ビートルズと原田真二とTFCと。【ビートルズのことを考えない日は一日もなかった特別対談 VOL.12 渡邊文武】
音楽ディレクターとして多くのアーティストを手掛けてきた渡邊文武さん。出会いは古く、2000年前後、渡邊さんがミディでサニーデイ・サービスやゆらゆら帝国のディレクターを務めていたころまでさかのぼります。この頃発売されたある雑誌に渡邊さんのロングインタビューが掲載されていて、そこで原田真二について熱く語られ、しかもビートルズも出てきて、これは会わねばと思い、連絡を取ったのが最初でした。以来会えば、原田真二話をしてきたわけですが、渡邊さんに言わせれば「何度も同じ話を繰り返すのが大切」とのことで、今回もそういう話に脱線しつつも、最終的にはビートルズに着地、というところにビートルズの懐の深さ、寛大さに気づかされる対談となりました。
原田真二とビートルズを比較して聴いていた
竹部:わたしと渡邊文武さんは原田真二のベストアルバム『GOLDEN☆BEST OUR SONG~彼の歌は君の歌~』『GOLDEN☆BEST 原田真二&クライシス LIFE~ポリドール・イヤーズ 1980-1981』の監修をした仲ということで、知り合ったきっかけも原田真二なんですが、最初に渡邊さんに会ったのは『happy voice』という雑誌に載っていたロングインタビューを読んだからなんですよ。そのなかで渡邊さんが原田真二について熱く語っている箇所があって、それでこの人と話がしたいと思ったんですよね。たしか、表紙がクラムボンの原田郁子さんだった。
渡邊:そうそう。あのインタビューは前・後編で掲載されたんだよね。
竹部:そのなかで興味深かったのは、中学の頃、原田真二をビートルズと比較して、研究して聴いていたっていうくだりがあったんですよ。
渡邊:そうそう。その前にぼくがなぜビートルズを聴くようになったのか、というと、母に「そんなに原田真二が好きならビートルズも絶対に好きになると思うよ」って言われたからなんだよ。中2のとき。1979年だね。
竹部:ビートルズより原田真二が先なんですね。
渡邊:真二のデビューは77年でしょ。ぼくは小学校6年のときだから。真二は初めて意識的に好きになったアーティストで、ぼくはこの人の楽曲と歌が好きだってはっきり思ったの。自分で曲を書く人なんだっていうことも知って、ますます好きになった。
竹部:それまでは歌謡曲とか聴いていなかったんですか。
渡邊:わりといいなと思っていたのはキャンディーズ。曲がかっこよかったよね。考えたら、キャンディーズのマネージャーって初期の真二を手掛けた大里さんなんだよね。つながってるんだよね。
竹部:当時はそんなこと知る由もないわけですよね。
渡邊:知らないよね。ぼくは72年から75年まで、親の仕事の都合でハワイのホノルルに住んでいたの。ハワイには日系人のための放送局があって、そこで日本の歌番組も放送されていて、『紅白歌のベストテン』『夜のヒットスタジオ』なんかをよく見てたの。そこでキャンディーズを知ったんだ。もちろん山口百恵やアグネス・チャンなんかもね。
竹部:そうでしたね。渡邊さんはハワイ育ちなんですよね。ということは、同時に洋楽も聴いていたわけですよね。
渡邊:その頃はカーペンターズですよ。子どもの耳にも届いて、この人誰だろうって思ったのを覚えてる。同時に流れていたのが、キャロル・キング、エルトン・ジョン、ウイングスなど。それって全部ピアノが主体か、ピアノが大きな役割を担ってたアーティストなんだよね。ピアノサウンドで、美麗なメロディを歌うポップス。それが自分にフィットしたの。
竹部:なるほど。
渡邊:デビュー当時、真二は雑誌のインタビューで、エルトン・ジョンとかウイングスとかビートルズの名前を挙げてたよね。確か、学生時代に組んでいたバンド名がビールスだもんね。
竹部:その通りです。
渡邊:真二って58年生まれでしょ。
