第16回【私を映画に連れてって!】 十代の宮﨑あおいが三億円強奪事件実行犯を演じた『初恋』と、山田孝之主演で東野圭吾原作小説を映画化した『手紙』
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
フジテレビ→ポニーキャニオン→アミューズと渡り歩いて、映画会社で映画製作をやりたい気持ちが強くなっていた。当時、上場会社でもあるGAGA(ギャガ・コミュニケーションズ)が新経営陣になることで、依田巽会長と宇野康秀社長から声をかけていただいた。依田会長の前職はエイベックス会長。その後、僕がGAGAを離れる頃は東京国際映画祭(TIFF)のチェアマンで、僕は、暫くTIFFのアドバイザーを仰せつかった。現在のGAGAは依田さんが率いてきた。
宇野社長は、USEN代表(現取締役会長)であり、現在もU―NEXTの代表(創立者)として精力的に活躍している。『スワロウテイル』(1996)が大好きで、当時、新木場の日本最大規模と言えるスタジオコーストのクラブ<ageHa(アゲハ)>を作る時に、『スワロウテイル』のヒロイン「アゲハ」(伊藤歩)から名前を決めたことを本人から教えてもらった。
フジテレビを辞めて転籍も考えていたが籍をおかしてもらい、GAGAの「執行役員映画製作部長」の肩書でスタートすることになった。
気持ちは、はやっていたが〝組織内個人プレー〟はあまり許されず、仮にも執行役員なので、人事的な役割(権限)もあり、組織全体をまとめながらの仕事になった。宇野社長からは「これからはネットの時代!」とのことで、Gyaoの立ち上がりにも参加した。地上波にとって「ネットメディア」は既得権益を侵す敵? で、ドラマなど一切Gyaoには提供してもらえなかった。音事協グループ(芸能事務所系)やジャニーズ事務所(当時)も同様でタレントを出してくれず、グループ外のオスカープロモーション等、一部が協力してくれ、オリジナルドラマなど作った。ミッドタウン内にあるGAGAのスタジオからは「森田一義アワー 笑っていいとも!」のように独自で生配信も行い、自分も出演したりした。20年前は、まだネットフリックス等もなく、〝ドラマは地上波で〟の独占状態だった。地上波は免許事業でもあるが、当時のネットや配信は〝無法地帯〟的な捉えられ方をされ、動画はおろか、ジャニーズのタレントの写真でさえ長い間、掲載すら許されなかった。
今思うと、Gyaoは画期的だったのだが、スタート時期が早すぎたのか。僕がGAGAを去って(宇野社長もその後退任された)GyaoをYahooに売却したことを知った。それから、再びU―NEXTを立ち上げ、今日に導くパワーには敬服するほかない。U=宇野(UNO)の意であり、宇野の次(NEXT)の一手がU―NEXTなのである。
この件の延長線上に、その後のフジテレビやTBSの株買収問題が起こることになる。ある意味で地上波の現在の芳しくない状態は、この時に予見されていたのだろう。今は「TVer」はじめ、地上波も配信に力を入れているが、アメリカや韓国と比べてもイノベーションとしては手遅れになった感は否めない。
GAGAに行って、数か月後に10本前後の製作映画を数百人の関係者、記者を集めて発表した。残念ながらその中からは半分くらいの映画しか創れなかったが。
GAGAは元々、「洋画配給会社」で邦画に関しては主に「Vシネマ」的な小さいサイズでビデオリリースものがメインだった。そこに、いきなり1年で10本の新作映画をメジャー展開するというのは、今考えると無謀だった気がする。確かに企画はたくさんあったが、GAGA内にはメジャー邦画の経験者はほぼいなかった。結局、洋画の宣伝プロデューサーを中心に映画製作チームを作り、外部の製作会社・プロデューサーとの共同作業になった。
3年程度しかGAGAにはいなかったのだが、僕の戦略不足は否めなかった。海外との合作等、チャンスは幾つかあったが、モノに出来なかった。僕がGAGAを出てから、GAGA&アミューズ&フジテレビで『そして父になる』(2013/是枝裕和監督/福山雅治主演)が製作され、カンヌ映画祭で審査員賞をもらえたことは嬉しかった。
GAGAは今でも好きな会社だが、当時、10本程度の映画に関わったものの大ヒット作は残念ながら作れなかった。
ただ『初恋』(2006/塙幸成監督/宮﨑あおい主演)は思い出深い。
▲1968年に発生した三億円強奪事件の実行犯である白バイ男は、女子高生だったという設定の小説を宮﨑あおい主演で映画化した『初恋』。60年代の若者たちの青春映画でもあり、孤独な女子高生のせつない初恋を描いた恋愛映画としても、胸がしめつけられるような印象を抱いた記憶が今も蘇る。小出恵介、柄本佑、青木崇高らが共演者に名を連ねている。宮﨑あおいの実兄・宮﨑将も兄役で出演していた。監督は、その後三浦友和、石田ゆり子共演の映画『死にゆく妻との旅路』で、新藤兼人賞2011金賞を受賞した塙幸成。2006年6月10日公開。
