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空襲の痕跡を無数に残す「旧日立航空機株式会社変電所」は、公園の一角で静かにたたずむ

さんたつ

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終戦からもうすぐ80年。東京都内の戦跡遺構は戦後の復興と成長で瞬く間に消え、遺されているものは、わずかに形状を留めているものや地下壕などが主ですが、東大和市には空襲と機銃掃射に遭遇した変電所が当時の記憶を留めて保存されています。

航空機エンジン工場の変電所は空襲被害を受けながらも遺された

戦後から約80年、空襲や機銃掃射の記憶を残す戦跡は少なくなりました。私は祖父母から空襲や機銃掃射の生々しい話を聞かされて育ち、恐怖の光景はなんとなく想像できましたが、既にそれを体現できる建物が少なくなり、どこか昔話のような隔絶感がありました。

東大和市には、機銃掃射の弾痕と、空襲時の爆裂痕が無数に刻まれた建物がほぼそのままの状態で遺されています。

今回は“廃”を愛でるというよりも、約80年前の空襲はどのようなものだったのか、無言の語り部に出合ってきました。

変電所は東大和南公園の一角に保存されている。建物の周辺にはガーデニングで整備されていた。

その建物は、戦災建造物として東大和市指定文化財となっている旧日立航空機株式会社変電所です。変電所は昭和13年(1938)に竣工したもので、航空機エンジンを製造する東京瓦斯(ガス)電気工業立川工場の施設でした。東京瓦斯工業は日立航空機立川工場となり、主に陸軍用の航空機エンジンを製造していました。

変電所内の資料から。日立航空機立川工場の建物と現在の施設との場所の比較図。

立川工場は1945年2月17日と4月19日の戦闘機による機銃掃射、4月24日の空襲を受け、従業員、学徒動員の学生、周辺の住民など100名以上の犠牲者を出し、工場施設は8割が被害に遭いました。

変電所はいくつもの弾痕と爆弾の爆裂痕を受けましたが、建物と変電設備は無事で、戦後も民間工場の変電所として活躍しました。

変電所の傍らには空襲犠牲者の慰霊碑が建立されている。

立川工場は米軍大和基地へ。その後1973年に大和基地が返還され、都立東大和南公園となりました。しばらくは民間工場と東大和南公園という時代を過ごし、変電所も1993年まで稼働していましたが、それは驚くことに一部の弾痕を埋めた以外はとくに修復せず、空襲時の姿のまま戦後も稼働していたのです。

北側には変電設備の痕跡が残る。等間隔に並ぶ電柱は受電施設の名残りで、奥には防護壁が一部保存されている。

民間工場は移転となり、都立公園として整備するため当初変電所は解体の憂き目にあうところでした。しかし、生々しい弾痕を残す外観は大変貴重な戦災建造物になると、市民グループや元従業員の保存運動が実り、1995年に東大和市指定史跡となって保存され、現在に至っています。

変電所の資料から。給水塔は少し離れた位置にあった。解体前と後の比較写真。

そのいっぽう、変電所付近にあった給水塔は解体されました。給水塔も同じように空襲時の痕跡が残されていましたが、周囲が住宅地となり、塔という性質上老朽化による倒壊が懸念され、部分保存の形をとって残念ながら解体となったのです。

壁面と室内に空襲時の弾痕と爆裂痕が無数にある

午後の東大和南公園は、下校中の学生や子供たちの歓声が飛び交い、にぎやかな時間を迎えています。公園の西側の一角で、2階建ての古ぼけた白亜のコンクリートが目に止まります。これが変電所です。

変電所は水曜日と日曜日に内部公開しており、それ以外の日は外観のみ見ることができます。変電所は大きなグランドの対面にあり、グランドは立川工場時代、第一工場があった場所となります。

変電所は外観が劣化しているようにポツポツと穴が空いて見えますが、近づくにつれて無数の穴とヒビが壁面全体にあるのが分かってきます。これらは全て空襲時のもの。思わず目を見開いてしまいます。

夕日に照らされた変電所。南側壁面は無数の穴が開いていた。これらは全て弾痕と爆裂痕である。

弾痕と爆裂痕は、直径5cm以上の痕跡が248箇所あるといい、小さな傷は無数にあって数え切れません。左右対称の建物の中心には1階2階ともに両開きドアを配しており、2階は外階段と踊り場があるのですが、踊り場の欄干部分はコンクリートがえぐれています。変電所の壁面は197mmあり、その壁を貫通させた銃撃と、衝撃でコンクリートがすり鉢状にえぐられた威力をまざまざと見せつけられます。

外階段2階の踊り場部分のコンクリート欄干は機銃掃射によって崩れてしまっている。

機銃掃射はF6F艦上戦闘機、SB2Cヘルダイバー艦上爆撃機、TBFアベンジャー艦上攻撃機、硫黄島から来襲したP51Dマスタングなどの12.7mm機銃痕で、爆裂痕は爆撃の際の破片や飛散したものです。それらの痕が南側の壁面を中心にしてびっしりとあるのです。

