深川・陽岳寺の「仏教ボードゲーム」で禅の教えを学ぶ〜お寺でひとやすみ!
今回は、臨済宗のお寺、深川・陽岳寺さんに伺いました。臨済宗といえば、禅宗のひとつ。禅宗といえば坐禅ですが、こちらのお寺では坐禅会を行うだけでなく、オリジナルのボードゲームを作りゲームで遊ぶ会なども開いているそう。いったいどんなお寺なのでしょうか? 副住職の向井真人(むかい・まひと)さんに、お寺でのイベントや臨済宗の教えについてお話をお聞きしました。
ゲームで「輪廻」を体験
──陽岳寺さんでは、みなさんで集まってオリジナルの仏教ボードゲームをする会を開かれているとお聞きしました!前回お話をお聞きした僧侶の青江覚峰さんもいらしていたそうで。
ゲームの会は「不二の会(ぷにのかい)」といいます。不二の二文字だけで「ぷに」と読むことはないんですが、「入不二(にっぷに)」という仏教の言葉があったりするので、そこからとりました。仏様と二つに別れない、という意味です。
お子さんやお友達とご一緒の方や、お一人でいらっしゃる方もいます。40代くらいまでの若い方が多いですね。ゲームを必ずやらなきゃいけないわけではなくて、ゲームで遊ばずに、お茶を飲んで帰るという方も。青江さんは同じくお寺で生まれてお寺で育っている身として雲の上のような人だったんですが、Twitterで知った宗派を超えた勉強会で知り合い、お寺に遊びに来ていただいたことがあります。
──仏教のボードゲームって、いったいどんなものなんですか?
今までたくさんのゲームを作りましたが、最新作は「浄土双六(じょうどすごろく)ペーパークラフト」です。須弥山(しゅみせん)という山の南側にある南閻浮州(なんえんぶしゅう)という島に人間は生きていると言われているので、ゲームの振り出しはその島になっています。お坊さんとして修行をするゲームで、サイコロを振ると虫や鳥になったり、地獄に落ちたり。輪廻(りんね)しながら最終的に仏を目指します。
──仏教でいう「地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)」とかの世界が表されているんですね。ゴールのマス目はどこにあるんでしょうか?
板上には「仏」っていう上がりのマス目は存在していないんです。なぜかというとここは迷いの世界だから。迷いの世界から解脱(げだつ)した存在が仏だから、この世界にはいないんです。このゲームを体験すると、役に立たない存在だと感じるときもあったりするよなあ、地獄だ、修羅場(しゅらば)だ……なんていうふうにしんどい気持ちも味わえます。
──「あの頃の自分は、餓鬼のようにむさぼっていたなあ……」とか(笑)。
そうそう! 遊ぶと楽しいんだけれど、そういう仏教の教えに基づいて作られていたり、体験を通して身をもって知ることができるように工夫してゲームを作っています。
──地獄だ……という気持ちにはまりこんでしまうと辛いですけど、ゲームで体験すると現実と違って客観的に距離が取れる感じがしますね。
人間って、生きているとその世界の主人公だから、生きている世界からどうしても離れられないんですよね。ゲームだと、ゲームが終われば世界も終わります。ゲームを通して一回立ち止まって、自分を離れることができるかもしれませんね。
ゲームで教えを説く
──お寺でゲームと聞くと意外な感じがするのですが、どうやって仏教とゲームが結びついたんでしょうか?
そもそもお坊さんが仏教をテーマにしたゲームを作ってもいいのかな? と僕も疑問に思って調べたら、江戸時代に作ってらっしゃるだろう方が見つかりまして、じゃあ現代のお坊さんも作ってもいいのかなということで始めました。僕はお寺に生まれてお寺に育っているので仏教に親しみがあるわけですけど、家の中にお仏壇がなかったりと、生活の中にお寺の存在がない方も多いですよね。そんな中で、布教の方法のひとつとしてゲームっていうのを考えたんです。例えば友達におすすめされたYouTubeや本だったら見ると思うんですけど、ストレートに教えを説いても、押し売りとして受け止められてしまうんじゃないかなと考えまして。仏教の教えとか宗派の話を知っていただいて、ちょっとでも安心していただくのがお坊さんの仕事だと思うので、伝える方法をずっと考え続けています。
向井さん:このお寺は臨済宗なのですが、「体験してもらう」っていうのが臨済宗らしいところなんじゃないかと思っています。臨済宗では、「とりあえず坐禅してみろ」って言われるんですよね。本から学んだ学問じゃなくて、体験を通して実際に落とし込む時間が大事だということかなと思っています。
──向井さんの作るゲームやみんなでプレイする時間も、その「体験」の一つということなんですね。
鎌倉・円覚寺での修行を経て
──臨済宗といえば「公案(こうあん)」といういわゆる“禅問答”が知られていますよね。手を叩いた和尚さんから「両手を叩くと音がする。では片手の音とは?」とか聞かれて、ぽかんとしてると和尚さんに怒られて、みたいなイメージがあるのですが……。実際の修行中って、どんな暮らしを送るものなんですか?
