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#5 仏教の「システム変更」――佐々木 閑さんが読む、『般若心経』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#5 仏教の「システム変更」――佐々木 閑さんが読む、『般若心経』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

佐々木 閑さんによる、『般若心経』読み解き

「見えない力」を味方にする――。

日本人にとって最もなじみの深いお経といえる『般若心経』。その実体は、「釈迦の仏教」を乗り越え、自らが仏へと至る“神秘力”を得るための重要なファクターだった――。

『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』では、「空」とは何か、「色即是空」の意味とは何か? わずか262文字の言葉に、般若経の神髄を表したとされる“呪文経典”の全貌を、佐々木閑さんが解説していきます。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第5回/全6回)

第4回はこちら

ブッダを目指すための様々なアイデア

 もし私たちがブッダになろうと思ったら大変なことになります。まずとにかく、ブッダに会って、その面前で「私もあなた様のようなブッダになるよう努力することを誓います」という誓いを立てます。するとそのブッダが「わかった。お前も将来、きっとブッダになるであろう」という太鼓判を捺してくれます。この手続きが終わって初めて、私たちは正式なブッダ候補生となり、ブッダになるための修行の道に足を踏み入れることができるのです。このようなブッダ候補生のことを菩薩と呼びます。

 では、どうやったらブッダに会って、誓いの儀式を行うことができるのでしょうか。今の世の中、どこを見てもブッダはいません。二千五百年前に釈迦が入滅して、それからはブッダなしの世の中です。次のブッダになる予定の人は弥勒(みろく)というお方ですが、これは五十億年ほど待たないと現れてきません。したがって、結局のところ、今のわれわれがブッダに会うことのできる可能性はゼロです。だからこそ私たちは、ブッダではなく阿羅漢の道を進むのだ、ということになるわけです。

 俗世を捨てて出家するという大決断が必要で、しかもそうしたからといって自分が釈迦と同じようなブッダになれるわけでもない。「釈迦の仏教」は実に清らかで堅実な教えですが、その分、こういった厳しい条件を受け入れねばならないのです。

 新たに登場した大乗仏教は、こういった関門を乗り越えるためのアイデアを次々に生み出しました。

 まず、在家のままでも悟りに近づくことはできるとしました。在家生活の中で、人としての善い行いを続けていけば、それがたとえ仏道修行のような特別な道でなくても、ブッダになるためのエネルギーとして役に立つ、と主張したのです。

 また、ブッダに会えない時代に生まれてしまった私たちが、ブッダの前で誓いを立てて菩薩の道に入ることのできる方法も考案されました。「釈迦の仏教」で、修行者がいくら頑張ってもブッダになれないのは、誓いを立てるべきブッダに会えないからです。ブッダが世に現れるのは何十億年に一度、という状況で、たまたまブッダに出会うチャンスなどほとんどありません。

 そこでこの問題を解決するため大乗仏教では、「この世は一つではない」というアイデアを生み出しました。すなわち、“パラレルワールド”のように並行する世界が無数にあって、そのそれぞれにブッダがいると想定したのです。すると、こちらの世界にブッダがいなくても、どこか別の世界には今現在ブッダが存在していることになって、ブッダに会える確率は格段に上がります。また、それぞれのブッダの寿命もぐっと伸ばしてついには「死なないブッダ」さえ登場しました。これによって、今現在、この世に存在しているブッダの数は急激に増えることになりました。大乗仏教では、「仏」とか「如来」と名のつく聖者(釈迦、阿弥陀(あみだ)、薬師(やくし)、大日(だいにち)など)や、「菩薩」と名の付くブッダ候補生(観音、文殊(もんじゅ)、普賢(ふげん)、地蔵(じぞう)など)が数多く活躍しますが、それは、今述べたような並行世界へのシステム変更が行われたからなのです(なお、「仏」も「如来」も「ブッダ」のことです)。

 それだけではありません。大乗仏教ではブッダの数を増やしたうえに、そのブッダに会うための工夫もこらしました。たとえば、浄土信仰という系統では「極楽」という別世界をもうけ、そこには阿弥陀如来というブッダがいつでもいることにしました。つまり極楽に往生すれば必ずブッダに会え、誓いを立て、自分自身がブッダになる道を歩みはじめることができます。こうして極楽は人々にとってたいへんな憧れの場所となったのです。

 『般若心経』を生み出した、いわゆる「般若経」系統の大乗仏教では、この浄土信仰とはまた別の道を考えました。「般若経」を読んで「何か心に感じ入るところ」があれば、それはその人が、過去の世ですでにブッダに会い、誓いを立てたことがあるという証拠だ、というのです。本人に自覚がないのは単に忘れているだけであって「般若経」に反応した以上は、自覚がなくても間違いなく過去の世でブッダに会っているのである、というのです。つまり、「般若経」というお経にどれだけ深く感動するかがブッダになれるかなれないかの分かれ道になったのです。

 このようにして大乗仏教の創始者たちは、できるだけ多くの人が自分たちに帰依(きえ)してくれるよう、教義の間口を広げ、在家・出家を問わず、どんな人でも簡単にブッダを目指すことのできる道を様々に考案していきました。このあたりのアイデアはじつに発想豊かでユニークです。

 仏教がインドから中国へと伝わったのは紀元後一、二世紀以降ですが、そのときにはすでに大乗仏教もインドで生まれていました。「釈迦の仏教」と、それに加えて多種多様な大乗仏教が同じ「仏教」の名を名乗っていちどきにやってきたので、中国の人たちはとまどいました。「これが同じ宗教か?」と驚いたのです。そして、迷った末に「釈迦の仏教」ではなく大乗仏教の方を採りました。その理由は、大乗仏教のほうが寛容で万民を救済してくれる心やさしい教えだと考えたからです。

 たしかに「釈迦の仏教」は首尾一貫していて潔いけれども、厳しいところがあります。こうして中国は大乗仏教の国となり、その中国を経由して仏教が伝わった日本もまた完全な大乗仏教の国となったのです。

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著者

佐々木 閑(ささき・しずか)
花園大学文学部仏教学科教授。文学博士。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版)、『日々是修行』(ちくま新書)、『NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば』、『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』(NHK出版)、など。翻訳に鈴木大拙著『大乗仏教概論』(岩波書店)などがある
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■「100分de名著ブックス 般若心経」(佐々木 閑著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。

*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年1月に放送された「般若心経」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「「私とはなにか」を再考する」などを収載したものです。

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