竹部:はい。58年12月5日生まれ。プリンス、マドンナ、マイケルと同じ年。
渡邊:でも昔の『明星』とかには59年1月2日生まれって書いてあったよね。なんでだろう。58年ということは小西康陽さんとかカーネーションの直枝政広さんの一つ下。
竹部:小西さんとは学年は同じです。桑田さんや佐野さんよりも若い。
渡邊:10代での早いデビューだったからね。しかもすぐに人気者になったし。それにしても、真二は評価が低いよね。一般的にも、評論家やアーティストの間でも。あれってなんだろう。おかしくない? 明らかにデビューの頃の作品ってめちゃくちゃいいよね。
竹部:その話、『ゴールデン☆ベスト』の中でもしていますよね(笑)。
渡邊:繰り返し同じ話をすることは大事なんだよ(笑)。考えが変わっていないと言うことだから。
竹部:原田真二は曲もいいし、歌もいいし、アレンジもいいし、演奏もいいし、音もいいし、ルックスもいいし。
渡邊:それはやっかみなのかな。認めたくない何かがあるのかな。すそ野が広がったのは芸能的なプロモーション展開があったからだとは思うけど、やっぱり本人の魅力だよね。それがなければあんなには売れないよね。
竹部:原田真二は天才ですから。
渡邊:そう。だから今思っても、原田真二は1977年の時点で明らかに突然変異だったんだよね。それまでそういう洗練された都会的なポップスのマーケットがあまりなくて、近い存在だと、同じく十代でデビューして一般的に知られていたのは荒井(松任谷)由実さんくらいかも。なのに、あんなに売れて。1978年には日本人で初の武道館ワンマンコンサートを開催してソールドアウトして。その年の大晦日には大ヒット曲「タイムトラベル」で紅白歌合戦にも出場しましたよね。圧倒的なポップアイコンだった。都会的と言えば、ユーミンは東京の郊外の出身だけど、真二は広島だよね。
竹部:はい。広島出身で、当時18、19歳。すごいのは当時の原田真二は捨て曲が1曲もないじゃないですか。シングルB面もアルバム曲も全部いい。奇跡的ですよね。
渡邊:圧倒的だった。
竹部:最初に渡邊さんが原田真二の存在を知ったのは「てぃーんずぶるーす」ですか。
渡邊:いや、ちょっと遅れたな。『ザ・ベストテン』って78年の1月に始まったでしょ。その『ザ・ベストテン』で観たのが最初。
竹部:原田真二は『ザ・ベストテン』の第二回目に「キャンディ」で初登場してます。
渡邊:多分それだ。78年1月だから小6。その放送を毎週、テレビ一体型ラジカセで録音してたの。
竹部:そんな高価なものを持っていたんですか。
渡邊:最初はレコードを買わずに、それでエアチェックした音源を聞いてたんだよ。それで、偶然なんだけど、ぼくの叔母の友達がフォーライフのプロモーターだったの。で、ぼくが原田真二の大ファンだっていうことを知ってたから、その叔母がサンプル盤をもってきてくれたんだよね。それに今度は中1のときに同じクラスで友達になった男の子の親戚が当時の真二の事務所に勤めてたの。
竹部:なんですか、それ。
渡邊:りぼんかな。それでもうひとつあって。中2のときに学校に来た教育実習の先生が青学で真二の友達だったんだよ。英語の先生だったんだけど、華やかな感じの女の人だったな。
竹部:なんですか。その偶然は。
渡邊:その先生に自分が原田真二の大ファンだってことを言ったら、「放課後に私の控え室に来て」って言われて……。そこに行ったら、真二とのツーショット写真を見せてくれたんだよ。
竹部:その先生の名前は覚えてないんですか?
渡邊:忘れちゃった。
竹部:これだけいろいろ覚えてるのに……。
渡邊:中学になって急にぼくの周りに真二に関係のある人が3人も現れたんだよ。その頃、叔母に頼んでサインをもらってきてもらったんだ。大好きなセカンドアルバム『ナチュラル・ハイ』に。
竹部:サンプルをもらっていたのは、そのあたりのレコードということ?「サゥザンド・ナイツ」「アワ・ソング」「スウィート・ベイビー」とか?
