大名たちを悩ませた参勤交代は、江戸幕府の存続にも深くかかわっていた? “そろばん武将”利家が費用計算も致すぞ!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。これよりは前田利家の戦国がたりの刻である!! 此度の題目は「参勤交代」である。 皆々もなんとなくの知識はあるのではないか?よく語られるのが「行列を横切ると無礼討ちされる」であるとか、「産婆と飛脚は横切ることが許される」であるとかその辺りかのう。江戸の制度や文化において大きな影響を与えた参勤交代について早速見てまいろうではないか!そして折角じゃから、日ノ本で初めてそろばんを国政に用いたことでも有名な儂(わし)・前田利家が、ざっくりであるが参勤交代にかかる費用を計算いたそうではないか!
参勤交代とは?
皆も知る通り、参勤交代とは江戸と領国を行ったり来たりすることであるが、参勤交代は将軍に会って蜻蛉(とんぼ)返りしておるとなんとなく思うておった者もいるのではないか?
じゃが、目的は移動ではなく江戸に住まうことにあるのじゃ!
実は、江戸時代の大名たちは、領国に一年住んだら次の一年は江戸に住まねばならんかった。この為の移動が参勤交代であるわけじゃな。
藩主たちは、その生涯の半分は江戸で暮らしておったのじゃ。
さらに藩主の妻子たちは江戸に住むことを義務付けられておって、領国へ戻る時には妻子を置いていかねばならず、特異な例を除いてそれから一年は会うことが叶わなかった。
これらの制度は江戸幕府への反乱を未然に防ぐ為の様々な目的があってのう。
江戸への愛着をもたせる!幕府に逆らえない仕組み
無論江戸に住まわせた妻子は、人質としての意味があったし、参勤交代にて手間をかけ財産を消費させることで反乱を起こす経済的余裕を失わせる効果があった。これについては後で詳しく話して参ろう。
これらの理由に加えてもう一つ重要な目的が、家や領国への帰属意識、即ち思い入れを持たせにくくすることである。
生涯のおよそ半分を江戸で生活する内に、藩主や主だった家臣たちは豊かで先進的な都会での暮らしに慣れることとなる。となると、領国で起きている苦難や不便、江戸幕府の政への反感を感じ取りにくくなるわけじゃ。
しかも藩主たちもかつては前藩主の子息として幼少期を江戸で暮らしておったわけじゃな。
そうすると寧ろ江戸の方が慣れ親しんだ故郷のような存在となって、幕府への反発や敵対心も生まれにくくなるわけじゃ。
なかなかよく考えられておるじゃろう。
260年続いた江戸時代の間、大きな反乱が起きなかったのには参勤交代の存在が大きく関わっておるといえよう。
その証左というと少し大袈裟かもしれんが、大政奉還にて徳川の天下が終わったことも、この参勤交代を緩和したことが原因の一つとなっておる。
参勤交代の緩和こそが討幕のきっかけだった?
まず、八代将軍徳川吉宗の時代に「上げ米」なる制度ができた。
これは各藩が幕府に米を納める代わりに、参勤交代を緩和するというものじゃ。
当時は幕府の財政難が問題となり、その対策として打たれた手であって一時的には効果を発揮したのじゃが、これの副作用が後々現れることとなる。
今年の大河どらま『べらぼう』でも、吉宗殿の時代から続く問題について語られる場面も多いがこれも其の一つであろう。
そして決定的となったのは幕末に起きた参勤交代の大幅な緩和である。
この時は妻子も領国に帰ることが許されたのじゃ。
これは江戸時代に慢性的に起こっておった財政難はもちろんのことながら、黒船の来航により日ノ本の国防の必要性が高まり、各藩が異国と戦う備えをするために大きな負担である参勤交代を見直さざるを得なくなってしもうたのじゃ。
じゃが、これによって幕府の権威は失墜し、幕府の終焉へと繋がっていったとも考えられるのじゃな。
儂・利家による概算!参勤交代
さて、此度の戦国がたりで再三「各藩の負担が」と申しておるが、どの程度の負担があったのか知りたくはないか?
冒頭にも述べたが、そろばんに覚えのある儂がざっくり参勤交代にかかる費用を計算いたそう!
此度は我が加賀前田家を例に紹介いたそう。
前田家は江戸時代最大の百万石を超える大大名であった。
故に参勤交代も最大規模であって、江戸時代の中期に日本を訪れたエンゲルなる者によると、前田家の大名行列は先頭とすれ違ってから藩主自身を見るまで三日もかかったそうじゃ。
これは些(いささ)か大袈裟ではあるが、前田家の参勤交代は少なくとも二千人、多い時には四千人を従えておった。四千人が二列で一間、現世でいう約2mの間隔で歩いたとするならば、列の長さは凡(おおよ)そ4kⅿにもなる。さらに大名行列は本体の数kⅿ先を進む先鋒隊と、本体の一日後に出発する隊など、人数以上に長くなるような隊列を組んでおったでエンゲル殿がそのように話したくなるのは分からんでもない話じゃな。
して、ここからは銭勘定の時じゃ!
