私だけの「静けさ」を見つける旅。歴史と神秘に触れる、仏像めぐりのすすめ
いつもの朝。たいして変わらない今日の予定。同じ電車に揺られ、駅に着くと習慣的に歩き始めたその時。ふと見上げたホームの端の空に「ホント!青いよなぁ」と感じたあなた。
それはルーティンにどっぷりかった日々に、ほんの少し刺激の光が差し込んだ瞬間です。「このままどこかに行っちゃう?」なんて心の中でつぶやきたくなって、心が旅へと揺れ始めます。
そのまま駅に戻って、違う方角の電車に乗れたら幸せですが、そうもいきません。でも次の週末まで、その「企み(?)」を温めておくことは出来ますね。
そんなに遠くへ行かなくても、見慣れぬ車窓と、ちょっと美味しいランチと、いくらかの「期待」。これだけで十分。非日常を満喫できます。
ではその「期待」を胸に、予想外の出会いを楽しむような「成り行き任せの旅」はどうでしょうか。しかしこれは、社交的で旅慣れた方は別として、少々ハードルは高めです。
「昼食の注文以外、ひと言も口をきかなかった」というのは私の失敗談ですが、旅の初心者には目的があった方が、「期待」に応じた充実感を得やすいものです。
さて本題です。そんな旅の目的に「仏像めぐり」は如何でしょうか。たとえ出会いの輪が広がらずとも、十分に充実した旅になるはずです。この旅に特別な知識は要りません。興味が湧けば自ずと知識はついてきます。
静岡市井川の中野観音堂の仏像
みなさんの「期待」の中にもしも、「静けさ」に身を置きたいとか、「歴史」のあるものに惹かれるとか、「穏やかな気持ち」になりたいなどがあるなら、特におすすめです。
まずは「静けさ」から。以前こんなことがありました。ある寺でしばらく仏像の前に佇んでいると、隣に併設された幼稚園から、子どもたちの元気な声が聞こえてきました。しかしその時私が感じていたのは…「静けさ」。
また別の寺では、堂守と近所の方が話し込んでいました。話の内容が聞き取れるほどの大きな声でしたが、やはり静かだった印象だけが残っています。何故でしょうか。 思うにこれは、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の世界と同じ感覚なのかもしれません。
芭蕉がこの句を詠んだのはみちのくの立石寺(りっしゃくじ)。『奥の細道』には、その前に「仏閣を拝し…」とあるので、おそらくは仏にまみえた後に、ひねった俳句だったのではないでしょうか(と、勝手に考えています)。
つまり「静けさ」は蝉の大合唱のようなその時の環境とは関係がなく、仏像と対面することで自分の中に生じたものだったのです。そして子どもの声も、堂守の話し声もお堂の外でしたから、これとの対比が内なる「静けさ」を際立たせたのかもしれません。
静岡市井川の中野観音堂の仏像
また古い仏像が残っているのは、造立した仏師だけの功績ではなく、それを守り伝えた僧侶や檀家、仏像に関わった多くの人びとの、長い長い駅伝リレーの成果なのです。だから疵(きず)や補修の痕一つにも、自然に「歴史」を感じることができるのでしょう。
そして「穏やかな気持ち」。これは仏との対話から醸し出されます。対話とは、実は自問自答なのかもしれませんが、それによって気持ちが整理され、心の波立ちも収まってゆきます。帰り道には、なんと素直に物事を考えられるようになったことか。
静岡市井川の中野観音堂の仏像
ところで、「仏像めぐり」には何かのテーマを見つけて辿るのもいいですね。百名山踏破に似た楽しみがあると思います。
静岡県には徳川家康の念持仏(静岡市・宝台院)や、北条政子が造らせたと伝わる仏像(松崎町・吉田寺-下田市・上原美術館寄託-)、公家の中務卿(なかつかさきょう)なる人物が運んできたという仏像(静岡市・中野観音堂)などがあります。
また仏像にまつわる伝説や不思議な物語にも事欠きません(三島市・光安寺、湖西市・応賀寺など)。「歴史上の有名人と仏像」「仏像のふしぎな物語」などは良いテーマになりそうです。 及ばずながら私も、そんなみなさんの「仏像めぐり」のお手伝いができればと、思っています。
>>>静岡県で愉しむ仏像めぐりⅥ ~まだ見ぬ仏に会いに行く~①(3/2)(SBS学苑)【プロフィール】
大塚幹也(おおつか・みきや)
1960年生まれ。静岡県出身。静岡県教育委員会文化課(文化財管理担当)を経て静岡県内の市立・県立高校教諭。袋井市文化財保護審議会委員のほか、豊橋市の普門寺旧境内総合調査や森町の文化財調査に調査員として参加。静岡県内を中心に懸仏などの垂迹美術を調査・研究する。SBS学苑講師で、著書に静岡新聞社刊『静岡県で愉しむ仏像めぐり』など。