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徳川家の終焉を見届けた皇女・和宮 〜家茂の死、江戸無血開城、その静かな最後[後編]

草の実堂

画像:和宮『幕末・明治・大正回顧八十年史』より public domain

混乱の幕末に希望の光と灯した、徳川家茂皇女和宮の美しくも儚い愛のストーリー。

家茂と和宮の人となりを紹介した前編に続き、後編では、公武合体に至った経緯と、結婚後の家茂と和宮について紹介しよう。

なぜ「公武合体」が行われたのか?

画像 : 黒船来航 ※嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航随行筆記した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ public domain

1853年7月、米国の通商使節であるペリー提督は、4隻からなる艦隊を率いて浦賀沖に来航した。

この時、ペリーは日本の開国を求める米国国書を携えていたが、幕府は規定の応接手順に従い、ペリーに長崎へ回航するように求めた。

しかし、彼はこの要求を無視し示威活動を展開したため、幕府は譲歩して浦賀において国書を受領する。

ペリーは国書への回答を受けるため、半年後に再来することを約し、日本を出帆したのである。

画像 : ペリー public domain

1854年2月8日、ペリー艦隊は再び浦賀に姿を見せ、横浜沖に投錨した。

彼は当初から、

①アメリカ船への薪水・食料の補給
②遭難・漂流民の保護
③日本との通商開始

の3点を求めており、とりわけ通商の実現を視野に入れていた。

しかし幕府は、通商に踏み切ることに対して依然として慎重であった。開国によって国内の体制が揺らぐことを恐れ、外国との本格的な交易には強い警戒感を抱いていたのである。

こうした中、幕府から交渉全権として任命された林復斎は、相手の要求をただ拒絶するのではなく、現実的な妥協点を探った。
林は、「まずは漂流民の保護やアメリカ船への薪水・食料の補給といった人道的かつ実務的な協力から始め、両国の信頼関係を築くべきである」と提案した。

この提案は、武力示威によって圧力をかけていたアメリカ側にも受け入れられ、最終的に交易には踏み込まず、下田・函館の2港を補給港として開港すること、漂流民の救助や補給支援などを盛り込んだ、全12か条からなる日米和親条約が1854年に締結された。

林は、これを「開国」ではなく、あくまでも「補給港の開設」であると位置づけ、通商開始は明言せずに交渉をまとめあげた。
これは、アメリカに対しては一定の成果を示しつつ、国内の反発を抑え、幕府の鎖国方針を形式的に維持するという巧妙な妥協策であった。

こうして、3代将軍・徳川家光以来の鎖国体制は、ここに事実上の終焉を迎えることとなった。

その後、1858年にはアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの強い働きかけにより、ついに通商を含む日米修好通商条約が締結され、日本は本格的な開国へと踏み出すこととなる。

画像 : 井伊直弼 public domain

この条約の締結に向けて、大老・井伊直弼(なおすけ)は当初、朝廷から条約調印の勅許を得ようとしたが、孝明天皇は断固として反対の姿勢を示した。

しかし井伊は、列強との関係悪化を恐れたことから、勅許のないまま日米修好通商条約の調印を強行する。

この強引な決定は、大の外国嫌いで知られた孝明天皇の激しい怒りを買うこととなる。
天皇は幕府の独断に強く反発し、自ら譲位の意思を示すほどであった。

条約の批准は翌1859年に行われ、その文書には新将軍となった徳川家茂の名「源家茂」と、銀印「経文緯武」が押印されている。家茂はこの時わずか12歳であり、実際の外交判断に関与していたわけではないが、条約批准という形式的な責任を負う立場となった。

こうした動きの中で、井伊直弼は反対派を壊滅させるべく安政の大獄を断行する。

しかし、その反動は彼自身に跳ね返ることになり、1860年3月24日、登城途中に水戸浪士らに襲われ命を落とした。

これが、桜田門外の変である。

画像:桜田門外の変 public domain

1860年6月1日、朝廷との関係が悪化した幕府は、その回復を図るために、和宮の将軍家降嫁を奏請した。

これが「公武合体・公武一和」などと称される政策である。

分裂状態となった朝廷・幕府関係の修復を図るとともに、幕府の権威回復を目的とした対応策でもあったのだ。

難航した和宮の大奥入り

画像:和宮『幕末・明治・大正回顧八十年史』より public domain

1861年10月20日、京都を出発した和宮一行は、約1ヵ月後の11月15日、無事に江戸城内の清水屋敷に入った。

しかし、和宮が江戸城の大奥に入るのに、それから約1ヵ月を要することになる。

これは、和宮下向の折の約束事である「御所風の遵守」という点で、和宮側と大奥側の調整が難航したためであった。

画像:大奥の図 public domain

この当時の状況については、和宮付きの女官・側近の庭田嗣子の書状に詳しく記されている。

その記録によれば、和宮の江戸入り後、約束されていた「御所風」のしきたりが十分に守られておらず、さらに父・仁孝天皇の年回忌に際して予定していた上洛も延期を求められた。
大奥の女中たちとの折り合いも悪く、和宮は深く傷ついていたという。