給水塔は被害のひどかった部分が遺され、変電所の前に保存されている。機銃掃射のもの凄さが伝わってくる。
銃弾などは窓を突き破って内部へ侵入し、階段などを破壊した。外から室内の階段がえぐれているのも見えた。
外階段と壁面。階段の欄干部は銃撃などによってボロボロとなったが、壁面に穴が開いた状態で戦後も変電所として活躍した。

こうして詳細が分かるのは、内部公開の説明板とボランティアの方による説明によるもので、内部は稼働当時の姿を極力残した状態で資料室となっています。

展示資料は立川工場の全体と変電所について詳しく紹介しており、攻撃を受けた状況も分かってきます。

外観の弾痕は南側に集中しています。裏の北側はわずかであることから、機銃掃射は主に南側の第一工場を狙い、変電所はそのついでに攻撃されたのかもしれません。変電所も重要な攻撃対象であれば、建物全体に攻撃を加えたはずです。

北側はそんなに弾痕がついていなかった。南側が集中的にやられたようである。
東側の2階部分には何かがあった穴が開いていた。これは弾痕ではなく意図的に開けられたものだ。内部はチラッとのぞけた。

そして内部にも機銃掃射の痕跡が残されています。弾丸は窓ガラスを割って階段と手すり、2階の変電設備に当たりました。そのときの衝撃なのか、階段部分はコンクリートがえぐれています。変電設備は部屋の奥にあって、何発か当たった弾痕が確認できます。

室内の階段。手すりの弾痕は跳弾かもしれないとのこと。銃撃によって砕けたコンクリートは骨組みの鉄骨が露出してしまった。
2階へ上がる階段は損傷が激しい状態で戦後も使用されたが、保存にあたって新たに階段を設置して旧階段の保護に努めている。
2階の配電盤にも弾痕が残っていた。手前の凹んだ機銃掃射の痕がそうだ。

弾痕には斜めに角度がつき、目線を痕跡に合わせて窓の外の空を遠くに眺めてみると、低い角度から撃たれたのではと思われます。米軍機はかなりの低空で侵入して、手前の第一工場の屋根と変電所を狙って機銃を撃ち続けたのでしょうか。一部の弾痕は角度が低すぎるので、跳弾なのでは?と、ボランティアの方が話していました。

水曜日と日曜日は内部が公開され、充実した展示資料を読むことができ、ボランティアの方がツアーのように説明してくれる。

戦前の状態のままの建物のつくりにも目が行く

変電所の弾痕がつい最近のように生々しく、とても80年前の空襲の痕跡とは思えないのですが、戦後の企業が修復せずに使用したという偶然があり、こうして現代に遺され、空襲のことを語りかけています。

ところで、変電所を戦跡ではなく戦前の建築物として見ると、細部にわたって興味深いです。側窓は外側へ迫り出す開閉窓の構造、変電設備の室内灯は竣工時のもの。1階の天井に吊り下がるダクトは変電設備のケーブルを通すもので、こちらは竣工時から使われてきたのか判別できないとのことでした。

1階の蓄電池室。ドアや照明器具は戦前のもの。蓄電池室の壁面も機銃掃射によってすり鉢状の弾痕があった。
窓は外側へ斜めに開くタイプである。窓枠も細い。
窓の取っ手。現代にはないデザインだ。
2階変電室内の照明器具は竣工時のものだそうだ。
このダクトは通風孔ではなく変電設備のケーブル類をまとめていたものらしい。

2階の変電設備は竣工時のものを使用しながら機器を交換し、さまざまな時代のパーツが同居しており、さりげなく配置してある木製ロッカーには「瓦斯電」のプレートが残され、約90年前の会社名が今に蘇っています。変電所は戦災建造物として改変されることなく残され、そのことで戦前の変電所内部はどうであったのかという一端も観察できます。

2階の変電設備には仮眠室が備わっていたが、室内なのに小屋があるような不思議な空間となっている。
2階の室内から外階段部分を見る。現役時代はこの入り口をメインに使用していたのではないだろうか。
変電室内はほぼ、平成の時代まで稼働していた状態で保存されている。機器類は戦後製と思われるが、現在の変電設備にはない古いものが使用されているとのことだ。

ボランティアの方の丁寧な説明を聞いて変電所を後にすると、夕陽で壁面が照らされました。夕日の陰影によって無数の弾痕が強調され、この建物の負った運命が浮かび上がってくるようです。

都内や関東に戦跡は点在しますが、空襲に遭った当時のまま遺されているのはこの変電所だけではないでしょうか。

夕日を浴びて無数の傷を強調して見せる変電所。大小さまざまな痕の陰影が浮かび上がっていた。

夕日が沈みゆくなか公園は人々の歓声が響き、傷ついた変電所が静かにたたずんでいます。

その対照的な光景を眺めながら、戦後80年の時の経過を見た気がしました。

取材・文・撮影=吉永陽一

吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。

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