第17回 【私を映画に連れてって!】 松田優作唯一のドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』にプロデューサーとして関わることになった打ち明け話
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
縁がありそうで無かったのが松田優作さんだ。
優作さんと一緒に仕事をした森田芳光監督(「家族ゲーム」「それから」)や桃井かおりさん、原田芳雄さんら、彼の周りにいた多くの方々からは色んな話を聞かされていて、耳年増状態だった。
学生時代に見たドラマ「探偵物語」の痛快さは忘れがたい。殆ど、テレビを見た事が無い中で「傷だらけの天使」と「探偵物語」は強烈なインパクトがあった。
僕も、ずっと映画を製作していたので、撮影所でチラリとお見かけしたことはあったが、その程度で、遂に会話を交わすこともなかった。
不思議な縁で、一度も会ったことも無い、大スターのドキュメンタリー映画を創ることになった。タイトルは『SOUL RED松田優作』(2009/ 御法川修:監督)。
実はフジテレビで放送された連続ドラマ(と言っても全3話)「熱帯夜」(1983)のビデオ(DVD)化を、僕がやろうとしたことがキッカケだった。
本来は3話完結の連ドラでは無かったのだが、大トラブルが発生し、3話で終わってしまったらしい。中味は、ちょっとテレビ的なところから外れていて、むしろ映画のタッチ。主演は松田優作&桃井かおり。フジテレビでこの2人の共演は唯一で、魅力的で興味深かった。当時のプロデューサーやスタッフは、トラブルに関しては口を閉ざす人が殆どで、真相はイマイチわからなかった。ただ、口を揃えて「あれには触らない方がいい……」と。そう言われると好奇心が刺激されてしまう。当時、放送から25年以上が経ち、社内では忘れかけられていて、語るのもタブーの様だった。
▲松田優作のドキュメンタリー映画を製作するきっかけとなったテレビドラマ「熱帯夜」。1983年9月9日、16日、23日に3話連続でフジテレビ系列で放送された。サラ金強盗をし、現金を強奪した男女(松田優作と桃井かおり)。刑事に追われながらも、逃避行を続ける中、特ダネ写真をつかんだことがないフリーのカメラマンや、のぞき部屋の従業員らと奇妙な連携プレーが始まる。フリーのカメラマンに、せんだみつお、のぞき部屋の従業員にケーシー高峰、のぞき部屋の店員で、優作の妹役に義姉である熊谷真実、刑事に岸部一徳ら、個性豊かな顔ぶれとなった。脚本はテレビドラマ「夢千代日記」「花へんろ」「関ヶ原」などの早坂暁が手がけている。2009年にDVDがリリースされた。
社内での了解は取れそうも無く、脚本の早坂暁さんに会いに行った。テレビ界の大御所であり、吉永小百合主演の映画などの脚本も書かれていた。
誰に聞いても「早坂さんに会いに行くなら、渋谷の東武ホテルに電話して!」とのこと。その頃、ホテル住まいとのことで、東武ホテルの代表電話番号に電話したり、FAXを送ったりして、やっとお会いできることになった。もちろん、ホテル1Fのロビー喫茶だ。
苦い顔つきで「『熱帯夜』ねぇ、僕もホントのところはよくわからないけど、演出とキャスト間でいろいろ揉めたとか……」そして、ニコッとされて「でも、僕はビデオ化、反対しませんよ」
次に、個人的に知り合いでもある桃井かおりさんに電話してみた。その頃はロス在住だっただろうか。「まぁ、いろいろあったけど私は良いわよ!」「ただ、優作がね……。まぁ今は、いないし……美由紀ちゃんが良ければいいんじゃない……」と。
そして、初対面の松田美由紀さんに会いに行くことになった。
▲松田優作生誕60周年、没後20年を機に〝伝説の男・松田優作〟の最初で最後の公式ドキュメンタリー映画製作が始動した。映画は優作の生い立ちや、プライベートを掘り下げることなく、映像作品の中での〝俳優・松田優作〟の姿に焦点をしぼっている。数ある映像出演作品の中から、いずれの作品を映画の中で取り上げるか、大いに悩んだと筆者は述懐する。映画『SOUL RED 松田優作』製作発表、「SOUL RED Project」発表記者会見に、筆者は松田優作夫人の松田美由紀と共に臨んだ。
「あのう、優作さん主演ドラマの『熱帯夜』の件ですが、色々あったように伺っていますが……」と言ったところで
「待ってたのよ! 何故かこれまで、このドラマだけはビデオ出てなくて……出してよ、早く!」
あっけなく、ハードルだった関門は開かれた。此方の用件は済んだので帰ろうとした時……。
「優作が亡くなってもうすぐ20年になるんだけど、一回だけドキュメンタリー映画をやりたいのね」
「そうですか……良いですね。伝説の俳優ですから。楽しみにしています!」
「河井さん、プロデューサーやってくれない?」
予期せぬオファーに、大先輩で、敬愛する黒澤満さんの名前を出して「優作さんの映画の半分くらいは満さんがプロデューサーですし、マネージャー的な役割をやられていた……」
と言ったところで
「満さんは、やらない! と言ってるのね」と返され、モゴモゴしてしまった。
せっかく「熱帯夜」のビデオ化許諾をいただき、ホッとしていたのだが、「会ったことのない稀代の大スター俳優のドキュメンタリー映画を自分がプロデューサーをやるなんて……」と思いつつ、