また、姑にあたる天璋院からは礼を欠くような振る舞いがあったことも記されており、これら一連の事情は孝明天皇の耳にも届いた。

天皇は状況を重く見て、岩倉具視らを通じて幕府に調査と対応を命じ、天璋院に対しても事実関係の説明を求めることで、事態の収拾を図った。

一方で、朝廷側は和宮にも釘を刺している。

「今回の御所風の遵守は、あくまで和宮の特例である」と明言し、将軍家が公家風に染まることで軟弱になることを戒めるよう、手紙で諭している。

仲睦まじい二人の結婚生活

画像:徳川家茂像(徳川記念財団蔵)public domain

1862年2月11日、ようやく家茂と和宮の婚礼が執り行われた。

和宮は皇族の内親王であり、その身分は征夷大将軍である家茂をも上回っていた。このため、婚礼では本来の武家儀礼とは異なり、和宮が「主人」、家茂が「客分」として扱われるという、立場の逆転が生じた。

この婚儀は、幕府にとっては形式的に格下の立場を受け入れることを意味し、徳川政権の権威低下を象徴する出来事であった。

一方で、朝廷にとっては皇女を将軍家へ降嫁させることで威光を高め、尊王思想を持つ勢力にとっては大きな後押しともなった。

だが、このような状況はさておき、家茂と和宮の結婚生活は仲睦まじいものであった。

婚礼の日、和宮が初めて対面した家茂は、彼女が想像していたような東国風の荒々しい武将ではなく、気品を漂わせた穏やかな青年だった。その容姿も見目麗しく、総髪にした黒髪も彼女が慣れ親しんだ公家風であることに安堵したことだろう。

一方の家茂も、かつて婚約していた相手との別れを強いられ、見知らぬ江戸に下ってきた和宮に対して、深い慈しみをもって接した。

家茂は歴代将軍の中でも例外的に、側室を一人も持たなかったとされる。
それほどまでに和宮を思いやり、誠実に向き合っていたのである。

この夫の愛情に応えるかのように、和宮もまた将軍家の御台所としての務めを尽くし、その立ち居振る舞いは「非の打ちどころのない御台所」と称された。

二人はそろって甘いものを好み、寝所でもお菓子を食べながら夜遅くまで語り合うことが常であったという。
また家茂は、遠乗りの途中に手折った石竹の花を贈ったり、彼女に似合いそうなかんざしを選んだり、珍しい金魚を手に入れては和宮を喜ばせた。

当所はいがみ合っていた和宮側の側近と天璋院などの大奥側も、そんな二人を見ているうちに次第に和んでいったという。

画像:天璋院 public domain

特に和宮の姑に当たる天璋院は、最初に和宮と対面した際、上座にあって会釈も礼もせず和宮の座には敷物も用意しなかった。

これは天璋院が単に武家の格式に従った行動だったが、内親王という高貴な身分の和宮に対しては無礼だと受け取られ、周囲から非難の声も上がった。

天璋院自身も、和宮に対して「気位の高い皇女」という先入観を抱いていた節があり、両者の関係は当初からぎこちなさを含んでいた。

画像:浜御殿 潮入の池と中島の御茶屋 public domain

ところが、勝海舟の日記にはこんな一幕が記されている。

家茂・和宮・天璋院の三人が浜御殿に出かけた際、座敷の入り口に天璋院と和宮の履物が置かれ、その下に家茂の履物があった。
帰る際、天璋院はそのまま自分の履物を履いたが、和宮は裸足で座敷から降り、自分の履物を脇に寄せて、家茂の履物を丁寧に石の上に並べ直したという。

