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大阪にあった幻の都「難波宮」の史跡を歩いてみた 『大阪歴史散歩』

草の実堂

画像:大阪歴史博物館

古代の宮都・難波宮とは

大阪の八軒家浜船着場付近(撮影:高野晃彰)

大阪が「水の都」と呼ばれているのを御存じだろうか?

現在の大阪市の中心部には、堂島川・土佐堀川・木津川・道頓堀川・東横堀川などの川が流れ、大都市・大阪を構成している。

大阪市街の東、南北に連なる高地があるが、これが上町台地だ。
上町台地は近世になり、大阪が都市として整備されるまで、ぽっかりと浮かぶ島のような形状だった。

つまり、大阪はこの上町台地をベースに発展した。
ここには、飛鳥時代には四天王寺が建立され、戦国時代には大坂城が築かれた。

近代にいたるまで、海上交通は陸上交通と比べて、はるかに利便性の高い交通手段であった。

九州方面から船で瀬戸内海を航行する場合、その突き当たり、東の端に位置するのが大阪湾だ。
この湾は上町台地のほぼ突端にあり、古く「難波津(なにわづ)」と呼ばれ、瀬戸内海を利用した水上交通の要衝として、古代において極めて重要な場所であった。

このため、5世紀に実在性が有力視されるヤマト政権の大王たち、たとえば仁徳天皇、履中天皇、反正天皇らは、こぞって河内や和泉など、大阪エリアに宮都を置いた。

時代が降り6〜7世紀になると、天皇を中心に蘇我氏や物部氏などの豪族が国家運営に関与するようになり、宮都は内陸部の大和、すなわち奈良エリアに置かれるようになる。

画像:難波宮跡 public domain

しかし、645年の乙巳の変に端を発する大化の改新によって新政府が誕生すると、即位した孝徳天皇は都を再び大阪エリアの難波宮へと遷す。

難波宮は、奈良時代にかけても宮都として機能し、孝徳天皇の時代の宮は「前期難波宮」と呼ばれ、倭国の首都と位置づけられた。

この難波宮への遷都の背景には、唐による高句麗侵攻や、それに伴う新羅・百済など、朝鮮半島の緊迫した情勢があったと考えられている。

その後、都は近江を経由して大和地方へと戻るが、奈良時代には東大寺大仏を建立した聖武天皇が難波宮を副都とした。
これが「後期難波宮」である。

今回は、古代史において重要な役割を果たした難波宮の跡地「難波宮跡公園」を中心に、古代の息吹を感じる歴史散策をご紹介しよう。

画像:難波長柄豊﨑宮模型(大阪歴史博物館)

散策のスタートには、難波宮に関する展示が充実している大阪歴史博物館がおすすめだ。

古代から近現代に至るまでの大阪の歴史を常設展示する同館は、大阪の歴史を学ぶのに最適な施設である。

大阪歴史博物館で難波宮や古代大阪に関する知識を得たあとは、すぐ南側にある法円坂遺跡の高床倉庫へ向かおう。

その後、難波宮跡を訪れ、かつて内裏や朝堂院があった場所を巡る。後期難波宮の大極殿基壇が復元された場所では、当時の威容に思いを馳せてみたい。

さらに、難波宮内裏東方遺跡まで足を延ばせば、古代の宮都・難波宮の広大さをより実感できるだろう。

古代の宮都・難波宮の回り方は、

大阪歴史博物館→(徒歩約15分)→②法円坂遺跡高床建物→(徒歩約3分)→③難波宮史跡公園・大極殿基壇→(徒歩約1分)→④前期難波宮・西八角殿跡→(徒歩約3分)→⑤難波宮内裏東方遺跡

という順番がおすすめだ。

それでは、難波宮史跡公園の各史跡・旧跡を紹介しよう。

①「大阪歴史博物館」~充実した展示内の歴史系博物館~

画像:大阪歴史博物館(大阪歴史博物館)

大阪城と難波宮跡に隣接する歴史系総合博物館。

都市大阪にスポットを当て、7階から10階までの展示スペースで常設展示を行っている。

7階は近現代の大阪で「大大阪」と呼ばれた大正時代から昭和初期を中心に、大阪の街並や庶民の暮らしぶりを紹介。
9階は中・近世の大阪で、石山本願寺や豊臣秀吉の大阪城とその城下町の姿を復元模型で紹介している。