渡邊:そうだね。『ナチュラル・ハイ』以降の「ア・デイ」「マーチ」とか、ポリドール期の「ストロベリー・ナイト」以降は自分で買ってたよ。
E・ジョンやC・キング、ウイングスの流れで原田真二
竹部:あらためて聞きたいんですが、原田真二はそれまでの音楽と何が違ったのですか。
渡邊:違ったというか、逆に言えば、ぼくが子供の頃にハワイで聴いてたエルトン・ジョンやキャロル・キング、ウイングスの流れで原田真二のファンになったってことだろうな。
竹部:そうか。そこからつながってるんだ。子どもの頃好きだった洋楽を日本語で歌ってるみたいな感覚で、違和感なく聴いていたと。
渡邊:めちゃめちゃいいなと思った。あとはピアノの弾き語りっていうのがよかったんだろうね。真二の次にサザンが好きになって。78年~79年にかけては真二とサザンだったよね。
竹部:サザンは、近くの大学の学園祭に出るっていうんで、行ってみたらチケット完売で入れなくて外で音漏れを聴いてたんですよね。前に『昭和40年男』で原稿を書いてもらいました。
渡邊:そうそう。武蔵野女子大学(※現・武蔵野大学)。うちから自転車で多分20分ぐらいのところにあるから行ってみたんだけど、「チケットは完売です」って言われて、仕方ないから体育館の外で聴いてた。録音もしちゃった。まだデビュー直後で、ファーストアルバムの曲ぐらいしかないから、12曲くらいだったかな。いまでも覚えてるよ。
竹部:原田真二とサザンが同じ事務所だっていうのは知っていた? でもその頃の真二はもうアミューズじゃなかったかな。
渡邊:知らなかった。でもアミューズの存在は知っていた。ライブに行くと、アミューズって書いてあるチラシをもらってたしね。当時の立体的なロゴが入ったやつね。
竹部:原田真二のライブを観たのはいつですか。
渡邊:79年6月、中2のときに川崎のホールで。
竹部:武道館に行ったという話は聞いていましたが、その前に川崎で見てるんですか。
渡邊:さっき話したツテでチケットを取ってもらったの。そのあと、西武球場でも真二を観てるよ。複数のアーティストが出るフェスがあって。RCサクセション、チューリップ、松山千春さんとか。それで千春さんのステージに岡林信康さんが出てきたり。当時大スターだった彼が、ステージの脇にしゃがみこんで岡林さんの歌う姿をじーっと見ているシーンがあったな。
竹部:79年の松山千春って人気全盛期じゃないですか。「季節の中」が大ヒットしたあとで『起承転結』の前ですよね。
渡邊:そこに真二が出てきたんだよね。そのあとに年末に武道館を見て、その次の年、80年の夏に野音でSHINJI&CRISIS(※当時の原田真二バンド)も観てるよ。
竹部:うらやましい。
渡邊:あのときのクライシスって、豊田さんっていうバイオリン奏者がいてね。スペースサーカスにいた人。ドラムはシータカさんで、ベースは関さん。ギターの人もいたよね。
竹部:北島健二。
渡邊:80年ってことはサード・アルバム『ヒューマン・クライシス』のライブを見てるってことだよね。
竹部:そうですね。その次が『エントランス』。なんか原田真二話になってしまっていますけど……。
渡邊:思い出したけど、81年の青学女子短大の学祭も観てるな。そのとき「WRONG WAY」を初めてやったんだよね。
竹部:そうなんですか!「雨のハイウェイ」のB面。名曲!
渡邊:その「雨のハイウェイ」が入った『セイブ・アワ・ソウル』が出たときはシドニーに住んでた。再び親の仕事の都合でね。83年でしょ。父が日本に出張に行ったときに買ってきてもらったと思う。「雨のハイウェイ」はキャッチーな曲だし、悪くはないなと思ったけど、やっぱり自分は『エントランス』までの感じが好きだったな。
竹部:初期クライシス時代は濃密ですからね。
渡邊:あの頃のクライシスは音楽的にはちょっとプログレ感があるんだよね。原田真二さんってプログレも好きなんだっけ?