夫を思いやるこのような姿を目にし、天璋院の心にも変化が芽生えた。

互いに距離を感じていた関係は次第に和らぎ、やがて本心から信頼を寄せ合う間柄へと変わっていったとされている。

時勢に翻弄された家茂と和宮

画像:徳川家茂像(川村清雄作)public domain

しかし、家茂と和宮の幸せな結婚生活はそう長くは続かなかった。

尊王攘夷運動が全国に広がりを見せる中、1863年2月13日、家茂は朝廷に対して攘夷実行の意思を伝えるため、3千の兵を従えて江戸を出発した。将軍の上洛は、徳川家光以来およそ229年ぶりのことであった。

この時、和宮は増上寺の黒本尊の御札を勧請し、家茂の無事を祈り自ら御百度を踏んだという。

3月7日、家茂は孝明天皇に拝謁し、攘夷実行を約束した。しかし、その後予定されていた天皇との石清水八幡宮参詣については「病」を理由に欠席している。

武家の棟梁源氏の氏神を祀る神前で、天皇から直に攘夷の命を下されるのを避けたのだ。

欧米列強の実力を知る幕府としては、もはや攘夷の決行など無意味なことと見極めていたのだろう。

画像:石清水八幡宮 楼門(国宝)public domain

しかし、この一件が尊王攘夷派の怒りを増長した。

家茂に対する失望や不信感が広まり、京都では将軍暗殺をほのめかす落首が出回るほど、緊張が高まっていった。

このような状況に、朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか許可しなかったが、滞在3ヵ月で家茂は海路で江戸に帰還した。

その後、情勢の変化を受けて、家茂は再び上洛の必要に迫られる。
1864年12月27日、彼は再度海路から京都に入り、二度目の上洛を果たした。

この時、すでに長州藩をはじめとする尊攘派は八月十八日の政変によって京都から排除されており、家茂は朝廷より従一位右大臣の官位を授けられている。

一方、将軍のたび重なる上洛に胸を痛めた和宮は、出立前から春日神社にて百度参りを行い、さらには1865年11月10日付で「御用が済み次第、速やかに江戸へ帰還させてほしい」と朝廷に歎願を出していた。

その願いが届いたのか、家茂は翌年5月8日に江戸へ帰還した。

画像:蛤御門(写真:高野晃彰)

そして1864年7月19日、かつて京都を追われた長州藩が再び兵を挙げ、御所への進軍を開始した。

これがいわゆる禁門の変である。

会津藩・薩摩藩など幕府側諸藩の奮戦により、長州勢は撃退されたものの、朝廷と幕府はこの反乱に強い危機感を抱くこととなった。

この事態を受け、将軍・家茂は自ら軍を率いて長州征伐に乗り出す決意を固める。翌1865年5月16日、家茂は江戸城・大奥の対面所で和宮に見送られ、海路大阪へ向けて出発した。

前夜、ふたりはいつものように夜更けまで言葉を交わしていたのだろう。見送りの際、和宮は家茂に「もし京都に立ち寄る機会があれば、西陣の帯を二筋買ってきてほしい」と、ささやかな願いを伝えたという。

徳川幕府260年の歴史の中で、御台所が将軍に土産を所望するなど、前例のないことであった。それは形式を超えて、ふたりが深い信頼と愛情で結ばれていた証でもある。

おそらく和宮は、家茂の無事な帰還を信じ、その願いを「帯」というかたちに託したのかもしれない。

しかし、これが二人の今生の別れとなったのである。

夫の死を乗り越え、徳川を守る

画像:徳川家茂像(絹本著色)(徳川記念財団蔵)public domain

1866年4月、家茂は第2次長州征伐の指揮を執るため大坂城に滞在していたが、その最中に病に倒れた。

病状が江戸の和宮に伝えられると、彼女は大変心を痛め、湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を依頼し、夜具や衣類、見舞いの菓子などを大坂へ送った。

やがて病状が思わしくないことが明らかになると、和宮は治療方針の変更を命じ、蘭方医から漢方医に切り替えさせたうえで、イギリス船に乗せた医師3名を大坂へ派遣するなど、あらゆる手を尽くした。

しかし、そんな必死の願いもむなしく、家茂は7月20日、21歳の若さで薨去した。

死因は脚気に起因する狭心症とされているが、第2次長州征伐の指導的立場にあった家茂は、連敗を重ねる征討軍の立て直しを一身に背負っており、激務と心労が死を早めたと考えられている。

その後、家茂の遺体は9月2日に大坂を出航し、6日に江戸へ到着。芝・増上寺の徳川将軍霊廟に葬られた。
やがて、和宮が家茂に所望していた西陣織の帯が形見として江戸城に届けられると、和宮はそれを抱きしめたまま奥に籠り、1週間以上も泣き続けたと伝えられている。

