第27回【私を映画に連れてって!】映画女優「薬師丸ひろ子」と「原田知世」との運命的な巡り合い
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
これまで関わってきた映画で、特に、貴重な出会いとなった女優は、薬師丸ひろ子さんと原田知世さんだ。
フジテレビに入社して、いきなり『南極物語』(1983公開/蔵原惟繕監督)に関わることになった当初、高倉健さんの名前と薬師丸ひろ子さんの名前がキャストとして挙がっていた。
すでに角川映画『野性の証明』(1978)、『翔んだカップル』(1980)で大スターだった彼女は『探偵物語』(1983/根岸吉太郎監督)の主演女優として、我らの『南極物語』との夏休み映画対決となる。因みに、『探偵物語』の併映は原田知世主演の『時をかける少女』(1983/大林宣彦監督)。当時は最強の2本立てで、製作発表段階から角川春樹さんは「日本映画の興行記録を塗り替える!」(それまでの記録は『影武者』の配収25億円)と。
『南極物語』より1週間早く公開(1983/7/16)され、スタートダッシュ良く、記録更新が確実視され、結果は配収28億円で日本一のはずだった。ところがダークホースだった『南極物語』(7/23公開)が8月に入り、〝ファミリー映画〟になり、一気に抜き去り、配収60億円弱(興行収入換算では100円億以上)の大ヒットになった。
『南極物語』の製作発表時に製作指揮の鹿内春雄さんが「目標配収は15億円位で言おうかな」と言うのを周りが「角川2本立てが《影武者を抜く!》と言っているので、こちらも25億円以上! にした方が……」という様なこともあったのか、翌日のスポーツ紙には「目標配収25億円」と載った。角川春樹さんにとっては『犬神家の一族』(1976)以来、段階を踏んだ上での日本一宣言、ただフジテレビにとっては初体験のようなもので数字のことは付け焼き刃的ではあったが、「フジテレビ開局25周年記念映画」としたので「25」はちょうどピッタリだったのか……。
思えば、その後、角川春樹さんにとっての日本一への再チャレンジが『天と地と』(1990)であった。『南極物語』の数倍の50億円以上の製作費をかけ、自ら監督したが配収50億円強に終わり、『南極物語』には届かなかった。
『天と地と』は東宝配給で発表された。しかし、配給(劇場)歩率などお金の取り分に関わる交渉が決裂し、公開1年前の土壇場で東映配給に変更。変な巡りあわせだが、東宝の夏休みチェーンが空いてしまい、結果、穴埋めの如く? 自分にお鉢が待ってきて急遽、1週間程度で企画書を書いたのが『タスマニア物語』(1990)だ。皮肉ではないが、元角川春樹事務所の薬師丸ひろ子さんに出演してもらった。
▲1990年7月21日公開の映画『タスマニア物語』は、90年の邦画配収2位のヒット作となった。『鉄道員(ぽっぽや)』『あなたへ』の降旗康男がメガホンをとり、脚本をテレビドラマ「闇の狩人」やNHK大河ドラマ「義経」の金子成人が手がけ、音楽を担当したのは『となりのトトロ』『君たちはどう生きるか』の久石譲。薬師丸ひろ子、田中邦衛のほか、根津甚八、緒形直人、小林桂樹、加藤治子、富司純子らも出演。
薬師丸さんと初めて話したのは、彼女が主演の『野蛮人のように』(1985/川島透監督/東映製作)のときだったか。『チ・ン・ピ・ラ』(1984)、『CHECKERS IN TANTANたぬき』(1985)をご一緒した川島透監督への応援? で、フジテレビで特番を作ることになりぼくが担当になった。ただ、この時、彼女は大スター映画俳優であり、こちらは番組のプロデューサーで、何か話した記憶は全くない。
映画プロデューサーの伊地智啓さんとはこの頃出会い、その後『ジュリエットゲーム』(1989/鴻上尚史初監督)などでご一緒した敬愛する大先輩だ。『翔んだカップル』『セーラー服と機関銃』『探偵物語』『野蛮人のように』など薬師丸主演映画のほとんどは伊地智プロデューサーが制作してきた(角川映画の製作指揮は角川春樹さん)。
ある日、伊地智プロデューサーから、キャピタル東急ホテルの「ORIGAMI」で薬師丸ひろ子に会ってくれないか、と。
薬師丸ひろ子が角川春樹事務所を辞めたのは1985年3月。『野蛮人のように』が独立後最初の映画だ。その後、何本かの映画に主演するが10代時のアイドル人気は無くなっていき、「女優」として勝負しないと、という時期だった。しかも、基本はテレビドラマには出演しない。舞台にも出ないので映画だけだ。
