西永福散歩【駅ぶら】06京王電鉄431 井の頭線62
※2024年3月撮影
トップ画像は「西永福駅」北口から歩いて5分ほど。マップに「浜田稲荷大明神」と表示されている場所に来ました。
御眷属のキツネ様が守っているので稲荷神社です。しかしお社には神額など見当たりません。
※2024年3月撮影
ふだんはお社中の写真を撮ることはないのですが、神様にご挨拶した後、お許しください、と申し上げながら内部の写真を撮りました。
※2024年3月撮影
提灯は「浜田山稲荷」ですが神額は「正一位濱田稲荷大明神」となっています。こちらも御眷属のキツネ様が守っています。
同じ道を駅まで引き返します。吉祥寺側の踏切から「西永福駅」ホーム。
※2024年3月撮影
駅前通りを「井の頭通り」の方に歩いていると商店街の左側に法華宗の理性寺(りしょうじ)があります。
※2024年3月撮影
入口に立つ石塔。達筆過ぎて読めませんが「寛政元己酉歳七月二日建立」と刻まれています。
※2024年3月撮影
天明の大飢饉で改元された寛政元年は1789年。そして7月と言えば、正にパリで民衆がバスティーユ牢獄を襲撃、フランス革命が始まった瞬間でした。
理性寺山門。
※2024年3月撮影
山門脇に杉並区教育委員会の案内板があります。記載内容は以下です。
「当寺は法真山理性寺という法華宗の寺院で、本尊は十界諸尊の曼荼羅です。
「御府内備考続編」によれば、当寺は承応3(1654)年、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当夫妻を開基として、その菩提のために開創したものです。
寺名は、夫妻の法名、法真院殿・理性院殿にちなんで法真山理性寺としました。
開創にあたっては、内藤新宿四谷大木戸(現・新宿区新宿一丁目付近)に、大久保家下屋敷の名義をもって草創し、後に老中久世大和守広之の許可により、境内地として使用することになったと伝えられています。現在地に移転したのは大正3(1914)年です。
境内の左手には大黒殿があり、中には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ約12センチメートルの木彫りの小さな大黒天が安置されています。
この大黒天は、日蓮が伊豆配流直前の弘長元(1261)年に彫ったと伝えられる、お題目の「経」の字を形取った大黒天像で、寛政6(1794)年に幕府寄合医師木村検校によって奉納されたものといわれています。「火伏せ」の由来については、当寺が新宿にあったころ、近隣火災の折、大黒天が大団扇をもって現れ、類焼から守ったことによるといわれています。以後、火伏せの守り神として今も、甲子(きのえね)の日に「大黒天甲子祭」がおこなわれています。
墓地には、戯作者伊庭可笑、幕府医官林恒斎、初代杵屋三五郎の墓等があります。
令和6年 杉並区教育委員会」
由緒のある古刹です。
さらに「井の頭通り」の方に北上します。
※2024年3月撮影
左に薬局があります。
※2024年3月撮影
ここは筆者と中学校の3年間同級生だった友人の実家で、現在はその友人が薬剤師をしています。
※2024年3月撮影
保険調剤薬局ですが、友人は漢方薬の処方にも詳しく、漢方薬を用いる処方箋にも対応しています。また漢方薬を使った生活習慣病対策など相談にも応えてくれます。かつてはアメリカン・ファーマシーに勤めていた彼は英語も堪能、漢方に興味のある外国人にも評判が良いそうです。
筆者は中学時代、化粧品も扱っていた彼の実家に来ては、資生堂の「花椿」を毎号もらったり、良い匂いのする美容部員のお姉さん達の周りをウロウロしてました。あな、懐かし。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)