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災害ボランティアが見つめた30年「テレビ・新聞は何も伝えておらず、情報をつかめていない状態・・・」

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那覇市から、かつての被災地に向かって手を合わせたのは、阪神・淡路大震災を経験し、ボランティアとして神戸で活動した有村博勝さんである。 能登半島地震や東日本大震災の被災地でもボランティアとして奔走してきた有村さんは、震災からの30年をどう見つめたのだろうか。

那覇市立城南小学校で講演したのは、DMPO・災害プラットフォームおきなわの有村博勝さん(68歳)である。 

有村博勝さん 「地震で揺さぶられるだけで屋根ががさったと落ちて、柱が折れたのです。倒壊、押しつぶされた家が多かった。能登半島は」 有村さんは2024年1月に起きた能登半島地震で発災直後から現地に入り、ふろの設置や炊き出しなど被災者を支えるボランティア活動を8カ月にわたり行ってきた。

道路や水道にも壊滅的な被害が出た能登半島での活動に欠かせなかったのは、自作のキャンピングカー「マイマイ号」だった。

この「マイマイ号」は3代目。 地震と津波で広い範囲に甚大な被害が出た2011年の東日本大震災のときに必要性を感じ、2016年の熊本地震から初代「マイマイ号」で被災地を回った。

災害ボランティアのエキスパートである有村さんが震災と向き合うきっかけとなったのは、30年前の1995年、当時大阪に住んでいたときに起きた阪神・淡路大震災である。 有村博勝さん 「1月17日の朝、家で寝ていた時に地震があって、たんすが倒れてきました。子どもたちと私は一緒に川の字に寝ていたので、足でおさえて、たんすが倒れるのを防ぎました。家の中はぐちゃぐちゃでしたよね」

この日、どうしても那覇に戻らなければならず、伊丹空港に急いだ。普段と変わらず離陸した飛行機の窓から、忘れることのできないあの光景が目に飛びこんできた。 有村博勝さん 「南向きに離陸して、まだ高度が上がらないところで神戸の街から煙が上がっているのが見えたんです」

有村博勝さん 「テレビ・新聞は何も伝えておらず、情報をつかめていない状態でした。その状態で飛行機に乗っていたので、神戸があちこちで燃えているのを見て、『これはかなりやばいな』と思いました。那覇空港に着くと、もう大騒ぎでした。テレビでは、高速道路が倒れている様子が映っていたり、バスが落ちそうになっている映像が流れていました。私はそのとき、背中がぞくぞくして、『自分になにができるか』を考えました 発生から3日後、すさまじい被害が出ている神戸中を回り、まずは被災者がいま必要としているものを確かめた有村さん。 およそ80人の「レキオス行動隊」を結成し、沖縄県民から募った救援物資をたずさえ、メンバーを交代しながら2カ月近くボランティア活動を続けた。 

有村博勝さん 「やり始めたときは電気は来ていたんだけど、水はもちろん無く、ガスも無く。そこで、沖縄からプロパンガスを持って行き、水は沖縄の屋根に設置されているタンクを持って行きました。それを一番高いところに設置し、水道を通しました。朝と夜、チャンプルー(炒め料理)をたくさん作りましたよ。沖縄そばもいっぱい作りました」

有村博勝さん 「印象深かったのは、お父さんとお母さんを目の前で亡くした子どもたちです。声が出なくなり、ずっとふさぎこんでいた子たちが、私たち沖縄から来た『レキオス行動隊』のメンバーが、『あなたのお母さんのふるさとの沖縄から来ましたよ』と話したときに、もう泣きくずれてしまいました。そのことが強く印象に残っています」

ピーク時には、31万人が避難所生活を強いられた阪神・淡路大震災。全国から駆けつけたボランティアは、震災後1カ月間で1日平均2万人、震災後1年間では137万7000人が活動した。 大勢のボランティアを受け入れ、必要とする場所にどう効果的に結びつけるのか。多くの課題が浮き彫りになった震災の経験は、その後の災害ボランティアのあり方を考える礎となっている。 有村博勝さん 「阪神・淡路大震災が『ボランティア元年』と言われているのは、見よう見まねでみんなが始めたボランティアが形になって、チームになってあっちこっち被災地に行くようになった。そこで学んだ人たちが東日本で役に立ったんです。教訓の一番大きなところはね、人は弱い。だけど人は強い。どんなにぺちゃんこになっても復活する力を持っているんですよ、人って。そのためには、ちょっとだけ手助けが必要だと思っています」

死者6434人、およそ25万棟の家屋が全半壊した阪神・淡路大震災から、2025年1月17日で30年。

有村博勝さん 「そのとき、亡くなった方々のことを思いながら手を合わせていたら、昔に戻されたような感じがしました。その人たちのことを思うと、私は偉そうに自分が被災者とかいえませんし、『人のためになる』と思ってボランティアしているなんてことは言えません」

30年間にわたり東日本大震災や熊本地震、能登半島地震の被災地を訪れた有村さん。 どれだけ被災地のためになれたのかと、手を合わせながら考えたそうだ。 有村博勝さん 「本当はたいしたことやれていないな。しかし、これからも寄り添ってはいきたいなと思っています」

いまや、数々の災害で被災者の生きる力と希望を支える大切な役割も担っている災害ボランティア。 30年前、被災地の惨状を前に「力になりたい」と一歩を踏み出した人々のは確かな道となっている。

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