『レディ!レディREADY!LADY』(1989)の撮影前に、「ORIGAMI」で3人で会った。薬師丸さんときちんと話すのは初めてだろうか。伊地智プロデューサーの最初の一言が忘れられない。「河井さん、彼女が角川事務所を離れた後も自分としては相応しい映画を企画してきたんだが、ヒット作を出せずちょっと限界を感じている」云々とストレートな御発言。そして「彼女に相応しいヒット映画をやってもらえないか……」と。本人の前で話す伊地智さんは「愛」の人だ。
ぼくは『私をスキーに連れてって』(1987)が話題になり、「シネスイッチ銀座」(1987)を立ち上げ、『木村家の人びと』(1988)、『ジュリエットゲーム』(1989)がヒットしていた頃である。
『木村家の人びと』で一緒だった桃井かおりさんが共演でもあり、撮影中の『レディ!レディREADY!LADY』の日活撮影所を訪ねた。桃井さんには連絡しないで行ったので「河井さん! 来てくれたの!」と言われたが、現場なので薬師丸さんとは多くは話せなかった(桃井さんとは色々話せたが……)。この映画は元々、小さい規模の公開映画でもあり厳しい興行成績になり、アイドル時代からの、薬師丸ひろ子=ヒット映画の、ひとまずの終焉となったと言える。
ぼくは1988年の6月に悪性腫瘍で東京女子医科大学付属病院に入院。それから5年間は抗がん剤などを投与しながらの入退院の生活だったが、「ORIGAMI」で薬師丸さんに会ったのはこの間である。女子医科大病院であることが『病院へ行こう』(1990/滝田洋二郎監督)を生んだとも言える。最初に担当の研修医の顔を見た時に「薬師丸ひろ子に似てる!?」と。即座にストーリーをベッド上で書いた。
▲1990年4月7日公開の映画『病院へ行こう』は、筆者が悪性腫瘍で入院した際の体験をもとに、ある大学病院での医師と患者、それに携わる人々の人間ドラマを描いたコメディで、映画プロデューサーとして筆者が初めて〝映画女優〟薬師丸ひろ子と組んだ映画である。監督を『木村家の人びと』『おくりびと』の滝田洋二郎、脚本を『私をスキーに連れてって』『波の数だけ抱きしめて』の一色伸幸が手がけた。薬師丸ひろ子のほか、真田広之、大地康雄、尾美としのり、伊原剛志、ベンガルらが出演。
彼女は家族中心で事務所を運営していたので、内容の話はほとんど二人でした。『レディ!レディREADY!LADY』の翌年に『病院へ行こう』に主演してもらい全国公開し、ヒットした。この映画のために入院したような気にもなった。
その後も毎週のように映画の企画の話をして、立て続けに4本の映画に出演してもらった。『タスマニア物語』(1990/降旗康男監督)、『きらきらひかる』(1992/松岡錠司監督)、『ナースコール』(1993/長崎俊一監督)。すべて映画監督との仕事になった。
その後、テレビドラマや、舞台、歌手でも大活躍だが、僕にとっては、やはり「映画女優」である。
▲1991年に江國香織が発表し、紫式部文学賞を受賞した小説を『バタアシ金魚』『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の松岡錠司監督で映画化した『きらきらひかる』。公開は92年10月24日。アルコール依存症気味の妻(薬師丸ひろ子)と同性愛者の夫(豊川悦司)、そして夫の恋人(筒井道隆)という3人の奇妙な三角関係を描いた作品で、豊川の役名が睦月(むつき)、筒井の役名が紺(こん)と、役名の響きからもなんだか今で言うBLの少女漫画を思わせる登場人物のような印象を抱いた覚えがある。松岡監督はシカゴ国際映画祭ゴールド・ヒューゴー賞を、薬師丸は高崎映画祭で最優秀主演女優賞を、筒井は同じく高崎映画祭で最優秀助演男優賞を、豊川は日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞している。加賀まりこ、川津祐介、津川雅彦も出演。
原田知世さんとは角川春樹事務所にいた間は面識もなかった。
『私をスキーに連れてって』(1987/馬場康夫監督)のキャスティングで初めてその名前が出たと記憶している。この企画は、映画、というよりマーケティング企画のようなスタートだった。ホイチョイプロダクションの皆さんのスキーに対する愛やこだわりが強いのは理解しつつ、最初はメジャー映画になる気がしなかった。
それもあったのか、ぼくがそれまで一緒に仕事をしてきた映画人、たとえば編集の冨田功さん。彼とは20本近い映画を一緒にやった恩人である(僕と同世代だが2002年に45歳で亡くなってしまった)。馬場康夫さん自らが初めて監督をやることになり、意識的に周りを映画人で固めたような形になった。キャストもドラマにメインで出ている人よりも映画寄りの俳優をと、そこで出会うのが原田知世さんと三上博史さんである。
