【西洋絵画vs写真】絵画はどうして「見えないもの」まで描くようになったのか?
「西洋絵画」と聞いたとき、思い浮かべるのはどんな絵画ですか?たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》や、ピカソの《泣く女》。ルネサンス期から現在までの約1500年だけを切り取っても、その歴史は多彩な絵画で溢れています。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》
西洋絵画のトレンドはダイナミックに移り変わり、
実物を限りなくリアルに描写する(ルネサンス以降のアカデミックな絵画)
↓
実物や見たままとは違う美も表現する(キュビスムや抽象絵画など)
と、「見えるもの」から「見えないもの」まで、絵画の守備範囲は大きく広がりました。
ワシリー・カンディンスキー《即興 渓谷》
絵画の守備範囲が広がった理由は何か?それは、カメラと写真の存在…もとい、「脅威」が大きかったのではないでしょうか。実際、現実をありのままに記録できる写真が生まれたとき、絵画の存在意義は大きく揺らぎました。
とはいえ、悪い影響ばかりではありません。絵画の立場が揺らぐたびに、画家たちは新たな美術を創造し、西洋絵画はかえって彩りを増していきました。写真との距離感を軸に絵画の歴史を紐解いたら、面白い視点が得られそう…!
というわけでこの記事では、カメラや写真の登場によって西洋絵画はどんな風に発展してきたかを紹介します。
カメラを使って絵を描く―フェルメールとカメラ・オブスクラ
カメラははじめから脅威だったわけではなく、当初は絵を描くための補助道具として活用されました。「絵を描くときにカメラを使うのは禁じ手じゃないの?」と感じるかもしれませんが、17世紀オランダの画家フェルメールなど、実は多くの画家が絵画にカメラを役立てています。
手持ち式カメラ・オブスクラの使い方
彼らが用いた「カメラ・オブスクラ」は、暗い部屋に小さな穴を開けて光を取り込むと、壁に外の景色が投影される現象を活用したもの。紀元前4世紀の哲学者アリストテレスが考案したとされ、実用化されたのは16世紀頃です。
ただし、投影された像を紙などに定着させる技術はありませんでした。「カメラ」はあっても「写真」はなかったのです。画家たちはカメラで紙に像を映し、それを手書きでなぞり、絵を描くときに役立てました。
ヨハネス・フェルメール《デルフトの眺望》
フェルメールも、カメラ・オブスクラを活用したとされる画家のひとり。彼が暮らしたオランダの町デルフトの風景を描いた《デルフトの眺望》も、カメラを使ったとされています。
右端に停まっている船の光が当たる部分に丸いハイライトが描かれているのですが、これはカメラ・オブスクラによる特徴的な像を再現したのではないか…と考えられるのです。
ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》
ここまで読んで「カメラを使っていたなんて、フェルメール にはガッカリだよ…」と感じた人がいるかもしれません。しかしフェルメールの面白い点は、「カメラを使いはしたものの、忠実でない部分もある」ことです。カメラが人々に見せる「正解」に対し、自分なりの美意識で「味つけ」をした所も、フェルメールの魅力ではないでしょうか。
カメラを使ってでも、リアリティを高めたい。そんな実物を実物らしく描くトレンドは、15〜6世紀頃から始まり長く続きます。その価値観が揺らいだのは、「写真」が登場した19世紀でした。
本物そっくりという価値の揺らぎ―写真と印象派
ニセフォール・ニエプス《ル・グラの窓からの眺め》
19世紀に入ると、いよいよ「写真」が発明されます。1826年、カメラ・オブスクラと感光材料を用いたニセフォール・ニエプスが、世界で初めての写真《ル・グラの窓からの眺め》を撮影。以降、写真の技術は急速に発達しました。
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール《タンプル大通り》
本物そっくりどころか、本物そのままを表現できる写真の登場は、西洋絵画にとって大きな事件。神が作った(と考えられる)世界を、人間ではなく自然科学の力で表現できる写真…。こんな技術が確立されたら、絵画も画家もいらなくなるかもしれません。
写真が絵画にとって単なる補助道具の域を超え、新たな「脅威」になった時代。この状況で満を持して登場したのが、日本でも人気の高い印象派の画家たちです。
クロード・モネ《睡蓮の池》
印象派の大きな特徴は、筆の跡を隠さず、キャンバスに絵具を塗りつける表現です。時々刻々と移り変わる一瞬の光景を留めるため、絵の具を素早くかつざっくりとキャンバスに置きました。「未完成の絵だ」と批判すらされた作品は、それまでの絵画とも写真とも異なります。印象派の画家たちはまったく新しい絵画を創造したのです。
※チューブ式絵具が開発されてアトリエの外での制作がしやすくなったことなど、写真の発達のほかにもいくつかの理由があって印象派が台頭しました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》
…とはいえ、描き方こそ斬新ですが、印象派も「見たまま」を描こうとしました。もう少し時代が進むと、「見たままではない何か」を描くエッジの効いた画家たちが現れ、絵画は写真と比べようもない独自の道を切り拓いていきます。
見えないものを描く―キュビスム、抽象、シュルレアリスム
印象派の登場をターニングポイントに、西洋絵画はますます自由になっていきます。最たる例が、ピカソやジョルジュ・ブラック、フアン・グリスに代表される20世紀に興ったキュビスムです。
フアン・グリス《ギターを持つハーレクイン》
人物や物体を描くとき、一般的には1つの視点から見た様子を描写します。ところがキュビスムの画家は、複数の視点から見た様子を合体させて描き出しました。たとえば、人間の正面の顔と横顔を同時に描く…といったことです。写真には不可能な物の捉え方をしているのが伝わるでしょうか?
