結婚16年目で変わった。「察し合うのは無理」から「察し合える夫婦」へ
こんにちは! 家事シェア研究家の三木です。「察して欲しい、はダメ」ってよく聞きますよね。僕もずっとそう思っていたし、いい続けていました。でも結婚16年目になり「ああ、夫婦は察し合える方がずっと自然だな」と思うようになりました。 今日は、「察し合える夫婦」になることについてです。
「言わなかったことはなかったこと」の16年
「わたし、エスパーじゃないから。ちゃんと言ってくれないとわからない」 妻が結婚前、僕に何度もいった言葉です。
妻のこの言葉は、いつしかわが家の「法律」になり、「当たり前」となっていきました。 なんと、わが家では「言わなかったこと」は「なかったこと」として扱われるのです!
もともと「察して文化」で育っていた僕は、自分の価値観を入れ替えるのにずいぶんと苦労しました。
結局、察し合ってるじゃないか
ところが、結婚生活も長くなると、おもしろいことが起こってきます。
「言わなかったらなかったことだよね?」ということを、僕達は「言わずに察し合ってる」。
雰囲気や空気で「いいの? 言わなくて?」「なんか言いたいこと、して欲しいことあるんじゃないの?」「でも、言わないと気づかないよ?」という感じになる。それをアイコンタクトのように「大丈夫、いまはまだ言わない」とか「じつはさ……」と話し出したりとか。
なんか、結局「察し合ってる」なぁと感じたりします。
こうした経験から、僕は「察し合える関係」が最終的な目的地だと考えるようになったのです。
日本人はルールよりモラルを大事にしている
少し、僕達日本人にとっての「察し合う」とはどういうことか考えてみます。
一昔前に「KY」という言葉が流行りました「空気読めない」。このKYは「言わなくてもわかるじゃん。雰囲気とかあるじゃん」ってことです。 また「郷に入っては郷に従え」ということわざがあるように、そのコミュニティの空気を読んでしれに従え、という文化が日本にはあります。
具体的な例では、たとえば電車内の「優先席」。「お年寄りや身体の不自由な人に優先的にゆずる席」であって、「健常者が座っちゃいけない席」ではないはずなのに、何だか自分が元気いっぱいだと座りにくくないですか?
日本人って、とにかく周りの空気を読みながら自分の行動を決めているところがあります。
この空気のことをいわゆる「モラル」と言います。
僕達は、誰かとコミュニティをともにするとき、ルール以上にこのモラルを大事にします。それはあらゆるつながりの中であって、友人同士のモラル、サッカー部のモラル、会社の先輩とのモラル、オンラインコミュニティでのモラル。みんな違う。でも、僕らはそれを敏感に察知して、そのコミュニティのモラルをいち早く探り、従うことで「仲間意識」を作っています。
これはもちろん、家庭内でもあるのです。
「察し合うのは無理」から「察し合える夫婦へ」
では、これらをまとめてみます。
「察し合うのは無理」これは間違いなく正しい。ただし、それはまだ「家庭内モラル」が作られていない状態だからだと思うのです。
まだ、お互いがそれぞれの源家族のモラルや、どこかから見聞きしてきたロールモデルモラルに従っている状態です。
「普通は、自分で出したら自分で片付けるじゃん」「いや、べつに充分片付いてるじゃん。ここに置いておいて何が問題なの?」など。
とにかくお互いの信じるモラルが違う。
だから、この違っているモラルを自分たちの家庭用に作り上げていかなくてはなりません。
そのために必要なのが「ルール」です。
「察し合うのは無理」というのは、まずはこの「ルール」を明文化しようということです。
それは大きなことから、ときにどうでもいいような細かなことまで、様々でしょう。
「食器を洗ったら、食器棚にしまう」のか「水切りかごに入れっぱなしでいい」のかなど。
でもそれがルールとして運用されていると、だんだん「暗黙の了解」になっていくのです。
そして 「暗黙の了解」になったらそれが「察し合える夫婦」と言えます。
ルールにしばられるより、モラルで察し合えばいい
たしかに「察し合う」ことをただ無条件で相手に求めるのは無理です。相手にしてみたら、そんなの知ったこっちゃありません。 だから、何もしてないのにただ察してもらおうなんて、そんなのあり得ないと思っています。
でも、しっかりルールをつくって、それを運用しながら「察し合える関係」になるのはとても自然なことではないでしょうか。
最初は意識的にルールに従って生活しなくてはならないけれど、数カ月もすればそれが自然になり、やがて成文化したルールはいらなくなってしまう。
そして、それが「家庭内モラル」が作られた状態です。
日本人なら、ルールでガチガチに縛られるより、モラルで察し合える方がずっと自然で心地いいはず。
三木智有/家事シェア研究家