教授のシトロエンDS19:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#26
先日、ステランティスのメディアサイトにシトロエンDSの70周年を記念する特集記事がアップされた。電子データながら、いかにもフランスのシトロエンという、洒落たデザインの小冊子型の読み物だった。当然のように誌面のデザインも洒落ていて、当時、DSの広報写真や、グラフィック誌のさながらのカタログから抜き出したデザインの図案が用いられていた。電子データの方が書架の場所を取らずに済むので助かるのだが、今回ばかりはちょっといい紙にプリントアウトして保管することにした。
個人的にはシトロエンDSには愛憎半ばした感情を抱いているが、この小冊子を眺めていると、“憎”の文字面は浮かばず、楽しかったDSとの2年間ばかりが思いだされた。
大学3年生の初夏、そこにDSが置かれていなかったら、クルマについての文章を書く仕事に就くことも、ましてや大学での非常勤講師の依頼を受けなかったと思う。
実は、これから書こうとしている駄文は、かつて属していた雑誌でも断片的に記した記憶がある。一種の二番煎じだ。同じような内容、話題を何度も書くのは避けたい、もの書きとして恥ずかしいと思うのではあるが……。はなはだ恥ずかしい内容になるだろうが、この話題の締めとして再度、告白させていただくことにした。
大学3年の春、DS19との運命的な出会いの場は大学構内の工学実験棟前だった。その日、新築工事中の実験棟を覆っていた灰色のフェンスの一部が取り除かれ、忽然とDS19と部品をはぎ取られ、“何台か分”のDSが現れた。
クルマ好きの私ではあったが、日本の路上では稀有なDSを、それもエンジンを晒した姿や、車体のスケルトンを見たのは初めてのことだった。翌日、再びDSが置かれた場所を訪れてみた。そこでは、灰色の繋ぎ服を着た中年男性が体を飲み込まれたかのようにボンネット内に入り込み(巨体な魚に飲み込まれたかのようだった)、なにやら作業中であった。情景は研究棟というよりさながらスクラップヤードであった。
我慢できずに繋ぎ服の男性に声を掛けてみると、機械工学科のI教授であることがわかった。自費で買い集めた1台のDS19と、3台分のDS21と23の不動車であること、さらに「これは道楽ではなく、まあそれもあるが、研究の対象だ」と断じられた。
先生は、1960年代にシトロエンに巡り合う前には、米国車が安価で丈夫であり、自分でも手入れがしやすいからと1950年代のキャディラックやオールズモビルを使われていたそうだ。当時、勤務していた札幌の大学から、学会などで東京に来る際には、札幌・東京の高速ライナーとしての用途に好都合だったという。東北道などなかった悪路での往復だ。
あるとき、いつものようにオールズで上京したおり、オールズが故障したのを機に、縁あってシトロエンAMI6を都内で買い求めたそうだ。その帰路、米国車の1割にも満たない小排気量ながら、その高速ライナーとしての素養に感銘を受け、一気にシトロエンに傾倒したと話された。「そして、こんなことになったのだよ」と愉快そうに笑われた。
私がクルマ好きであると口にすると、「自動車はさまざまな近代工学の集大成であり、また造形美学までを含む人間の英知の結晶のひとつだ」と笑顔を浮かべて話された。さらに、「ハイドロニューマチック・サスペンションは油圧制御機構として素晴らしい例だ。クルマが好きなら、油圧制御機構の解明だけで充分に研究の対象になり得るし、手を油だらけにしてメカに接する喜びもある……」と付け加えられた。
先生の言葉は、それまでの私の人生のなかで最大級の衝撃波となって脳天を直撃した。その時まで、私は惰性に流された “ぐーたら”学生生活を送っていたが、誇張でなく先生のひと言で目が覚めた気がした。それからの行動は私にしては早く、I教授の研究室への所属を願い出た。
これは後の研究室面談で知ったことだが、長く国立大学で教鞭を執っておられた物理学者であり、国立ゆえの堅苦しさが“自身の研究の範囲を狭めている”と考え、自由な雰囲気の私立大学を選んで転じたのだそうだ。確かに、門外漢が見たら道楽にしか見えないシトロエンDSを使った研究など、他大学では眉をひそめられるに違いない。