そもそもは大沢たかおさんからの一本の電話だった。本屋からだったと思うが、背表紙が『初恋』(リトル・モア刊)なのに中身が3億円事件(1968年12月10日に起こった未解決事件)の話で、実行犯が女子高校生だという。まず惹かれたのは、僕の10歳の誕生日の朝に起こった事件で、学校でも、近所でもその日はその話題で日本中が騒然となり、僕の誕生日どころではなくなった記憶だ。
早速読んでみた。「大沢たかお」が出演できそうな役はなかったが、彼とは色んな企画の話をしていた時期なので、ネタの一つとして教えてくれたのだろう。著者は「中原みすず」となっていたが、もちろんペンネームだ。冒頭で自身が実行犯であることを告白している。事件からもうすぐ半世紀。とっくに時効(1975年12月10日)は過ぎているが、ヘルメット姿の男のモンタージュ写真の印象が残っているだけだ。10万人以上の重要参考人リストはあるが。
映画の企画として秀逸だと感じたのは、実行犯のモンタージュ写真に引きずられ、「男性」限定の捜査であったことの盲点だ。しかも女子高生。『セーラー服と機関銃』ではないが、ヒロインとのギャップ感が良い。初見ではフィクションの要素がやや大きいと思っていた。ところが事件自体はノンフィクションであり、当然、当時の関係者で生存している人も多い。そして事実であるとすれば、半世紀近くも会えなくなってしまっている著者の恋人に向けての悲痛な手紙のような気持ちがした。彼に、この気持ち(今も待ち続けている)が、どんな形であれ届きますように、という願いから本を書いたのではないかと。
映画化しようと決めた時、まだアミューズにいて、映画撮影をやっている現場に宮﨑あおいさんの事務所から連絡があり、羽田近くのビル上の現場にマネージャーがやってきた。
「宮﨑あおいが是非、女子高生の役をやりたいんです!」と。
僕が原作に出会う前に、16歳の彼女は本を買い込み、いろんな人に働きかけていたと言う。しかも、大型バイクに乗るシーンがあるため、免許も取得したと。初めて会った時は19歳で「何年か後ではなく、10代の気持ち、去年まで高校生だった自分でやってみたい」と。「誕生日は?」「11月30日で二十歳です」「じゃあ、10月にクランクインしよう」……この辺の記憶はあいまいだが、10月に撮影を開始した。彼女の10代ラストの映画になった。
彼女の映画にかける気持ちには頭が下がったが、その後、著者に会った時に彼女は確信したのかもしれない。著者の10代の「青春」に自分を照らし合わせるように。
著者が本当の実行犯かどうかの詮索はしなかった。ただ、当時の「彼」(著者の恋人で大学生で主犯)の仲間たち、知人らには取材は行った。知らない事実が続々と登場した。彼は当時、東大の学生で、この事件の1か月後(1969年1月18日)、東大安田講堂占拠事件が起きる。そんな時代だった。
映画が完成し、原作者(当時55歳前後か)に密かに観てもらった。鑑賞後、宮﨑あおいさんは(僕もだが)、涙を流す彼女と映画の話をしながら、ある確信に至ったかもしれない。
僕には、あまりに悲しくて、やるせない恋愛物語の映画化になった。
『力道山』(2004)を創ったときにも感じたが、情報は、真実は、どこかで封印されたままのことがあるものだと……。
▲映画『初恋』は、2005年11月5日にクランクアップした。主演の宮﨑あおいは、1985年11月30日生まれだから、10代最後の作品となった。『初恋』が公開された2006年は、宮﨑あおいはNHK連続テレビ小説「純情きらり」のヒロインを演じている。それまでオーディションでヒロインは選ばれていたが、宮﨑はオーディションではなく、NHKからの直々のオファーによりヒロイン役に決まった。2008年には放送開始時の年齢が歴代最年少での主役となった大河ドラマ『篤姫』で、堂々たるヒロインを演じ切った。
もう一つは『手紙』(2006/生野慈朗監督/山田孝之・玉山鉄二・沢尻エリカ)だ。この映画はGAGAの製作・配給で300スクリーン近くで上映され12億円強のヒットになった。
この企画もアミューズ時代に出会ったもので、なかなかメジャーで公開できる糸口が見いだせなかった。今でこそ、ベストセラー作家の東野圭吾さんの原作だが、当時は毎日新聞社刊の単行本で、書籍担当の方にお会いした時は6万部程度の発行部数だった。GAGAに来て、とにかくメジャーでヒットさせることが重要な役目だった。
