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あの「大阪万博」。55年前に開催された日本万国博覧会はどんな規模の、どんな催しだったのか?

NHK出版デジタルマガジン

あの「大阪万博」。55年前に開催された日本万国博覧会はどんな規模の、どんな催しだったのか?

 2025年は「昭和100年」×「放送100年」の年です。その記念の年に、『昭和100年×放送100年 音声と写真でよみがえる昭和』3巻シリーズが発売になります。「歴史探偵」半藤一利の遺志を継ぐ昭和史研究の泰斗・保阪正康が、昭和元年から64年までを元NHKアナウンサー村島章惠(あきよし)と対話形式で解説したNHKラジオ深夜便「保阪正康と語る『昭和史を味わう』」。およそ三年にわたって放送された人気企画の待望の書籍化です。

「昭和は、日本人の国民的遺産、人類史の見本市である」(保阪正康)

 貴重な写真やイラストが満載で、NHKに残された音声をQRコードで聴きながら読める。唯一無二の「昭和の全歴史を追体験する」驚きのシリーズ第3弾『戦後編』より今回は日本万国博覧会(昭和45年、1970年)について、特別公開します。
※本記事用に一部再構成しています

『昭和100年×放送100年 音声と写真でよみがえる昭和 戦後編』

日本万国博覧会とその時代

入場者数、六千四百二十一万人

村島 昭和四十五年、一九七〇年に日本万国博覧会、通称「大阪万博」が開かれたわけですね。今回のメインテーマでもありますが、大阪万博は、どんな規模の、どんな催しだったのでしょうか。
保阪 東京オリンピックもそうでしたけれど、大阪万博は万国博史上でもっとも規模が大きく、もっとも多くの国が参加し、そしてもっとも多くの人たちが見学に駆けつけた記録的な万国博覧会でした。昭和四十五年三月十五日から九月十三日の百八十三日間にわたり、大阪の千里丘陵(せんりきゅうりょう)を会場にして開かれました。基本テーマは「人類の進歩と調和」で、人類がこの段階でどの程度の科学技術をもっているか、各国にはそれぞれどのような伝統と芸能があり、どのような産業構造のもとでいかなる生活をしているのかを展示という形で示すのが狙ねらいでした。これに参加した国は七十七か国、パビリオンは外国関係が八十三、国内関係が三十二に及びました。
村島 戦後二十五年の節目の、最大のお祭りということになるわけですね。

昭和四十五年三月十五日から九月十三日にかけて、六千四百万人以上が訪れたといわれる日本万国博覧会(大阪万博)の会場全景(ジャパンアーカイブズ)

保阪 そうですね。アメリカ館には、先ほど紹介したアポロ計画でアームストロング船長がもち帰った「月の石」が展示されていました。
村島 ソ連は何を展示したのですか。
保阪 ソ連は実際の宇宙船をそのまま展示するなど、まさに二大強国が宇宙時代の到来を人々に見せつけましたね。私も六か月の間に三回見に行きました。アメリカ館は並んでも四時間待ちとか五時間待ちで、そこまで並ぶことができなくて、結局「月の石」は見ることができませんでした。それだけ日本人の関心も高かったのでしょうね。
村島 見られたとしても、ほんのチラリとしか見られないでしょうけれど。その万博の様子をまとめた当時の放送がありますので映像と音声でご覧ください。

 史上最大のお祭り、日本万国博は春浅い三月、華やかに幕を開けました。百八十三日間の会期中、会場は人々のたくましいエネルギーで満ちあふれました。日本の北から南から、そして世界の国々から。老人クラブも農協さんも、ひと目万国博を見ようと詰めかけました。
 人類の進歩と調和を謳うたう七十七か国、百十六のパビリオンのなかで、一番人気を集めたのはアメリカ館。アポロ、月の石、人類の技術が生み出した勝利の姿を目の当たりにして、人々は驚きを隠しきれませんでした。
 七十四億円をかけた日本館、ここでも、未来の明るい夢を描いた展示が人気を集めました。しかし、この日本館を含めて、展示の内容が進歩に傾きすぎ、調和を忘れていたという批判が一部にありました。
 万国博は、また、肌の色を超えた民族の交歓の舞台でもありました。東の国、そして西の国、民族の宴は、平和の美しさを教えてくれました。
 楽しさが人を呼び、人が人を呼んで閉会間際にはたたみ一畳に四人という超満員。コンピューターも予測できなかった混雑に、運営の手違いも加わって、調和はもっぱら観客に求められました。ときに「残酷博(ざんこくはく)」と呼ばれながらも、観客の数はその後も増え続け、ついに六千四百万人という新記録を残して、日本万国博は九月中旬、幕を閉じました。

▼万博の様子をまとめた当時の放送
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030098_00000

