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『ブギウギ』の淡谷のり子のドレスアップと重なる燕尾服、直立不動で歌う「名月赤城山」の東海林太郎には流行歌手の矜持があった

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『ブギウギ』の淡谷のり子のドレスアップと重なる燕尾服、直立不動で歌う「名月赤城山」の東海林太郎には流行歌手の矜持があった

 朝ドラ『ブギウギ』で菊地凛子が演じる茨田りつ子のモデル・淡谷のり子は、戦時中でも変わらず派手なドレス衣装をやめなかった。どんなに批判されようと、「モンペをはいて『別れのブルース』を歌えると思いますか」と啖呵を切り、「これは自分にとっての戦闘服だから」と言って、ゴージャスなドレスのまま歌い続けた。この一幕を観ながら、思い出したのは東海林太郎である。ロイド眼鏡をかけてきっちりと燕尾服を着用しマイクの前では直立不動の姿勢で歌った。東海林太郎にとってもそのスタイルは、〝戦闘服〟だったのではないだろうかと思い至ったのだ。

 リアルな東海林太郎の記憶は昭和30年代のテレビでしか知らないが、ボクは小学生になったばかりの頃で、ニコリともせず歌唱する姿は真剣勝負そのものに映った。1907年(明治40年)青森県生まれの淡谷のり子、1898年(明治31年)秋田県生まれの東海林太郎、東北出身の二人の明治生まれには共通する流行歌手としての矜持があったと思えてならない。昭和前期にデビューし、戦前戦後を生き抜いたプロの歌い手としての信念が〝戦闘服〟となって表出していたに違いない。

 その東海林太郎の数々のヒット曲は、ボクが生まれるはるか前、つまり昭和前半から戦前にリリースされたものばかりだったことに改めて驚かされる。生誕が19世紀末という歌手のヒット曲が、戦後しばらく愛唱されていたのだ。白黒テレビの歌謡番組に出演すると、東海林より6歳下の浪曲好きの明治の父親と、わが家に同居していた父の叔母で、ボクにとっては大叔母にあたるミキおばさんは一緒に見ながら涙を流していた。因みに、東海林太郎のヒット曲は数多いが、いわゆる戦時歌謡(軍歌ではない)の時代が長く続いていた中で、「赤城の子守唄」(33年)の大ヒットに続く「名月赤城山」(作詞:矢島寵児、作曲:菊地博)は別物だったのだろう。映画、浪曲、講談、新国劇、旅芝居などで定番の「国定忠治」を謳い上げた楽曲だった。

「名月赤城山」は、1939年(昭和14)にリリースされている。なぜ、まだこの世に生を享けていないボクの記憶に残る名曲になったのか。想えば、1959年(昭和33)の東映映画『国定忠治』(片岡千恵蔵主演)が、きっかけだったのか。東京北区の十条銀座の路地裏にあった「十条映画劇場」という映画館は大入り満員。粋な啖呵と殺陣に目を見張り、片岡千恵蔵率いる忠治一家がいよいよ追い詰められて、赤城山を去ろうとしている。千恵蔵の低音のかすれた声と息継ぎ、独特の抑揚のある台詞回しで、名刀を月明りにかざす。「俺の生涯の道連れはてめぇだけだなあ」と忠治は松並木のなかを月明りの影となって遠ざかっていく。

 東映時代劇全盛で、大人も子供も最高の娯楽が映画鑑賞という時代だった。満員の場内からスクリーンに向かって、「いよっ! 千恵蔵!」と掛け声が飛ぶ名場面は、すすり泣きさえ聞こえていたのだ。しかし、この時の映画『国定忠治』の名シーンと東海林太郎の楽曲「名月赤城山」が主題歌だったのか、エンディングで流れたのか記憶が定かではない。

 国定忠治と再び三度出会うのは、それから間もなく大衆演劇の「篠原演芸場」だった。館主の息子が中学の同級生という縁もあったが、いわゆる旅芸人、旅役者団が入れ替わりにやって来る演芸場が同じ十条映画劇場から数百メートルといっていい距離にあって(現存している)、頻繁にミキおばさんに連れられて、観劇できたことはラッキーだった。すぐ目の前で役者たちの唾が飛んでくるような席を陣取り茣蓙の上に直に座り込んで舞台を見上げていた。国定忠治といえば、弱気を助け強気をくじく正義の渡世人。舞台狭し大殺陣がしばらく止まない。追手をはらって静寂が来ると忠治は子分たちに向かっての名口上だ。人口に膾炙(かいしゃ)されてきた名文句は廃れない。以下は定番となっている「新国劇」の一部を抜粋。