こうして、家茂と和宮の静かで温かな愛の物語は幕を閉じた。

そして時代は、急ピッチで徳川幕府の終焉へと突き進んでいく。

画像 : 徳川慶喜 public domain

家茂の後を継いだ第15代将軍・徳川慶喜は、1867年11月10日、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を断行した。

これにより、およそ260年続いた江戸幕府は形式上幕を閉じることとなった。

慶喜は、将軍を長とする新たな政権構想を抱いていたが、その目論見は倒幕を掲げる薩摩藩・長州藩の反発により瓦解する。

薩摩藩は江戸での騒擾事件や江戸城二の丸御殿への放火といった挑発行動を繰り返し、旧幕府内の強硬派を焚きつけ、ついに鳥羽伏見の戦いが勃発した。

慶喜は大坂城で旧幕府軍の総指揮を執ったが、開戦早々から劣勢に陥る。

戦局の悪化を受けて、慶喜は海路で江戸へ撤退。徳川家は一転して存亡の危機に立たされることとなった。

画像:有栖川宮熾仁親王肖像写真 public domain

そのような中、かつて和宮の許婚であった有栖川熾仁親王を総帥とする新政府軍が、江戸に迫る。

和宮は、将軍家の正室として、また徳川家の大御台として、天璋院と共に徳川家の存続に奔走した。

新政府宛の嘆願書には、和宮が「私の身命に代えて」、天璋院が「この一命にかけて」と記したと伝えられる。

両名の覚悟と誠意ある働きかけは、徳川慶喜の助命と、徳川家の駿河国移封という寛典処分に結びついた。

画像:江戸開城談判(結城素明画)public domain

さらに、江戸を戦火から救った「江戸無血開城」の実現も、和宮が朝廷に提出した嘆願書と、幕臣らの暴発を抑えるための説得活動が大きく寄与したとされている。

勝海舟と西郷隆盛との間で成立したこの歴史的交渉の陰には、和宮と天璋院の静かながらも強い意志と働きかけがあったのである。

家茂の写真を胸に眠る

徳川家の処分が落ち着き、明治維新によって新たな時代が始まると、和宮は一時的に京都へ戻り、念願であった父・仁孝天皇の陵への参拝を果たした。

その後、明治天皇の勧めもあって再び東京への帰住を決意し、1874年7月には麻布市兵衛町(現在の東京都港区六本木1丁目)、旧八戸南部家の屋敷に移り住んだ。

和宮はこの地で約3年間を過ごし、天璋院をはじめとする旧幕府関係者たちと親しく交流を続けたという。

しかしこの頃から脚気を患い、体調が思わしくなくなっていく。

1877年8月、療養のため箱根の塔ノ沢温泉へ赴くが、現地では一時的に快方に向かい、地元の人々と歌会を開くなどの交流も見られた。

ところが突然の発作に襲われ、同年9月2日、わずか31歳という若さでその波乱に満ちた生涯を閉じることとなった。

画像:増上寺にある家茂夫人(和宮)の宝塔 public domain

和宮の遺体は、その遺言に従って増上寺に眠る家茂の墓の近くに葬られた。

しかし1950年、時代の流れの中で増上寺の徳川家墓所は国土計画興業によって売却され、これに伴い歴代将軍とその正室・側室の墓所も発掘・改葬されることとなった。

和宮の遺体は上向きに横たわり、左手に数珠を持ち、右手は腰の方へと自然に伸びていたという。そしてその右手の近くには、透明なガラス板が静かに置かれていた。

それは銀板写真であり、そこには烏帽子に直垂姿の若い男性、すなわち徳川家茂と思われる人物が写っていた。
和宮は、最愛の夫の姿を遺影として肌身離さず持ち続けていたのである。

皇女として高貴な家に生まれながら、許婚者との別離、そしてわずか数年にすぎなかった夫婦生活。和宮の人生は確かに波乱と悲劇に満ちていたかもしれない。

しかし、家茂との日々は愛情に満ちており、徳川260年の歴史の中でも、最も幸福な御台所であったと言っても過言ではない。

そしてこの若き夫婦の姿は、政争と陰謀、殺戮が渦巻いた幕末という激動の時代にあって、確かに一筋の希望の光を放っていたのである。

参考 :
鈴木由紀子著 最後の大奥 天璋院篤姫と和宮 幻冬舎刊
樋口清之著 もう一つの歴史をつくった女たち ごま書房新書
文/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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