道場で指導してくださる方を「老師」というんですが、その方によってやることや雰囲気が全然違うんです。私は鎌倉の円覚寺に3年4ヶ月行っていましたけど、その間修行僧は基本的に塀から出られないんです。托鉢(たくはつ)と、月3回のおつかいで出られればいいね、という感じです。一日のスケジュールも全部決まっていますし、寝る時間も短いです。でも最初の何ヶ月かはすごく気持ちよくて、坐禅中リラックスしてたんですよね。お寺のすぐそばで通ったトラックの音や揺れを感じるような東京から、山に囲まれた鎌倉に行ったわけですけど、円覚寺の周りにはタイワンリスがいっぱいいて、裏の池でアライグマがなにか洗っていたりするんですよ。老師から公案を渡されてそれに取り組んでいくのですが、坐禅しながら教えの完全コピーを目指してみたり、時には教えを疑って坐禅中にわざと考え事してみたりと、試行錯誤しながら過ごしていました。
──現代のお寺でも本当に「公案」を実践しているんですね! 陽岳寺さんでは坐禅会もやられていますし、他にも一般の方が参加できる行事やイベントをたくさん開催されていますが、それも円覚寺さんでの教えからなのでしょうか。
円覚寺では昭和の時代から「日曜説教」という法話会をしてらっしゃったり、お寺の掛け軸を風入れを兼ねて展示したりとか、いろいろな取り組みをされるのを見てきたので、お寺とはそういうものなんだなと思うようになったところがあります。当時、修行道場の指導係である師家(しけ)をされていた横田南嶺(よこた・なんれい)老師(現在は円覚寺管長)の影響も大きいですね。今でも円覚寺のYouTubeチャンネルで動画を上げてらっしゃいますが、当時からいろいろな方とイベントや対談をされていて、自由闊達(かったつ)なその姿をおやじの背中のように見ていたら「ああいうふうにやらなきゃいけないな」と思うようになりました。
──おやじといえば、陽岳寺ご住職であるお父様の代から、日本語でお葬式や法事をやられているそうですね。
子供にもわかりやすい法話をしてほしいというご要望をきっかけに、従来のお経に加えて、お焼香の意味やお戒名の由来を日本語でお話しするようになったそうです。それで実際に喜ばれている姿を見てきたので、ケーキ屋さんの息子がケーキ屋さんになるような具合で僧侶になったのだと思います。
人生には「ゴール」も「スタート」もない
──ちょっと踏み込んで、臨済宗の教えもぜひお聞かせください。
仏教の始まりとなったお釈迦さまは、2500年前の人間なんですよね。仏教の瞑想をすれば同じ人間である私たちも同じように悟れるんじゃないかということで、臨済宗では坐禅をするんです。さらに、悟り具合をチェックしたりきっかけを与えるものとして、臨済宗では「公案」を用意しています。この坐禅と公案がセットになっているのが臨済宗の教えです。公案という問題を与えられて、坐禅中も日常生活でもそれを保ち続けるように言われます。ごはんを食べたり、畑を耕したり薪を割っているときとか、お風呂に入っているときもです。ヨガの世界でも「オンザマット・オフザマット」という言葉があって、マットの上だけがヨガじゃない、日常もヨガをやっているんだよねという話がありますが、公案もそれと同じです。「現成公案(げんじょうこうあん)」という言葉があるのですが、現実としてそこにある目の前の問題が公案なんです。一般の世界でいえば、例えば仕事も「現成公案」のひとつと言っていいかもしれません。
──公案って謎のとんちや現実離れした思想じゃなくて、日常を生きながら考えていくようなものなんですね! 修行では、どういうことが大切だとされているんですか?