「まずは黒澤満さんと会ってきます。やっぱり満さんがやるのが一番良いと思います」
黒澤プロデューサーは意外な見解を言われた。
「河井さんは優作に会ったことがないんでしょ。それは良い。僕がこの映画やるとなると、やっぱり自分が関わった映画中心になるでしょ。映像の権利使用も自分の映画の方が簡単だし。客観的な視点が必要。是非、よろしく頼むよ」と。
心の中で、「なるほど、そういう考えもあるか……」と一瞬、納得しかけたが、やはり、会ったことのない映画スターのドキュメンタリー映画を自分がプロデューサーをやるなんて……。しかも、松田美由紀さんとも一度会っただけ。松田優作フリークは僕の周りにもたくさんいるし……。
美由紀さんに報告に行くと「でしょ! 満さんがそう仰るんだし、河井さんがやるしかないでしょ!」と、何だか、励まされているような、崖っぷちに立たされているような……。
結局、監督候補も、たまたま知り合いだったこともあり、気が付くと、人生初のドキュメンタリー映画の製作に関わることになった。
▲ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』のインタビューには、アンディ・ガルシア、黒澤満プロデューサー、脚本家・丸山昇一、脚本家・筒井ともみ、映画監督・森田芳光ら、映画製作の現場を共にした映画人だけでなく、香川照之、浅野忠信、仲村トオル、宮藤官九郎ら、リスペクトを表明する若い俳優たちが出演している。吉永小百合も音声だけだが出演。息子で俳優の松田龍平、翔太が、父・優作の影響力について語っているのも興味深い。
普段、シナリオで予算のこととか、クォリティ、規模感を考える癖がついているので、脚本が無い、構成だけのドキュメンタリー映画は新鮮だったが、難しいことも多々あった。
先頃、「SHOGUN」でエミー賞を獲った真田広之さんなら、彼が日大芸術学部にいたころからの付き合いで、40年以上の交流がある。自分しか知らないエピソードもたくさんある。『病院へ行こう』でも『新宿鮫』でも……。
そんな時、黒澤満さんが言ってくれたことを思い起こすのだった。
大学生の頃からドラマ「探偵物語」、傑作映画『家族ゲーム』を観て、そして遺作『ブラックレイン』まで一方的に観続けてきた事実はある。
また、実際には、そんなに長く付き合わなくても、優作さんから刺激を受けた人はたくさんいるはずだ。これからその俳優たちが拘りを持って生きていく……。浅野忠信さんや香川照之さんなど若い人にもインタビューに参加してもらった。もちろん、関係の深い森田芳光監督や黒澤満プロデューサーにも。
『ブラックレイン』のオーディション時のVTRもあり、共演のアンディ・ガルシアさんにはロングインタビュ―が出来た。松田龍平、翔太さん兄弟にも出演してもらった。
多くの過去の出演映画、ドラマの映像を使用したが、許諾関係は思ったより大変で、費用もかかった。それでも一度きりのドキュメンタリー映画になるなら出来るだけ、多くの作品を見せたかった。「映画俳優」であるが、テレビも「太陽にほえろ!」など印象的な作品が多数ある。
元々、大きな全国展開を予定していなかったが、配給スタッフのパッションが加わり、丸の内ピカデリーや梅田ピカデリーなど大きな劇場でも上映してもらった。
1989年11月6日没。まだ39歳だった。映画は2009年11月6日公開。没後、20年の日である。
ドキュメンタリー映画としての客観的な評価は、よくわからない。ただ、今は亡き、森田芳光監督や黒澤満さんに映画の中で語ってもらえたことは貴重だった。
出来るだけ、映画人、映画好きに知ってもらいたい願いも込めて、秋の東京国際映画祭にも参加し、上映した。優作さんのいないレッド(グリーン)カーペットも歩いた。
ドキュメンタリー映画の可能性も感じることが出来た。あれから、ますますドキュメンタリー映画のレベルもあがり、映画館で上映されることも多くなってきたことは嬉しい事である。
優作さんが亡くなって、今年の11月6日で35年。生きていた時間と、亡くなってからの時間が近くなってきた。
今でも松田優作はスターだ。過去の映画は上映され、CMにも登場したりする。
昨今、映画俳優としての大スターが少な過ぎる。これは映画界全体の問題である。松田優作ほどの個性的なスーパースターはなかなか出てこないだろう。生きていたら、きっと〝世界の優作〟になっていたに違いない。
エミー賞に輝いた真田広之さんが「この日本映画に出演したい!」と思わせる企画、シナリオを、まずは日本発でせっせと生んで行くしかないだろう。
▲ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』は、2009年の第22回東京国際映画祭にて特別招待作品として披露された後、命日である11月6日に全国公開された。映画祭のレッド(グリーン)カーペットには、映画には出演していない桃井かおりも突如参加した。映画公開に連動して、東京・名古屋・横浜・大阪の4都市で、石橋凌、ジョー山中、谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ)、中村達也などにより、トリビュートライブも開催された。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。