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#5 「大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを捜している」──アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』を読む【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#5 「大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを捜している」──アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』を読む【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

東京外国語大学名誉教授・沼野恭子さんによるアレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』読み解き #5

戦争を「事実」ではなく「感情」で描いた証言文学の金字塔――。

プロパガンダに煽られ、前線で銃を抱えながら、震え、恋をし、歌う乙女たち。戦後もなおトラウマや差別に苦しめられつつ、自らの体験を語るソ連従軍女性たちの証言に寄り添い「生きている文学」として昇華させたのが、ノーベル文学賞作家・アレクシエーヴィチによる『戦争は女の顔をしていない』です。

『NHK「100分de名著」ブックス アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない』では、日本人が「戦争」を自分ごととして考える機会として、ロシア文学研究者であり、東京外国語大学名誉教授の沼野恭子さんが解説します。

2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第5回/全6回)

第1章──証言文学という「かたち」 より

「小さな人間」の声を拾い集めて

『戦争は女の顔をしていない』をはじめとする五部作の証言者に、有名な政治家や軍人はいません。ほとんどすべて市井の人びとです。その人たちをアレクシエーヴィチは「小さな人間」「ちっぽけな人間」と表現しています。

わたしは理解した、大きな思想にはちっぽけな人間が必要なので、大きな人間はいらない。思想にとっては大きな人間というものは余計で、不便なのだ。手がかかりすぎる。わたしは逆にそういう人間を捜している。大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを捜している。虐げられ、踏みつけにされ、侮辱された人たち──

[戦争:一九─二〇]

 アレクシエーヴィチの言う「小さな人間」や「ちっぽけな人間」は、ロシア文学に親しんでいる人ならピンとくるキャラクターです。日本語で言う「小市民」とは少しイメージが違い、社会の中でだれの注意も引かず、だれからも認められず、不当に虐げられ、社会の片隅でひっそり生きている人を指します。プーシキンの『駅長』の主人公サムソン・ヴィリン、ゴーゴリの『外套』の主人公アカーキイ・バシマチキン、そしてドストエフスキーの『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキンもそうです。その意味では、アレクシエーヴィチの文学は、独創的な形式を持ちつつも、内容的にはロシア文学の伝統に根差していると言えそうです。

 数々の作品に登場する「小さな人間」を見ていくと、それぞれ抱えている問題はさまざまですが、どの人も、恵まれない境遇に身を置き、虐げられ、侮辱されているだけでなく、それまで持っていたもの、手にしたものを奪われ、失い、大きな喪失感に苦しんでいるという共通点があることがわかります。そして、アレクシエーヴィチが「小さな人間」と言うときも、この喪失感のニュアンスが含まれているのではないかと思います。

 彼女の証言者たちは一様に、愛する人や家族やよりどころとしていたイデオロギーを失ったり、信じていた神話に裏切られたりして、計り知れないほど大きな喪失感を抱えています。証言者たちは、現代における何百何千ものサムソン・ヴィリン、アカーキイ・バシマチキン、マカール・ジェーヴシキンなのです。

 アレクシエーヴィチは、七〇年代から「小さな人間」の中に喪失感を見ていましたが、一九九一年のソ連崩壊によって、ますますその感触を強めていったのではないでしょうか。よりどころとなるイデオロギーを失った人もいますし、年金などの経済的な支えを絶たれた人もいます。じつに多くの人が、さまざまなものを失いました。それまでの社会主義の呪縛が突然緩んで、「小さな人間」たちは心のバランスを失い、そのうえ弱肉強食の競争社会に適応できず、ぽっかり穴の空いたような空虚で過酷な時代に放り出されたのです。アレクシエーヴィチの五部作を締めくくる『セカンドハンドの時代』は、まさにこうした空虚感と喪失感にさいなまれた「小さな人間」の声の集積と言っていいでしょう。

「小さな人間」の声を拾い集め、配置し、流れを作ることが、作者としてのアレクシエーヴィチの作業でした。ただ、その声は、最初から完成された形で存在しているわけではありません。アレクシエーヴィチが相手との信頼関係を結び、親密な雰囲気の中でさまざまな質問をして、あいまいになってしまった過去の感情に言葉を与える手助けをしたからこそ、生まれた声だっただろうと思います。ですから、アレクシエーヴィチの作品は、著者と証言者による、非常にクリエイティブな共同作業によって作り上げられたのだと私は考えています。

多声性によって描かれる輪郭

 集められた多くの「小さな人間」たちの声が響き合って一つの作品になる。その多声性は、アレクシエーヴィチの五部作を貫く大きな特徴です。

 彼女は、たくさんの人に当たり、同じ人に何度も証言を取りに行ったり、これという話が聞けるまで何時間も粘ったりしています。その声は、バラバラで互いに矛盾していたり、論理的でなかったり、言葉にならない慟哭だったりします。それらをすべて合わせて、彼女は作品を作り上げました。長い証言のどの部分をどこにはめ込むかといった編集は、彼女の腕の見せどころでもありました。その過程を、アレクシエーヴィチ自身は、作曲にたとえています。

 一つひとつの声は音の素材であり、それを集めて構成し、交響曲を作曲していく。その曲は、必ずしも美しいハーモニーだけが鳴り響いているわけではありません。不協和音も聞こえてきます。しかし、その響き合いによって、大きな一つの作品としての輪郭が浮かび上がってくるのです。

「ユートピアの声」五部作は、アレクシエーヴィチが、多声性によって、社会主義とは何だったのか、ソ連とは何だったのかという実像の輪郭を見事に描き出した作品群なのです。

著者

沼野恭子(ぬまの・きょうこ)
ロシア文学研究者、東京外国語大学名誉教授。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業後、東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化単位取得満期退学。専攻はロシアの近現代文学。主な研究テーマは現代ロシア女性文学、日露の文化関係、ロシアの食文化など。主著に『ロシア万華鏡──社会・文学・芸術』(五柳書院)、『夢のありか──「未来の後」のロシア文学』(作品社)、『ロシア文学の食卓』(ちくま文庫)など。共著に『アレクシエーヴィチとの対話──「小さき人々」の声を求めて』(岩波書店)。主な翻訳書にリュドミラ・ウリツカヤ『ソーネチカ』(新潮社)、リュドミラ・ペトルシェフスカヤ『私のいた場所』(河出書房新社)、トゥルゲーネフ『初恋』(光文社新訳文庫)など。
※刊行時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない 人びとの声を紡ぐ』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。

※本書における『戦争は女の顔をしていない』からの引用は三浦みどり訳の岩波現代文庫版(二〇一六年)に拠ります。引用文は上記の底本のものをそのまま示しています。

※本書は、「NHK100分de名著」において、2021年8月に放送された「アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「逆走する歴史」、読書案内などを収載したものです。

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