そして、10階が古代の大阪で、ここでは奈良時代の難波宮大極殿を実物大で復元。
直径70㎝もある朱塗りの円柱が立ち並び、官人達が整列するという、いるだけで古代の世界へタイムスリップできる仕掛けが施されている。

また、8階は「なにわ考古学研究所」と名付けられ、原寸大に再現された発掘現場で、楽しく考古学の世界に触れることができる。

さらに1階エントランスホールでは、ガラス越しに前期難波宮跡倉庫群の遺構を見学できる。

大阪城や難波宮跡散策の前に訪れると、歴史散策がさらに有意義になる展示内容がいっぱいで、時間が経つのも忘れてしまいそうだ。

②「法円坂遺跡高床建物」~ヤマト政権の大型倉庫建築物~

画像:法円坂遺跡の高床建物(撮影:高野晃彰)

大阪歴史博物館の敷地南側に復元された古墳時代の大型倉庫で、この場所に複数の倉庫が並んでいたことが発掘調査で明らかになっている。

発掘された建物は、掘立柱の大型高床倉庫で、計16棟検出された。

いずれも5世紀の遺構とされ、倭の大王たちが朝鮮半島から輸入した物資を貯蔵していた倉庫と考えられている。

また、難波津が古墳時代にはすでに整備されていたことを示す、重要な証拠として注目されている。

③「難波宮史跡公園・大極殿基壇」~奈良朝の大極殿~

画像:難波宮大極殿基壇 wiki.c

古代において大阪は、九州地方を経由して中国大陸、朝鮮半島を結ぶ要衛の地だった。

大和朝廷の倭の王たちは盛んに中国の王朝に使いを出し、朝鮮半島における優位性を保とうと働きかけた。

飛鳥時代となり、政権の中心が飛鳥や奈良に移ってもそれは変わらず、瀬戸内海航路の最東端として大阪は重要視されていた。

難波宮はこうした背景から築かれた都で、1954(昭和29)年からはじまった発掘調査により、前期・後期の宮殿跡が見つかった。

前期は、大化の改新の難波遷都に伴って造営された難波長柄豊碕宮にまで遡る可能性が高く、大極殿の両側に八角殿を伴う特徴を持ち、掘立柱で瓦は葺いていなかったと推測される。

画像:難波長柄豊﨑宮の内裏全景模型(大阪歴史博物館)

後期は、奈良時代、聖武天皇による宮都で、一時的に奈良から移されたが平城京に対する副都としての位置づけであったようだ。

建物は、礎石の上に柱を立て、屋根には瓦を葺いていた。

復元された後期大極殿基壇は、長辺42m・短辺21mの石造りの基壇で、この上に丹塗りの柱、緑の窓など、中国長安の影響を受けた鮮やかな外観の大極殿が建っていたと推定されている。

④「前期難波宮・西八角殿跡」~飛鳥朝の楼閣状建物~

画像:難波宮 八角形建物遺構 wiki.c

孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とされる八角形の楼閣状建物のうち、西側の遺構が朱塗りの鉄骨で復元されている。

八角形は中国思想の影響を受け、天皇の御座を象徴する形とされている。

この建物の存在は、大化の改新によって律令体制へと移行した日本における、最初の宮都・前期難波宮の威容と格式を今に伝えている。

⑤「難波宮内裏東方遺跡」~政務を行う役所の遺構~

画像:内裏東方遺跡 wiki.c

難波宮の中心である内裏、朝堂院から約200m東方にある遺跡で、回廊や塀が発見された。

宮殿中心部の周囲に建てられた役所と推定されている。

画像:難波宮跡周辺マップ(作成:高野えり子)

さて、今回は飛鳥時代と奈良時代に宮都となった「難波宮」をめぐる歴史散歩を紹介した。

このコースは、ゆっくり歩いても2時間半ほどで一巡できるが、大阪歴史博物館の見学にはできるだけ時間を割くことをおすすめしたい。
散策を始める時間によっては、このあと隣接する「大阪城公園」を訪ねてもよいだろう。

※参考
大阪歴史文化研究会 『大阪歴史探訪ルートガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文:写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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