竹部:好きだったみたいですよ。ぼくのやっている「原田真二マニアック」ってイベントでその辺もいろいろ話を聞いたんですが、UKってバンドとか、その辺を目指していたらしいです。古田さんはトッド・ラングレンのユートピアが好きだったとか。少人数で、完璧な演奏をやるっていうのを目指していたみたいです。
渡邊:なるほどね。ポップ寄りなプログレって感じかな。
竹部:でも、時代的にはテクノでありニューウェイブでありというなかで、日本にそういう方向性のバンドはなかったので、受け入れられなかった。でも、そこが原田真二の心意気といいますか。頑固なところなんですよね。
渡邊:うん、でもそういうところに真二の良さがあったよ。
徹夜で並んで入手したウイングス日本公演のチケット
竹部:このまま原田真二の話になるのもなんなので、無理やりビートルズに話を戻しますけど、その頃、原田真二とビートルズを聴いて研究をしていたっていうのは、どういうことなんですか。
渡邊:中学生だし、研究ってほどのもんじゃないけど(笑)。真二をさんざん聴いたあとにビートルズ体験をするんだけど、なんか雰囲気が似てるなって思ったの。感覚的なものなんだけど、そこから具体的に名前を挙げるようになったのかな。この曲とこの曲が近いとか。たとえば「LIFE」って「レディ・マドンナ」的だなって思ったり。
竹部:なるほど。そこは気が付かなかった。ビートルズだけですか? ウイングスとの共通点とかは?
渡邊:その頃はまだウイングスを真剣には聞いてなかった。基本、ビートルズだけ。時間を巻き戻すけど、母親からビートルズを勧められたあと、ビートルズのフィルムコンサートに行ったんだよ。同級生の女の子にビートルズファンがいて、その子がビートルズ・シネクラブに入ってたの。その子に誘われて。
竹部:当時のファンによくある流れです。
渡邊:79年の夏、場所は日仏会館。そこで『ハード・デイズ・ナイト』とか、複数の映画を観たなかで『ウイングス・オーバー・ザ・ワールド』がすごく印象に残って。その頃はまだウイングスはポールがビートルズ解散後に作ったバンドくらいの知識しかないわけだけど、『ウイングス・オーバー・アメリカ』がすごくよくて、やたら感動したな。そこで演奏されてる「リヴ・アンド・レット・ダイ」は、73年にホノルルで観た映画、『007死ぬのは奴らだ』で聴いてたことを思い出したんだよ。
竹部:いろいろつなげてきますね。
渡邊:親に連れられてワイキキの映画館で観たんだよね。そのときはポール・マッカートニーっていう名前も知らないんだけど、映画館のスピーカーで聴いた「死ぬのは奴らだ」はめちゃくちゃ印象に残ったな、映画そのものより。で、それが『ウイングス・オーバー・ザ・ワールド』で流れたときに「あ!これだ!」って思ったな。
竹部;出会いがいちいちユニークですね。
渡邊:その日以降、フィルムコンサートに誘ってくれた女の子からレコードを借りるようになって、色々聴き始めるんだよ。気づくとぼくの周りに、ビートルズが好きな同級生が何人かいた。そのなかの男子の友達から借りて、最初に聴いたアルバムが『ホワイト・アルバム』。そのあと、女の子から『サージェント』と『アビーロード』。初心者で最初に集中的に聞いたのが後期の3枚だったから、どうしても後期がフィットしちゃう。そこで、真二とつながることもあって。
竹部:たとえば?
渡邊:『ナチュラル・ハイ』に入っている「RAINBOW COLOR」の歌詞にタントラって出てくるでしょ。これ聴いてジョージだって思ったしね。あと、「MUSIC BOX」もビートルズ的、もっと言うとポール的。真二のすごいところって、インスパイアされたと思われる曲よりも良かったりするところ。
竹部:その通り! 話を聞いていると、渡邊さんの音楽人生の中で、いかに79年が重要かってことがわかりますね。73もですが。
渡邊:そうだね。79年はビートルズ、真二とサザン。あとはポップ寄りのニューウェイブかな。シングル盤を買ったのはヒカシューとプラスチックスだった。当時はラジオでもよくそういう音楽が流れてたな。AMだったら夜帯、深夜帯のTBSラジオ。あと、NHK-FMでも深い時間に割りとマニアックなロックの番組をやっていて。いまだに自分の中にあるのは、原田真二から始まったビートルズ的な音楽とニューウェイブ。やはりこの2つは大きいかな。
竹部:渡邊さんといえばムーンライダーズもありますよね。
渡邊:そうだよ! ムーンライダーズは永遠の真打ちだね。彼らの音と出会ったのは80年の1月かな。
竹部:80年1月ってポールの来日逮捕なんですが……。
渡邊:ウイングスの武道館はチケットを取ってました。席はアリーナ。でもね、考えたら公演が80年1月なのに、ぼくがチケットを取ったのは79年12月なんだよね。そんな短期間だったんだね。当時は中野サンプラザのエントランスの先にプレイガイドがあって、そこでウイングスのチケットを買えるって分かって、昼に一人で行ったらすでに人が大勢並んでて。そこに並んで徹夜で買ったんだよ。すごく寒い夜だったな。
竹部:中二で徹夜? 親になんか言われないんですか。
渡邊:うん。「ウイングスのチケット買いに行ってくるよ」って。「たぶん徹夜で、明日の昼まで家に帰って来ないから」って言って。そういう、カルチャーっぽいやつに関しては寛容な家だったんですよ。
竹部:そもそもお母さんにビートルズを教えられたんですもんね。
渡邊:今でも覚えているんだけど、自分の周りは大学生っぽい人ばかりだった。自分よりも5、6歳ぐらい上の人たち。その人たちが仲間内で並んでて、夜みんなでビートルズの曲を歌ったりしてた。
竹部:渡邊さん、1人で並んだの?