「大信根(だいしんこん)」、「大擬団(だいぎだん)」、「勇猛心(ゆうもうしん)」の3つが大事だとされています。信じる時はまるっとそのまま飲み込んで信じて、教えを自分の頭でとことん考える。そして、やるときはやり抜く、という3つです。坐禅をやっていると、気持ちいいけど、これってリラックスしているだけなんじゃないかな? というように疑いの気持ちも湧いてくるんですよね。公案を渡されて、「お前はこの問題をどう思ったんだ」と言われて答えると、「違う、出てけ!」と言われたりもするんですよ。行かないでいたら「なんで来ないんだ」と言われて、行ったら行ったでまた「違う!」と言われ……。でもそれは優しさなんです。応援、励ましなんですよね。しっかりやりなさいという戒めでもあります。
──禅というと修行僧が和尚さんに怒られているイメージがあったのですが、それは「勇猛心」を奮い立たせるためなんですね。
そうですね、勇猛心は「切の一字(せつのいちじ)」とも言われるのですが、死んだ気でやるとか、どんな時もやり通しましょうっていう心のベクトルというんでしょうか。
この3つをもし一般向けに軽くしてみるとしたら、「大信根」は本を読むだけじゃなくて、実際にお坊さんに会って話を聞いてみること。すると、宗派ごとに受け止めが違ったりするから、「あのお坊さんはああ言っていたけど、この本にはこう書いてある。なんで?」ということが絶対出てくるはずなんですよね。そこが「大擬団」の出番だとしたら、そこで自分なりに考えてみたり、自分で坐禅してみたり。「勇猛心」は勇気を出してさらにお坊さんに会いに行って質問してみたり、興味を持ってみるということでしょうか。
──仏教の宗派ってたくさんありますが、仏教のいいところはどんなところだとお感じになりますか?
仏教のいいところの一つが、お釈迦さまは長生きしているっていうことですよね。80歳という高齢まで生きているというところが、人生100年時代といわれる現代のヒントになっているんじゃないかと思うんです。お釈迦さまは出家して、当時インドで主流だったバラモン教の高名な仙人2人の下につき、当時の修行方法を習っています。そこで違うなと感じて、いろいろ工夫をしていった中で悟るわけなんですよね。自分で勝手にいろいろ編み出したわけじゃないんです。そういう意味でいうと、仏教に触れるなら、お坊さんに会う必要はやっぱりあるんじゃないかと思うんです。「善き友、善き仲間とともにあるということは、聖なる道のすべてである」とお釈迦さまはおっしゃいますし。
──他ならぬお釈迦さま自身が、師についたうえで試行錯誤された人であるということですね。「10分で変わる! まずは2週間!」みたいにすぐ答えをくれるものがあるとつい飛びつきたくなりますけど、なかなかゴールにたどり着けなくて惑っていても大丈夫なのかも、と心が少し軽くなりますね。
そもそもゴールって、単に設定しただけのものですからね。「18歳で大学受験」みたいにみんなが同じ方向を向いていることもありますけど、それは直線的で一方向にしか見られない見方で、人生には前も後ろもそもそも存在しないんですよね。平面じゃなくて、円形みたいなものかもしれないし。スタートラインだってみんな全然違う場所で、違うところからぐねぐね勝手に歩いている。誰かが先にこっちにたどり着くといいみたいな価値観も、そもそも存在していないんです。どこかで自分なりの基準を作って判断すればいっとき楽になるかもしれないけれど、逆にそれに縛られてしまうこともあるかもしれない。ゴールはただ自分で勝手に決めたゴールでしかないのかもしれません。
向井さん:『臨済録(りんざいろく)』という臨済宗の開祖の言行録があるんですけど、その中に「途中にあって家舎(かしゃ)を離れず」という言葉があります。途中っていうのは人生の途中。家舎っていうのは自分の家、つまりよって立つ安心するところですかね。その家が固定化されてしまっているものばかりだと、どこにも行けなくなってしまう。でもその家がキャンピングカーみたいなものだったら、自由にどこにでも行けちゃいます。自分の家って言われると、所有権を持っている部屋みたいな感じがありますけど、地球上、宇宙上が全部自分の家なのかもしれないですね。
「変身!」は命の宣言
──「体験」が大事とお聞きしたので、向井さん作のゲームの中からも教えを感じてみたいです。
実際にやってみましょうか。これは今お寺に来た方にお配りしているもので、「WAになって語ろう」というゲームの簡易版「ちょっとだけWAになって語ろう」です。マス目の質問に順番に答えてもらって、その質問と答えを全員分覚えておかないといけないというゲームです。
──おのずと、人の話を聞くという姿勢になりますね。(「いつかはすんでみたいところは、どこ?」「ここにいるひとのなかでいちばんすきな人ひとは、だれ?」と進んで)「あなたのおもういちばんカッコイイせりふは、なに?」なんてのが出てきましたよ。お坊さんの思うカッコいいセリフ、ぜひお聞きしたいです!