ピート・モンドリアン《赤・青・黄のコンポジション》
キュビスムなどの影響を受けた抽象絵画も、同じ頃に誕生します。あるモチーフを簡単な図形に還元した絵画や、モチーフにとらわれず形や色を画面に配した絵画など、「具体」のない「抽象」が描かれました。カンディンスキーやモンドリアンなどの画家がよく知られ、これも絵画ならではの表現と言えます。
また、第一次世界大戦後に興ったシュルレアリスムは、人の理性を離れた夢や無意識に創造性を求めて始まりました。代表的な作家には、ダリやマグリットが挙げられます。画中のモチーフはときに写真のようなリアリティで描かれますが、それゆえ現実にはあり得ない奇妙な場面が際立っています。
パウル・クレー《奇跡的な着地、あるいは「112!」》
いずれも複雑な社会背景を背負った芸術傾向のため、すべてを写真技術の裏返しと主張するつもりはありません。ですが、絵画が「写真にできないこと」の方向で急激に拡張したのは、「絵画とはかくあるべき」という価値観を壊して存在意義を揺さぶった写真の誕生が大きかったと考えられないでしょうか。
写真を取り込むアート―コラージュやフォトリアリズム
さて、写真の発達を対岸の出来事として目をつぶらなかったのが、西洋美術の面白いところです。むしろ写真の特徴を活かし、ときには逆手に取って作品に昇華させる芸術家たちも台頭しました。
たとえば、シュルレアリスムから始まった「コラージュ」。複数の写真から切り出したモチーフを1つの画面に配置することで、ちぐはぐな場面を演出する表現です。真実を写し出すはずの写真というメディアを使って嘘をつく…みたいな、現代のお笑い的な「うまさ」に特徴がある作品が多く見られます。
1970年代前後にアメリカで興ったスーパーリアリズム(フォトリアリズム)では、写真を元に絵画が描かれました。従来の絵画ではモデルを肉眼で見て絵に描きますが、「モデルの写真」をモデルに絵を描く…という芸術傾向です。
また、リアリティを追求する写実的な絵画も、まだまだ廃れてはいません。写実絵画では現代の日本のアーティストも大勢活躍しており、千葉県のホキ美術館などで作品を鑑賞できます。たしかに写真のようなリアリティがありますが、写真で代用できる作品はなく、どの絵画にも画家の個性と哲学、テクニックが表れています。
おわりに―本当に絵画は写真と競合したのか?
ドミニク・アングル《ドーソンヴィル伯爵夫人》
実物をリアルに描くのが絵画だった時代から、絵画にしかできない表現を追求する時代への変化を、写真の発達に反射させて紹介してきました。もちろん写真が絵画史のすべてを動かしたわけではないので、見方のひとつとして楽しんでいただけたら幸いです。
キュビスムや抽象絵画が「絵画ならでは」の表現をしているのは、違和感なく受け入れてもらえると思います。では、印象派以前のリアリティが求められた時代の絵画はどうか…?注意深く見ていくと、実は彼らも絵画で嘘をつきまくっていました。
ヤン・ブリューゲル (父)《花》
16世紀フランドルの画家ヤン・ブリューゲル(父)は花瓶から溢れんばかりの花を描きましたが、それにしては花瓶が浅くないですか?現実を誇張して花を多く描いたか、花瓶を小さく描いたか、どちらかのように見えます。
パルミジャニーノ《長い首の聖母》
16世紀のイタリアでは、ミケランジェロやパルミジャニーノが人体を極端にひねったり引き延ばしたりした作品を制作。「マニエリスム」と呼ばれる芸術傾向で、作品の見栄えを優先し、現実にはありえないポーズやプロポーションを採用しました。
一見、写真のようなリアリティをもって描かれた絵画でも、大なり小なり脚色されているものです。絵画はもとから自由や個性を解放されたがっており、写真の登場が解放のきっかけとなった…と考えると、写真は絵画の発展にとって脅威ではなく、必要なライバルだったのかもしれません。
【番外編】ゴッホよりピカソより…
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》
お笑い芸人・永野さんの「ゴッホ/ピカソより普通にラッセンが好き」というネタが大好きです。「普通に」という副詞が良いし、その気持ち、私もすごくわかるんですよ…!
これまで見てきたように、西洋絵画は1000年以上かけて守備範囲を拡張してきました。ゴッホやピカソが「良い」とされているのは、歴史の積み重ねのなかで重要な画家と評価されている、という意味です。個人の「普通に好き」という感覚は、皆無とは言えないですがかなり薄まっています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》
「好き」と「評価」は別物…ということで、あえて「好き」に注目してみましょう。私たちはラッセンが描くような写真寄りの絵画も好ましく感じるし、人によってはゴッホやピカソより響くかも?
毎日写真を撮ったり見たりしている現代人でも、絵画に写真的な要素を求めることがある…。これは面白い傾向ではないでしょうか?作品を見る人のセンサーは、絵画か写真かといった形より、「好き」に敏感なのかもしれません。