渡邊:もちろん。子どもの頃から1人で行動してたんですよ。藤子スタジオにも1人で行っていたし。
竹部:小学生の時に藤子不二雄が好きすぎて、ひとりで藤子スタジオを訪ねたら、中に入れてもらえて、それ以来F先生の作業を定期的に見ていたっていう話ですよね。しかもケーキまで出してもらったと。この話は長くなるのでここまでにしますが。
渡邊:そうそう。ウイングスのライブも1人で行くからチケットを1枚だけ買ったな。4,500円。ピンク色のチケットでね。
ビートルズの根幹はギターで魅力的で印象的な鍵盤が入る
竹部:でも79年の12月っていうことは同じ月に真二の武道館にも行っていますよね。
渡邊:それも1人で行ったよ。でもこの時期、真二のライブにはたくさん行っているのに、サザンの単独ライブには結局行っていないんだよね。ということは、やはり原田真二の方が重要だったのかなあ。
竹部:前に一緒に原田真二の『ゴールデン☆ベスト』を監修したとき、二人の対談って形でライナーノーツを書いたじゃないですか。そこでこの時期のシングルを熱く語っていましたよね。『ナチュラル・ハイ』以降の。
渡邊:79年9月リリースの「ア・デイ」、11月リリースの「マーチ」はめっちゃ好きだよ。最高だよね。でもあまり売れなかったね、名曲なのに。3月リリースの「スウィート・ベイビー」もそうかな。どっちかっていうと初期よりもこの辺りの方が好きかもしれないな。
竹部:松本隆と離れてから、ポリドールに行く時期ですね。
渡邊:「アワ・ソング」も好きだったな。あれは『ザ・ベストテン』の13位くらいまではいったんだけど、ついにベストテンには入らなかったね。
竹部:レコードが売れなかったから仕方ないですよ。ハガキで『ザ・ベストテン』の順位はそのくらいまでは行ったけど。
渡邊:あのレベルの曲をイギリス人がリリースしたら世界的にヒットするのにって当時思ってたなあ。
竹部:ぼくの人生でいちばん重要な曲、いちばん好きな曲は「アワ・ソング」なんですよ。ちなみに人類史上最も偉大なポップミュージックは「タイム・トラベル」。これは自分の中のデフォルトで、そこはもう譲らないっていうか、決めているんです。
渡邊:そういう人がいてもおかしくない。とんでもない名曲ですよ。「アワ・ソング」はジャケもいいよね。でもあれも売れない要素だったのかな。急にメガネかけて、アーティスト風で。でもそれがいいんだよね。あれ、B面はなんだっけ?
竹部;「サムシング・ニュー」です。
渡邊:そうだ、ほぼ完ぺきな英語の発音で歌う曲。あのシングルはすべてが素晴らしいよ。もうここから違いますよって、はっきり言ってるような。真二はどのあたりまでアミューズに所属していたの?