ただ、この1987年の積雪が異常でなければ、この2人の共演はなかった。
なぜなら1~2月に、本来は撮影を予定していたからである。原田さんは1986年に事務所を辞めたことになっているが、新たな形の事務所で仕事がスタートできるのは1987年4月1日以降に設定されていた。つまり、予定通り1月までに例年のように積雪があれば、撮影は「冬」のはずである。この問題は映画撮影そのものをやるのか、やめるのか延期するのか……の大議論にもなった。3月に撮影開始でも原田さんは参加できない状態だった。しかもスキーシーズンの基本は3~4月までで4月クランクインは無いだろうと……。
結局、遅れて2月になりやっと雪が降った。急いで準備したが、クランクインは奥志賀で4月に入ってからになり、無事に? 原田知世さんが出演できることになった。降雪が遅れたため、このスケジュールになってしまった、とも考えるし、そのおかげで原田知世さんが参加できることになった……とも言える。これはやはり何かの巡り合わせなのだろう。お陰で、ぼくも初プロデューサー作品で、話題作にもなった。ヒロインの原田さんは役柄もピッタリはまって素敵だった。
▲1987年11月21日公開の、ホイチョイ・プロダクション三部作の第1作『私をスキーに連れてって』。主演の原田知世は83年の『時をかける少女』の主役でスクリーン・デビューし、日本アカデミー賞はじめ各映画祭の新人賞を受賞し、薬師丸ひろ子、渡辺典子とともに〝角川三人娘〟の末っ娘としてアイドル的人気を誇った。三上博史、原田貴和子(知世の実姉)、沖田浩之、布施博、高橋ひとみらに加え田中邦衛も出演している。「サーフ天国、スキー天国」をはじめ、「恋人がサンタクロース」「BLIZZARD」などユーミン(松任谷由実)の曲が挿入歌として使われ、大人気映画となった。80年代のスキーブームを牽引した映画としても語られる。
最初から「遊びの三部作」予定で「スキー」「海」「車」というようなアイデアで、2作目の『彼女が水着にきがえたら』(1989)にも出演してもらった。三上博史さんは1作目でフェードアウトしたものの、オーディションで選んだ織田裕二さんがここからブレイクし、大スターになっていく。
3作目『波の数だけ抱きしめて』(1991)は「車メイン企画」とは変わってしまったが、恋愛ドラマとしては良い脚本も出来、本来は「原田知世&織田裕二」の予定だった。
▲ホイチョイ・プロダクション三部作の第2作『彼女が水着にきがえたら』が公開されたのは1989年6月10日だった。前作に続き原田知世が主役を務め、相手役には織田裕二が選ばれた。オーディションには江口洋介、吉田栄作、椎名桔平らも参加していたときく。前作のウインタースポーツから、本作ではマリンスポーツがテーマになっている。主題歌はサザンオールスターズ「さよならベイビー」で、挿入歌としても「ミス・ブランニュー・デイ」「C調言葉に御用心」など、サザンの曲が全編を飾っている。企業タイアップも非常に多く、バブル景気絶頂期の作品だった。
馬場監督にとっては「原田知世三部作」でもある。
ここは残念ながら、プロデューサーのぼくと、事務所とのコミュニケーションの問題で原田さんの出演が出来なくなってしまった。痛恨の極みである。馬場監督にも申し訳なかった。奇しくも最後の打ち合わせは原田さん、マネージャー、そしてぼくの3人で「ORIGAMI」だった。原田さんも複雑な心境だったと察するが理解はしてもらった。
これも縁だが『波の数だけ抱きしめて』は中山美穂さん主演で、3部作で一番ヒットした。結局「原田知世×三上博史」「原田知世×織田裕二」「中山美穂×織田裕二」と、こちらの意図せぬ形で、3作は違うカップルストーリーになった。ただ、ここでの中山美穂さんとの出会いがなければ『Love Letter』(1995岩井俊二監督)もなかったことを思うと、出会いには感謝である。
原田さんにはその後『水の旅人 侍KIDS』(1993/大林宣彦監督)にも出演してもらった。
▲1993年7月17日公開の『水の旅人 侍KIDS』。監督は『時をかける少女』『異人たちとの夏』の大林宣彦で、脚本は原作者の末谷真澄が手がけている。音楽を久石譲が担当し演奏はロンドン交響楽団によるスケールの大きな音楽だった。主題歌「あなたなら…」を中山美穂が歌った。主役の山﨑努のほか、当時15歳の六代目尾上丑之助時代の八代目尾上菊五郎、風吹ジュン、岸部一徳、そして原田知世も出演している。
彼女は映画、テレビドラマ、そして歌手としても大活躍中である。
それでも僕の中では、やはり「映画女優」である。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。