最も銭がかかったのは?
参勤交代の折に最も銭がかかったのは宿代である。
何千人もの大軍で宿泊となるとやはりとんでもない値段となる。
当時の宿の一泊にかかるのが凡そ二百文程であったから二千人分となると約四十万文。一文を現世でいうところの30円として換算すると1200万円ほどじゃな。
加賀から江戸へは十三日ほどかかる為に、宿代だけでも1億5000万円ほどはかかる計算じゃ。
これに加えて支度(したく)代、行列に必要な衣や武器、馬とその飼葉と馬の宿代、幕府への献上品など。諸々を含めると片道で5億円はかかる。人数が多くなればその分、かかる金も増えてくる。
江戸から遠い島津家は多い時で15億円以上かかったそうで、少しでも宿代を削るため島津家の参勤交代は早朝から夜遅くまで行軍が続いたようじゃな。
因みにであるが、参勤交代の折に難儀したのが天候じゃ。
荒天や川の増水で足止めされ、旅程に遅れが出るとその分、余計に宿代がかかる。
泊まる予定の宿にたどりつかなかった時には手当金、いわゆるキャンセル料も払わねばならんでな。
加賀藩が参勤交代に用いたのは、越後や上野を抜ける北から江戸に進む道(現世の北陸新幹線はほぼこの道を通っておる)が基本だったのじゃが、この道では七十を超える川を渡らねばならず、天候の影響を受ける恐れがあった。
故に稀ではあるが、加賀から近江に向かって中山道から東海道に入って江戸に向かう道を選ぶこともあった。
北からの道筋に比べると100kmほど遠く四日ほど余分に時間がかかったため、あまり使われることはなかったのじゃが、確実さを重んじて日ノ本随一の大街道である東海道を用いたんじゃろうな。
参勤交代が育んだ日ノ本の文化
大名にとっては出費が嵩(かさ)む悩みの種であった参勤交代であるが、民にとっては恩恵が少なくなかった。
街道の宿は大名を相手取って豊かになったし、その周辺も大いに栄えた。
更には各大名が参勤交代に用いる街道の整備に力を入れたことで、民の旅もより快適なものとなったのじゃ。
伊勢参りが代表的であるが、民の間で旅が流行したのもこの影響が大きい。
これによって遠方に住む者同士の交流が行われ、そこでできた文化も少なくない。
名古屋の有松絞りもその代表例であるな。
他にも妻籠(つまご)や馬籠(まごめ)、奈良井宿なんかは観光名所となっておるし、かつての宿場町は古き良き街並みが残る場所が多いわな。
名古屋には中山道の垂井宿と、東海道の宮宿を繋ぐ美濃街道が通っておった。
この美濃街道は、西国から東国へ抜けるのにほぼ必ず通る非常に重要な街道であって、故にこの辺りは大いに栄えた。今に残る円頓寺商店街もその名残じゃな。
名古屋は現世でも日ノ本の交通を語る上で重要な土地であるが、これは昔から続くことなんじゃな!
名古屋が栄えたことには、この参勤交代も大きく関わっておると言えよう。
参勤交代は民にとってなくてはならないものとなり、先に申した縮小で生活に困窮する者が多くあらわれた。
街道沿いの者たちはもちろんであるが、大名たちが江戸に滞在する期間が短くなったことで江戸の経済が滞り、仕事を失うものが後を絶たなかった。
平和な江戸時代が育んだ町人文化は、参勤交代に支えられておったと言えるであろう。
終いに
此度は参勤交代の話をして参ったが、いかがであったか!
諸大名に大きな負荷を与えて反乱の抑止に大いに役立った参勤交代であるが、始まりは大名たちが自ら行い始めた事である。
徳川殿に近づきたい武将たちが徳川殿に会いに行ったり、率先して妻子を江戸に住まわせ始め、三代将軍家光が制度として正式に取り入れたようじゃ。
儂の死後にまつが江戸にくだり、まつに会うために利長が江戸へ赴いたのが参勤交代の始まりとも言われておる。
妻子を主君に預けることは古くから行われておることでもあるし、秀吉も大坂に大名の妻子を住まわせておって、関ヶ原の戦いの前に石田三成がそれを利用しようとしたこともあったわな。
古くから続く風習を上手いこと制度として取り入れた徳川家の手腕によって、幕府の安泰と、日ノ本が世界に誇る技術力の礎となった町人文化が生み出されたというわけじゃ。
今を生きる皆々も、街に意識を向ければかつての街道や宿場町を目にすることができるであろう。
参勤交代によって整備された道を散歩しながら、歴史に思いを馳せるのもまた一興であろう。
取材・文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)
前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。