竹部:前にオリコンのクレジットを調べたことがあって、「タイム・トラベル」ではもうりぼんになっていたんですよ。
渡邊:っていうことは『紅白』のときはりぼんなんだ。
竹部:映画『アワ・ソング』のエンドロールでもりぼんになっていますからね。
渡邊:原田真二のために作ったアミューズだったのに、突然いなくなって、そこに現われたのがサザンというのはよくできた話だよね。
竹部:昔、テレビのサザン特番で、桑田さんと明石家さんまさんが対談していて、そこでさんまさんが「オタクはアミューズの最初のアーティストなんやろ?」ってことを桑田さんに聞いたんです。そうしたら「いや、違うんですよ」って。「僕らの前に原田真二さんがいまして」と言ったことがありました。スペクトラムもアミューズでしたよね。『フィール・ハッピー』に入ってる「グッド・ラック」のホーンセクションをやっていますよね。「勝手にシンドバッド」もスペクトラムですよね。
渡邊:そう。「グッド・ラック」のスペクトラムの参加って、まさにブラスロックの方向性だよね。なんていうか、『フィール・ハッピー』には70年代の洋楽のいいところが詰まってるよね。
竹部:確かに。ピアノロックを中心にいろいろな要素が詰まってる。ってまたいつの間にか原田真二の話になってますが……。
渡邊:ビートルズに話を戻すと、ビートルズのバンド演奏の根幹は複数のギターで、明らかにメインを張ってるわけだけど、そこに極めて魅力的で印象的な鍵盤が入る、それがビートルズなんだよなって思ってる。
竹部;渡邊さんが好きなビートルズは中期~後期で、その時代はピアノが重要な要素ですよね。
渡邊:『ラバーソウル』の「イン・マイ・ライフ」の間奏のピアノソロを機に、メロディアスな鍵盤が増えていく印象です。
竹部:そうなんですよ。「ペニー・レーン」とか、急に鍵盤が増えていく。原田真二『ゴールデン☆ベスト』のライナーノーツの中でも、渡邊さんはポップミュージックにおける鍵盤の重要性を言っていますよね。
ビートルズが好きだった自分が好きになるべきバンド、TFC
渡邊:ずっと大きかったんだけど、途中からそれほどではなくなった。中三から高一にかけて、トッド・ラングレン、10CC、XTC、ELOとか、所謂そういうアーティストも好きになって、確かにあるときまではバンドサウンドでも鍵盤が入ってないと物足りなく感じてたんだけど、ティーンエイジ・ファンクラブを聴いて考え方が変わったのかな。
竹部:そうなんですね。その話は『ゴールデン☆ベスト』ではしていませんでした。実はぼくもティーンエイジ・ファンクラブは大好きでして。
渡邊:ティーンエイジを最初に聞いたのは90年かな。あの頃、英米からいろんなギターオリエンテッドなバンドが出てきたでしょ?ギターの音を結構歪ませながら、シンプルでメロディアスな歌を歌う人たち。いろいろ聴いたけど、僕のなかではティーンエイジの存在は相当大きかった。
竹部:ニルヴァーナもそのひとつですよね。渡邊さんがティーンエイジを最初に聞いたのは『バンドワゴネスク』ですか。
渡邊:その前にリリースされてた、シングルオンリーの「ゴッド・ノウズ・イッツ・トゥルー」っていう曲が最初かな。永遠に好きな楽曲です。
竹部:それは早いですね。ぼくの座右の銘は「エブリシング・フロウズ」なんですよ。
渡邊:名曲だよね。「ザ・バラッド・オブ・ジョン・アンド・ヨーコ」のカバーシングルも見つけて買ったな、少し遅れて。
竹部:その頃はまだティーンエイジを意識している人は少なかったんじゃないですかね。
渡邊:少なかったけど、もちろんいるところにはいたよ。
竹部:初期は轟音ギターで、シューゲイザー、グランジという括りでもおかしくないんだけど、ビートルズを感じましたよね。
渡邊:そうなんだよ。ビートルズなんだよ。ビートルズが好きだった自分が好きになるべきバンドがティーンエイジ・ファンクラブだった。オアシスよりもビートルズを感じたよ。
竹部:同じく。ティーンエイジはクリエイションにいた時期もあったからオアシスの陰に隠れてしまった部分もあったと思います。
渡邊:僕はオアシスよりもティーンエイジかなあ。オアシスの野心的な方向性とは真逆なところも個人的には共感出来る。オアシスの歌謡ロック的な佇まいというか、みんなで一緒に歌える、エモーショナルで明瞭な楽曲を制作する類い稀なる意欲にも共感はしてるけどね。
