事件” のテレビ放送の雪景色とも、微妙に重なり合うかもしれない。死に結びついた “白” のイメージをまとう直子の亡霊は、生に結びついた大学の同級生・緑のなかに潜んで、ワタナベにずっと憑りつくのだろう。