監督起用も、当初の評価の高い映画監督から、エンタテインメント性を高めてもらえそうな人を考えることになった。ドラマ「3年B組金八先生」(1979/TBS)から「愛してくれると言ってくれ」(1995/TBS)など、幅広い演出で定評のあったTBSの生野慈朗さんにアプローチしてみることになった。幸い、TBSには知り合いのプロデューサーもいて、最終的には人事部とも相談して、監督料をTBSに支払って〝お借り〟する形とした。出資の話も出たが、僕がフジテレビの身分もあり、監督レンタルだけにした。
映画『リング』(1998)の時、原作では「男主人公」の話を、シナリオで「女主人公」に大胆に変更した。『手紙』では、主人公(山田孝之)が、原作では「バンド」を結成する設定だったのを、脚本では「漫才コンビ」に変更させてもらった。メジャー展開出来る映画を意識し、「売れないバンドマン」より「漫才」シーンは笑いも取れ、「感動シーン」とのギャップも大きいからである。東野圭吾さんは、たまたま僕と同年、互いに大阪生まれ。一度しかお会いすることはなかったが、直木賞作家にもなる前で、映画化には快く、応じていただけた。
制作中に、今も忘れがたい出来事があった。
▲生野慈朗監督作品『手紙』は、犯罪加害者の親族の視点に立って、その心情の動向を追った東野圭吾の小説の映画化で、2006年11月3日に公開された。山田孝之、玉山鉄二、沢尻エリカ、吹石一恵、杉浦直樹らが出演。2008年には舞台化もされ、16年、17年、22年には藤田俊太郎演出によりミュージカルとしても上演されている。18年には亀梨和也主演でテレビドラマ化もされた。左から筆者、生野監督。
僕はテレビ局出身と言えども、当時は映画会社GAGAの一員であり、映画専門でもある。テレビドラマのノウハウはよくわからないが、映画に関してはカンヌ国際映画祭等で賞をもらったりなどの経験をしている。〝映画の常識・イロハ〟とでも言おうか。
たとえば、連続ドラマのように、主人公がセリフで展開を過多に説明したり、心情吐露したりすることは、映画は出来るだけ少ないほうが良い、とか。感動シーンも大げさに音楽で煽ったりしないとか……。
撮影が終わり、編集作業も進み、日活撮影所のオールラッシュ(映像の長さが決まる/本来は音楽無し)の日。スタッフや、宇野社長も参加して、これでOKジャッジを出す時である。僕らプロデューサー陣は、何度もラッシュを見ているので、もうだいたいわかっている。ただ、出資者などの了解をもらう場でもある。クライマックスとも言えるシーンでまさかの「歌」が流れる。小田和正さんの「言葉にできない」が玉山鉄二さんの感動シーンに……。なぜ、唖然としたかと言えば、エンディングに主題歌は決まっており、挿入歌の話は聞いていなかった。小田さんの事務所の了解も当然もらっていない。監督に「してやられた」と感じつつ、まあ出資者を盛り上げるためにたまたま合わせたのだろう……などと思いめぐらしていると、暗い試写室内には泣き声が……最後には号泣する人も。上映後、目頭真っ赤の宇野社長が、当然のように「言葉にできない♪最高だね」となり、GAGAのプロデューサーは小田さんの事務所に走るのである。
スタッフの一部は当然知っているはずだが、僕は知らなかった。公開後、「言葉にできない♪」のシーンでは号泣者が続発した。テレビで「今、泣ける映画特集」として取り上げられ、僕もインタビューを受けた(皮肉にも? フジテレビの報道番組で)。「生野監督の独断で……」とは言えず、「愛してくれと言ってくれ」で感動させてくれ、やはり、あの時もドリカムの「LOVE LOVE LOVE」で泣きましたね……。
▲「中国における日本映画祭」の開催にあたり、北京に招待された。『手紙』はオープニング作品になり、レッドカーペットも歩いた。宮本中国大使(当時、写真左)は、公邸にも招待してくださり、中国側からはチェン・カイコー監督や、女優のヴィッキー・チャオらも来てくれ、食卓を囲みながらの交流もあった。当時は日中関係も良好だったことがうかがえる。
GAGAにとってもメジャー展開の製作映画で初のヒット。11月3日の公開の前、10月10日に文春文庫(毎日新聞社は文庫が無い為)から発売されると公開時には100万部を突破。文春では同社の最速でのミリオンセラーにもなった。その秋の直木賞では『容疑者Xの献身』で東野圭吾さんが受賞した。
生野慈朗監督とは、その後、数本の企画を検討し、シナリオ作成など行ったが、映画は実現できなかった。昨年4月6日73歳で永眠された。プロテスタント教会での前夜式(お通夜)に参列したが、牧師の生野さんに纏わる感話とともに、賛美歌を斉唱しながら、涙がこぼれた。「言葉にできない♪」が思わず過った。
▲中国でも日本映画が上映されるようになり、生野慈朗監督や、篠田正浩監督はじめ、多くの日本の映画人が出席した。写真右から筆者、生野監督、篠田監督。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。