竹部:両者とも好きですけど、ティーンエイジに思い入れが強いですよね。
渡邊:その頃は僕のまわりにもティーンエイジが好きなバンドマンやスタッフは沢山いたけど、徐々に少し地味な存在になっていった印象はあるかなあ。
竹部:『グランプリ』以降、音楽も徐々に地味になってしまっていったし。
渡邊;ティーンエイジはなんか応援したくなる。応援というのも大変おこがましいけど。要は自分が今やっている仕事自体が、好きなアーティストを応援するっていうスタンスなんだよね。自分が好きで選ばせてもらったアーティストを様々な形でディレクション、マネジメントしている。自分なりのやり方でしかできないけど、応援し、出来るだけ支えるという。ティーンエイジもそういう気持ちにさせてくれるんだよね。
竹部:渡邊さんはそれを35年やり続けているわけですよね。
渡邊:毎日のようにティーンエイジを聞くわけでもないけど、いつも心にあるね。
竹部:この間のXでのポストを見ましたよ。「音楽に恋する気持ちをはっきりと思い出させてくれたのは1990年前後のティーンエイジ・ファンクラブ。愛じゃなく、恋の儚いが故の永遠性を絶えず歌にする彼らへの思いは、恋に恋する状態に近いけど、ポップミュージック体験って僕にとってはそのようなもの」って。いいこと言うなと思いました。
渡邊:あのときにふと思ったんだよね。やっぱり、心にティーンエイジがいるなと。
竹部:ノーマン・ブレイク、渡邊さんと同じ65年生まれですからね。昭和40年男なんですよ。
渡邊:そうなんだ。もっと年上だと思ってた。
竹部:今のルックス、完全におじいちゃんですよね。
渡邊:前に一度、ノーマンに会ったことがある。2000年の「サマーソニック」で。その「サマソニ」はサニーデイも出演してたから、曽我部、田中、丸山と一緒にね。
竹部:2000年の「サマソニ」って、富士急ハイランドの? それ行きましたよ。
渡邊:あのときサニーデイは大阪のみの出演だったんだけどね。だから大阪の会場の楽屋で。『クッキーシーン』の伊藤英嗣さんに紹介してもらって。
竹部:そうなんですね。その「サマソニ」ってJBが出たやつですよね。
渡邊:大きな楽屋フロアにJBもいて、曽我部と一緒にサインをもらいに行ったら断られた。その前に何人かの女の子にサインしてたから、ぼくらももらえると思って行ったんだけど、「No more!」って言われた(笑)。
ロック的、パンク的なマインドがあるポップミュージック
竹部:そういえば、サニーデイは『若者たち』から今年で30年だそうで。
渡邊:最初に曽我部と田中に会ったのは94年2月だから31年の付き合いだね。
竹部:どういうきっかけで関わるようになったんですか。
渡邊:僕が下北の251で開催してたイベントに曽我部と田中が来てて、終わったあとに2人と話をしたんだよ。2人はちょっと酔っぱらってたけど、そのときの曽我部の自信ありげで、少し不遜な態度も気に入ったし、しゃべり声を聴いてていい声だなあって思ったの。その時点でまだ曲も聴いてないけど、このバンド担当したいなって思ってた。
竹部:運命的出会いだったんですね。
渡邊:そのとき『COSMO-SPORTS ep』っていう、知り合いのインディーレーベルからリリースされていた彼らのCDをもらったんだよ。で、帰宅してすぐ聴いたらやはりめちゃくちゃよかったから、次の日に曽我部に電話して、「一緒にやりたいんだけど、どうかな?」って伝えた。
竹部:その関係が今でも続いているというのはすごいことですよね。そもそも渡邊さんは最初から音楽の制作者とかディレクターになりたいと思っていたんですか。
渡邊:まずレコード会社に就職したい、というのではなく、ミディで働きたかったんですよ。
竹部;そうでした。その話、聞いたことありましたよね。当時のミディは、坂本龍一、矢野顕子、大貫妙子、ムーンライダーズ(※リリースはなし)とかがいて、新しい時代の音楽を作っていた斬新なレコード会社でした。
渡邊:そこで働きたかったんだよね。ぼくの大学時代は85年から89年だったんだけど、89年はミディでは新卒採用をしてなかったの。
竹部:だからとりあえず、一般企業に勤めたんでしたよね。