村島 アメリカの月の石が人気があったということですけれど、ソビエト連邦では、宇宙船の内部をそのまま展示したということですね。
保阪 そうですね。そのまま展示してあって、私はこれは見ました。宇宙船のメカニズムはこういうふうになっているのかと、機械がシステマティックに結びついてできあがっているコンピュータの時代を感じましたね。
村島 他のパビリオンも混んでいたのですか。
保阪 人気のパビリオンは、連日見学者が列を成して、二時間半から三時間は待つ状態でした。そのために、万博の期間中は早朝から見学者の波が最寄りの駅から続いていました。日本社会がまさに「万博ブーム」でしたね。好景気に支えられていた日本の民間企業も独自にパビリオンをつくって、大手家電メーカーや食品メーカーなど二十八社が自社製品を中心に、人類の未来をわかりやすく展示しました。とくに、三井(みつい)、三菱(みつびし)、住友(すみとも)などの企業グループが、総合力を結集して人々の目を惹きつけていましたね。
村島 日本の誇る技術力を見せたということですね。また、当時の有名な建築家が何人もかかわっていました。
保阪 そうですね、技術力と同時に、日本人による芸術の高さを知らしめることにもなったと思います。万博会場の全体的な計画を担当したのは丹下健三(たんげけんぞう)で、丹下のもとに集まった黒川紀章(くろかわきしょう)などの若手建築家たちとの総意でつくりあげたのです。その評価が世界的に高かったのは、この人たちの建築技術とプランニングのレベルが相当高かったということなのでしょう。また、それぞれがその才を競い、伝統と前衛を組み合わせた会場を完成させて訪れた者たちを驚かせたのです。
村島 そしてその会場のシンボルが、高さ七十メートルの「太陽の塔」、作者はいわずとしれた岡本太郎(おかもとたろう)です。「芸術は爆発だ」の言葉でも有名ですね。
保阪 「太陽の塔」は岡本の野心作でもありました。総合プロデューサーの役を担った岡本でしたが、その前衛的な芸術の姿勢に「あなたの作品はどうも理解できない」と万国博覧会協会の官僚たちと相容れぬ面もあって、身を退いたという一件もあったようです。ただ、この人の「太陽の塔」は、大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」をいちばん象徴的に表していたのではないかと思います。
村島 いまでも、大阪万博というと「太陽の塔」という印象ですね。このとき、三月十四日の開会式のとき、宮田輝(みやたてる)アナウンサーが岡本太郎と丹下健三にインタビューをしています。それを引用します。

昭和四十五年大阪万博の象徴となった「太陽の塔」。半世紀以上の時を経てなお圧倒的な存在感を示している

宮田 岡本太郎さんと丹下健三さん。いやあ、よかったですね。このお天気。
岡本 何とかしようと思って天気にしたんです。
宮田 天気にしたって、あそこに「太陽の塔」というのがありますから、それはもう、夕べ、岡本太郎さんに祈りたい気持ちでしたよ。
岡本 だから僕は、昨日、ずいぶん苦労して、今日、天気になるように連絡しておいたんだけど。
宮田 連絡なさったと。そうですか。丹下さん、いかがですか。今日のこの朝を迎えまして。だいたい整ったようですけれども。
丹下 本当に、私たちも、これを考えます場合に、五千万人の人が入ってくると、そこには、二、三百万の人が外国からやって来ると。そういった、本当に感動し合えるような環境をつくろうというのが私たちの考えですから。やはりこれだけ人が入ってくると、全体、非常に生き生きとしてくるような感じがいたしますね。
宮田 「太陽の塔」が、本当に今日はうれしそうに。
岡本 昨日まで大雪だったのに、バーッとこんなに日が出てきてね。楽しいですね。
宮田 本当にこれは、「太陽の塔」の功徳でしょうね。

村島 三月十四日の開会式当日の、岡本太郎と丹下健三の話でした。保阪さんご自身、三回行かれたそうですが、全体的な感想としてはいかがでしょうか。
保阪 先ほどのインタビューで丹下健三がいっているように、当初の入場者数は五千万人と見積もられていました。ところが、実際には六千四百二十一万人に達しています。万国博覧会協会の資料によると、このうち外国人は約百七十万人。一日の入場者の最高数字は、閉会の一週間ほど前の九月五日の約八十三万人です。また、収支的にも、およそ百六十五億円の黒字だったのだそうです。
 こう見てくるとわかるように、大阪万博は当時の日本の姿をありのままに映していたのではないでしょうか。日本社会は一つの目標を定めると実にまじめに、そして脇目もふらずに進んで、その目標を達成してしまう。ここでも確かに、「万博反対」「万博公害」などの声がありましたが、そうした声は多数派にはなりませんでした。とにかくこのときの日本社会は、人類が進歩することのほうに、すべてのエネルギーを傾けたのです。

こちらの記事もあわせてお読みください。

保阪正康(ほさか まさやす)著

1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。個人誌「昭和史講座」の刊行により菊池寛賞、『ナショナリズムの昭和』で和辻哲郎文化賞など受賞多数。

村島章惠(むらしま・あきよし) 聞き手

1948年、東京都生まれ。元NHKアナウンサー。慶應義塾大学法学部卒。72年にNHK入局。2008年退局後はNHKディレクターとして「ラジオ深夜便」などを担当し、現在もラジオ第2放送のNHKカルチャーラジオ「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」の番組制作に携わる。

ヘッダーイラスト:紙谷俊平
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『戦前編』・『戦中・占領期編』好評発売中

序 なぜ、今、「昭和」なのか
第一章 震災復興と金融恐慌で始まった昭和
第二章 昭和初期の農村の苦境
第三章 昭和初期の都市圏、二つの顔
第四章 昭和初期の子どもたちの暮らし
第五章 満洲事変と軍部の暴走
第六章 『昭和天皇実録』を読む 1
第七章 『昭和天皇実録』を読む 2
第八章 国際連盟脱退以降の国際関係
第九章 戦前の正月風景
第十章 泥沼化していった日中戦争
第十一章 日米開戦への道

第一章 太平洋戦争下の勤労動員、学童疎開
第二章 戦時下の一般兵士の実像
第三章 特攻隊と太平洋戦争の本質
第四章 戦争末期の庶民の本音とその暮らし
第五章 終戦の日はいつ?
第六章 昭和天皇とマッカーサーの出会い
第七章 新しい教育制度「六・三・三・四制」
第八章 日本国憲法の公布
第九章 昭和天皇の全国巡幸
第十章 東京裁判
第十一章 占領期のベストセラー

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