その時、先生は、著名な医学者でシトロエン通の方から譲り受けた1962年型DS19の修復中で、ハイドロニューマチック・サスペンション全体を、後のDS21型のそれに置き換える作業に没頭していた。意図は、DS19では植物系オイル(LHSなど)を使うが、DS21では鉱物系オイル(LHM)に変更されたことで、システムが劣化する心配がなくなったので、技術的進歩の様子を自分で検証しながら、作業を進めているのだと説明された。
その作業は単にオイルを抜き替えるだけではすまない。車両の隅々まで張り巡らされた油圧配管を取り外し、内部を洗浄し、ジョイント毎に挿入されている多数のゴムシールを鉱物用に交換。さらに一部の部品もDS21のものに交換する必要があった。私も自ら進んでこの作業を手伝うことになった。
もちろんDSの修理は研究活動とは別なので、部品取り車から外した1台分のハイドロシステムを使って、油圧機器について考察することを課題に選んだ。特に着目したのは、前後輪の荷重変化に応じて前後輪のブレーキ力をサスペンションの油圧を用いて配分する弁機構であった。現在のクルマなら、マイコンですべて制御が可能な機構だが、DSでは精密な油圧弁機構とそれを制御する油圧シリンダーを使う機構であった。
書き続ければ切りがないが、例のバネの役目をする窒素ガスを封入した“球体”、スフェアの構造も図面で見ているだけでは気が済まなくなり、そのあたりに何個もゴロゴロしていたこともあり、窒素ガスの圧力を変えてみたあげく、最後には金鋸で真っ二つにしてカットモデルを作ってしまったのは、いい想い出だ。
DS19/21/23改が完成すると、先生と一緒に都内のシトロエン・ディーラーまで、試乗をかねてベテランメカニックにできばえを見せに行った記憶がある。あのスペシャルは不完全だったが、現存しているのかと思う。
その4年の早春に完成した論文は手元にはないが、いま読めば冷汗三斗の貧弱な内容だろう。日々、奇々怪々なシステムを好奇心に背中を押されながら分解し、先生に促されながら、これを考案した技術者の心情をなんとか読み取ろうとしたことだけは読み取れるかもしれない。
先生はたまに作業を確認するために作業場に顔を見せる程度だったが、ある日、ご自身が書かれたという小冊子を手渡された。
その中には、過去に、未来的な“DSにこそ”ロータリーエンジンが相応しいのではないかと考え、東洋工業(現マツダ)製10Aに自ら換装したことが記されていた。まだ、シトロエン自身が2ローターRE搭載のGSビロトールを発表する前のことだ。
だが、換装作業完成後、まもなくして試走中にDSのまま流用したハイドロ系が故障したとき、先生は修理せずに計画自体を断念したという。その理由について小冊子には下記のように述べられている。ここに一部を紹介したい。
「……すでに自己の非を思い知らされて意欲を失っていたのであった。このengineの載せ換えは冒険であるよりも、祖先への、そして神への冒涜であったことを悟ったからである。吾々日本人は、(中略)とかく表面的なdataのみを追求し、dataにならないもの、内在するものを無視し価値である。人間が作ったものである以上、吾々は簡単にそこに到達できると思う。しかし、その技術の原型は人間が何代、何十代に汎って積み上げた経験によって出来上がったものであり、その経験は、人類が正に神から与えられたもろもろの感能を集約させた結晶なのである。この過去の大いなる遺産を無視して、単に形而下の諸相を捉えて事足りるとするならば、それは知能的物まねにすぎない(後略、原文のまま)」
I教授は、脳天気なクルマ好きだった私を、設計者の哲学が可視化できるシトロエンDSに貼り付けることによって、技術者による独創的な発想の重要性を私に学ばせようと考えたのだろう。私は、それ以来、新旧のクルマに接すると、DSで習ったように、それが誕生するに至った社会などの背景や会社の歴史、技術の変遷を常に考えるようになった。
蛇足ながら、それ以降、ハイドロニューマチック・システムを組み込んだシトロエンには仕事以外では触れていない。XMでパリからスペインのヘレスまで走ったのは、私のシトロエン体験でのベストだ。そういえば一度、BX19TRSをショールーム(マツダ系列のユーノス店で扱っていた)に見に行ったが、試乗して在庫も確認したが規約書にサインせずに帰ってきた。その時が新車で購入できた最後の機会でもあったが……、もうお腹いっぱいの感もあったのだろう。