渡邊:そう。なぜミディにこだわったかっていうと、ミディ的な音楽が好きだったということはもちろんだけど、大きいレコード会社だとやりたいことがパッと出来ないかもっていう漠然とした印象があって。
竹部:そうかもですね。
渡邊:それで90年にスタッフ募集があって、面接で社長の大蔵博さんに「いつか自分の手で、次の世代のムーンライダーズやカーネーションのような、自分が本当に良いと思えるバンドを発掘してリリースしていきたいです」っていきなり勝手なことを言ったんですよ(笑)。
竹部:そこでムーンライダーズなんですね。
渡邊:Xにも書いたけど、彼らがいなかったらこの世界に入る勇気はもてなかったな。あんなに勝手な音楽を作り続けてる彼らのようなバンドがこの世界にいるんだったら、自分もそういう精神でやりたい、やれるかもしれないっていう気持ちが生まれたんだよ。80年、中2の1月にライダーズを好きになったとき、良い音楽っていうのは、売れた、売れないは関係ない。チャートに入るだけが音楽じゃないんだってなって気づいたの。それはその前の真二にも思ったんだけどね。「ア・デイ」とか「マーチ」とか、鮮烈なデビュー当時より売れなくなってもいい曲はいいってね。順位をつけることはいい面もあるけど、順位をつけることによって、ヒット曲じゃない作品を下に置くみたいなイメージがつくのは違うだろうって。そんなことは絶対にないんだっていうのを、前ほど売れなくなっていた真二を聴いてぼくは思ってた。それは今も変わらないですよ。
竹部:それは渡邊さんが昔から言っていることですよね。
渡邊:とにかく自分がいいと思う人とその音楽を自分なりになんとか広めたいっていう気持ちがムーンライダーズで芽生えたんだよね。
竹部:ブレてないですね。それでミディ入社以降、ディレクターとしてエレクトリック・グラス・バルーン、サニーデイ・サービス、ゆらゆら帝国などを手掛けると。
渡邊:やりたかったことをやっただけなんだけど。それは今も変わらない。ムーンライダーズを初めて聴いたときに思ったことをやっているだけなんだよ。単純なことなんだけど。
竹部:ビートルズにしても世界一売れたバンドという絶対的な数字があるから、メジャーなバンドという先入観があるけど、一方で実験を繰り返していたマニアックなバンドということも言えるわけで、やりたいことをやった最初のバンドがビートルズなんでしょうね。
渡邊:うん、そうだね。売れる曲も作るけど、実験性の高い曲もたくさんあって。それは売れたからできたっていうのはあるだろうけど、ただ売れただけのバンドではないんだよね。ビートルズの幅広さ、奥深さはとてつもない発明だよね。ビートルズ以降のバンドは、「ビートルズ」というお手本があるわけだけど、ビートルズって、「ビートルズ」っていうお手本がないなかであの音楽を作っていたというのはやっぱりすごいね。
竹部:神様の配置、宇宙の法則としか言いようがないんですけどね。ビートルズの話をしていると結果的にすごい、偉大だっていうことになってしまうから、そうなると、個人的な思いとか思い出をくっつけていかざるをえない。今日も、事前に渡邊さんにビートルズの話をしましょうと言っただけなんだけど、これだけ膨らんでしまうのがおもしろい。まさかティーンエイジ・ファンクラブの話が出るとは思わなかったです。原田真二の話になるんだろうなとは思ったけど(笑)。
渡邊:ロックでありながら、キャッチーなメロディを携えてるっていうところがポイントだよね。ロック的、パンク的なマインドがあるうえでポップミュージックをやっている人が好きなんだろうな。それは好きな小説、映画、漫画、絵画なんかにも共通してることなんだけど、それはまた別の機会に(笑)。
竹部:ぼくも同じようなものを志向してますね。だから話が合うんだと思いますが。
渡邊:そうだよね。どうしてもそこなんだよ。こだわるっていうことでもないけど、好きになるのはそこなんだよ、本当に。
竹部:今回、原田真二の『ゴールデン☆ベスト』以来、二十数年ぶりに話し合ったわけですが、渡邊さんは本当に変わりませんね。
渡邊:さっきも言ったけど、同じ話をすることは大事なんだよ。
竹部:そうですね。自分が変わっていないことを確認できました。また数年後に同じ話をさせてください。今日はありがとうございました。