「赤城の山も今宵かぎり 生まれ故郷の国定村や 縄張りを捨て 可愛い子分のてめえたちとも 別れ別れになるかどでだ」とはじまる名文句とともに赤城山の名シーン。子分が、「雁が鳴いて南の空へ飛んで行かぁ」と言えば、真っ白くドーランを塗った忠治は、「あいつもやっぱり 故郷の空が恋しいんだろう (刀を抜いて垂れ幕に描かれた月光にかざし)加賀の国の住人・小松五郎義兼が鍛えし業物(わざもの)万年溜(まんねんだめ)の雪水に浄めて 俺にゃあ生涯(しょうげえ)てめえという強い味方があったのだ」と見得を切る。まだ追手が迫っている。「親分!」「親分!」呼び掛ける子分たちに別れの目配りをして忠治は右の袖に姿を消す。同時に拍子木がタン、タン、タン、タ、タ、タ…と叩かれて幕が引かれ、東海林太郎の「名月赤城山」が流れる。当時のスピーカーのこと、多少雑音が気になったが、長い前奏があって、男ごころに男が惚れて…あのテノールに近いバリトンの歌唱がしみじみと場内に響き渡る。子ども心にもシンとした気持ちになったことをはっきりと覚えている。ミキおばさんは首に巻いていた手拭いでしきりと顔をふき、舞台に向かって用意していたお捻りを投げた。タバコの箱が投げられ、小さく畳まれたお札がそのまま飛んでいた。嵐のような感動の拍手と掛け声が鳴りやまない。帰りに玩具店で竹の刀をすがって買ってもらい、すっかり忠治になり切って諳んじた赤城山での別れの文句を真似ながら、銀色に塗られた抜身を天に突いたのだった。 

「名月赤城山」と「国定忠治」という浪花節風の昭和流行歌と、先述した燕尾服すがたの東海林太郎とはどう見てもミスマッチだと思っていた。だが、東海林の生き方を振り返れば、奇をてらったわけでもなく歌唱することに真摯に向き合った人だった。音楽の夢を捨てられずに満州から帰国後、基礎となる声楽をしっかりと学んでいることはずっと後で知った。時事新報社主催の「第2回音楽コンクール」の声楽部門で「我恨まず」(ロベルト・シューマン)、仮面舞踏会からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し、入賞するほどの実力だったという。声楽家には燕尾服は制服のはずで、生半可な音楽の道への選択ではなかったのだ。

 その後流行歌手に転じるが、音楽に取り組む姿勢は確固としたものがあった。東海林は「一唱民楽」という言葉を残している。「歌は民のため」という信念を持っており、常に真剣勝負という気持ちで歌唱した。東海林太郎にとってクラシック音楽も流行歌も変わりはなかった。「歌手として、このわたしの立つ一尺四方は道場だ。この舞台はわたしの修養の場だ」と、出身地の秋田県秋田市にある「東海林太郎音楽館」の入り口のパネルに「誇り」と題された東海林太郎自身の言葉が掲げられている。

 歌謡界を牽引していた東海林太郎は、歌手の権利を守ろうと1963年(昭和38年)には任意団体「日本歌手協会」を設立して初代会長に就任、そうした功績に対して1965年(昭和40)紫綬褒章を受章。同協会も60周年を迎えている。

 1951年(昭和26)第1回NHK紅白歌合戦には「赤城かりがね」の歌唱で出場し、1955年(昭和30)第6回NHK紅白歌合戦では「義経の唄」、1956年(昭和31)第7回NHK紅白歌合戦では「赤城の子守唄」、1965年(昭和40)第16回NHK紅白歌合戦も「赤城の子守唄」で出場している。残念ながら紅白において「名月赤城山」の歌唱はなかった。しかし、1965年(昭和40)第7回日本レコード大賞特別賞、1969年(昭和44)勲四等旭日小綬章、1972年(昭和47)NHK放送文化賞。同年、脳内出血によって急死したが、秋の叙勲では勲三等瑞宝章受章、第3回日本歌謡大賞放送音楽特別賞受賞、日本の歌謡界に燦然と輝く足跡を遺した。享年73。

文:村澤次郎 イラスト:山﨑杉夫

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