急にハードルが上がりましたねえ(笑)。じゃあ「変身!」にしましょうか。「変身!」っていうのは、世の中に対する自分の命の宣言なんですよ。「聖闘士星矢(せいんとせいや)」っていう漫画で「ペガサス流星拳!!」って叫ぶように、宣言することで技が完成する文化ってありますよね。「仮面ライダー」のシリーズでも、戦う宿命を背負わされた主人公が悩んだ末、決意して戦うっていう大筋のストーリーがあるらしいんですね。今まで倒してきた人たちにも敵なりの人生があって、変身していいのだろうかと悩むけれど、それでもやるんだって決めて戦う。そういう命の宣言が、変身という言葉にはあると思います。私たちお坊さんも勝負のときには衣を着ますし、みなさんもネクタイを締めたりして、自分に対して言い聞かせたりすることもあると思うんですよね。だからみんな、実は変身してるんじゃないかと思うんです。それを認識したら、もう少し生きやすくなるかもしれません。家を出る前に自分なりのポーズをとってみたりとか、いろんな人の「変身!」を聞きにいくのも面白いかもしれないですね。
人間のさまざまな心の表れを伝える
──あらためて本堂を拝見すると、御本尊の十一面観世音菩薩座像の他にも、ものすごくいろいろな仏様の像がありますね。これだけたくさんの種類の仏像が本堂に集まっているお寺って珍しいのではないでしょうか?
遠くを指差していたり、鳥と戯(たわむ)れていたり、いろんなポーズの仏像がありますね。確かにこれだけいっぱい並んでいるお寺さんってあまりないかもしれません。これは、臨済宗でいう「人は仏の心を持っています」ということの表れかなと受け止めています。心というのは感情のことではなくて、物事の本質とか、大切にしていることという意味ですね。お地蔵さんとかお不動さんとかいろんな仏がいるのと同じように、人間にもいろんな心があるということ。あっちだよ、と優しく教えてあげられるときもあれば、縄と剣を持って煩悩(ぼんのう)や悪さをしようとする心を縛って細切れにするお不動さんのように、誰かのためを思ってめちゃくちゃ叱ってあげることもあったりしますよね。
──さきほどの「変身!」のお話もありましたが、確かに相手や所変われば人間ってまったく別のものに変わるのに、自分はこういう人間だ、こう生きていきたいんだと決めつけすぎることが、辛さを生み出す原因なのかもと思えてきました。いろんな顔があるし、ゴールも一つじゃない、それ以前にそもそもゴールもスタートもない……。これからお寺を巡りながらじっくり考えていきたいと思うのですが、向井さんとゆかりのあるお寺のご紹介をいただけますでしょうか。
寺社フェス「向源(こうげん)」というイベントでワークショップの運営を担当したときに知り合いました、目黒・蟠龍寺(ばんりゅうじ)副住職の吉田龍雄さん。以前、浄土宗の増上寺寺務所で働いてらっしゃって、今はお寺の副住職をやっていらっしゃいます。芸術の神様の辨才天をお祀りしていて、山手七福神のお寺としても知られています。お寺にスタジオがあって、副住職もギターを弾かれます。お寺の歴史とつながる活動をしてらして、すごいなあと思っています。
──また全然違う角度から仏教のお話をお聞きできるのが楽しみです。ありがとうございます!
向井真人さんプロフィール
1985年東京生まれ。1児の父。大学卒業後、円覚寺専門道場へ。2010年、深川・陽岳寺に移り、同年、副住職となる。坐禅会・寺ヨガ・茶会などの企画運営、お寺発のボードゲームを考えるなど、有縁無縁の方々にお寺や仏教を活かしていただく方法を模索している。
長光山 陽岳寺(ちょうこうざん ようがくじ)
住所:東京都江東区深川2-16-27/定休日:無/アクセス:地下鉄東西線・大江戸線門前仲町駅から徒歩3分
取材・文・イラスト=増山かおり 撮影=陽岳寺、星野洋一郎(さんたつ編集部)、増山かおり
増山かおり
ライター
1984年青森県生まれ。かわいい・レトロ・人間の生きざまが守備範囲。道を極めている人を書くことで応援するのがモットー。著書『東京のちいさなアンティークさんぽレトロ雑貨と喫茶店』(エクスナレッジ)等。