哲学を勉強するとはどういうことなのか。國分功一郎「修行の場」としての哲学史 より
大好評シリーズ『哲学史入門』の完結編『哲学史入門Ⅲ 現象学・分析哲学から現代思想まで』が6月10日に刊行されました。本記事では、國分功一郎さんがカントの『純粋理性批判』を引きながら哲学史を学ぶ意義について語る終章『「修行の場」としての哲学史』の冒頭を特別公開します。
國分功一郎「修行の場」としての哲学史 より
カント先生から哲学史の意義を学ぶ
斎藤 一口に哲学に入門するといっても、さまざまな入門の仕方があると思います。哲学入門書でも、固有名詞や専門用語を使わずに哲学的思考を身につける本もあれば、具体的なテーマを入り口にして哲学に誘いざなうような本もあります。このように哲学に入門する複数の道があるなかで、哲学史を学んで哲学に入門することにはどのような意義があると思われますか。
國分 いま質問いただいたような問題を考えるようになったのは、自分が教員になって哲学の授業をするようになってからのことです。それまでは、スピノザやドゥルーズのテクストを一つひとつ理解しようと必死に勉強してきただけで、哲学史を学ぶ意義を真剣に考えたことはなかったんですね。
しかも僕は社会科学系の出身で、日本の大学では文学部の哲学科に在籍したことはないので、日本の文学部での哲学史の授業がどういうものなのかも経験していません。だから自分が授業をするようになってからは、自分なりに哲学史を学ぶことの意義を模索してきました。だから今回は、哲学史についてこれまで考えてきたことを話すいい機会だと思っています。
前置きはこのくらいにして本題に入ると、実は以前、カントの『純粋理性批判』のなかのある一節を読んで、それが僕の考えていたことそのものズバリだったというか、「カント先生、そうですよね!」という納得感が得られるものだったんです。だから、今日はそれを引用しながらお話しさせてください。
斎藤 よろしくお願いします。カント先生がどんなことをおっしゃっているのか、興味津々です。
國分 引用するのは、『純粋理性批判』の第二部「超越論的方法論」にあるテクストです。ちなみに、『純粋理性批判』は大きく「超越論的原理論」と「超越論的方法論」という二つのパートに分かれているんですけど、超越論的方法論は超越論的原理論に比べるととても短いので、付録のようなものとして受け取られがちです。このパートについてドゥルーズは、「これはほとんど理解されていない。カントによれば、この〔『純粋理性批判』という〕書物の全ては、方法を論じた百ページに満たないこの第二部を導入するものであるというのに」と言っています(ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』國分功一郎、長門裕介、西川耕平編訳、ちくま学芸文庫、一三八頁)。こういう目配りの仕方にも、ドゥルーズのセンスのよさが現れています。
國分 さて、この「超越論的方法論」の終わり近くに「哲学を勉強するとはどういうことなのか」を説明している箇所があるんですね。大事なところなので、少し長いのですが、そのまま抜き出します。
(以下、カント『純粋理性批判』より引用)
……それゆえ、すべての理性の学(ア・プリオリな)のうちで学習されうるのは数学だけであって、しかし哲学(それが歴史学的なものでないかぎり)はけっして学習されえず、理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されうるにすぎない。
ところで、あらゆる哲学的認識の体系が哲学である。哲学が、哲学することのすべての試みを判定する原型と解されるときには、哲学は客観的な意味のものでなければならず、この原型はあらゆる主観的哲学を判定するのに役立つべきであるが、そうした主観的哲学の構造はしばしばきわめて多様であり、きわめて変化しやすいものである。かくして哲学は、どこにも具体的には与えられていない可能的な学という一つのたんなる理念であるが、長いこと、人は種々さまざまな道をたどってそうして理念に近づこうと努めるのである。ついにはその結果、感性のせいでひどく雑草の生い茂った唯一の小径が見いだされ、これまで失敗してきた模型を、人間に許されているかり、原型に等しくすることが成功するにいたるのである。そのときにいたるまでは人はいかなる哲学をも学習することはできない。なぜなら、どこに哲学はあるのであろうか、誰が哲学を所有しているのであろうか、また何にもとづいて哲学は認識されるのであろうか? 人が学習しうるのは哲学することだけである。言いかえれば、理性の普遍的な諸原理を遵守しつつ或る種の現存する試みに即して理性の才能を鍛錬することだけであるが、それにもかかわらず、そうした現存の試み自身をその源泉において探究して、確証し、あるいは拒否する理性の権利は、つねに保留されているのである。
しかし、そのときにいたるまでは哲学という概念は、一つの学校概念にすぎない、すなわち、学としてのみ求められ、そのさいこうした知識の体系的統一以上の何ものかを、したがって認識の論理的完全性以上の何ものかを、目的としてもつことのない認識の体系という学校概念にすぎない。しかし、さらに世界概念(conceptus cosmicus)というものがあるのであって、この世界概念は、哲学という名称の根底にいつでも置かれていたし、とりわけ、この概念がいわば人格化されて、哲学者という理想において一つの原型として表象されたときには、そうである。この点に関しては哲学は、すべての認識と人間的理性の本質的な諸目的(teleologia rationis humanae)との関連についての学であり、また哲学者は、理性技術者ではなく、人間的理性の立法者である。そうした意味においては、おのれ自身を哲学者と名づけ、理性のうちにしかひそんでいない原型と同等であると僭称することは、きわめて思いあがったことであると言わなければならない。
数学者も、自然科学者も、論理学者も、前二者が総じて理性認識において、後者がとくに哲学的認識において、どれほどすばらしい進歩をとげたにせよ、それでも彼らは理性技術者でしかない。さらに理想における教師というものがあるのであって、この教師は、これらの理性認識すべてを査定し、それらを道具として利用し、かくして人間的理性の本質的な諸目的を促進する。こうした教師だけを私たちは哲学者と名づけなければならないであろう。しかし、そうした哲学者そのものはどこにも見いだされないが、そうした哲学者の立法の理念はいたるところであらゆる人間理性において見いだされるから、私たちはもっぱらこの後者に固執して、何を哲学が、このような世界概念(★)にしたがって、体系的統一に対して目的という観点から措定するかを、いっそう詳しく規定してみようと思う。
★ここで世界概念というのは、あらゆる人々が必然的に関心を抱くものにかかわるような概念にほかならない。したがって私は、或る学が或る種の任意の諸目的に対する練達性についての学としてしかみなされないときには、その学の意図を学校概念にしたがって規定する。
――カント『純粋理性批判』原佑訳、平凡社ライブラリー、下巻、2005年、160-163頁。
「哲学」と「哲学すること」の違い
國分 冒頭の一文「それゆえ、すべての理性の学(アプリオリな)のうちで学習されうるのは数学だけであって、しかし哲学(それが歴史学的なものでないかぎり)はけっして学習されえず、理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されうるにすぎない」ですでに非常に重要なことが言われています。
カントは「歴史学的」な哲学ではない哲学、すなわち「ザ・哲学」のようなものはけっして学習されえないと言っているわけです。歴史学的な哲学を学ぶというのは、プラトンの哲学とかトマス・アクィナスの哲学とかデカルトの哲学などといった、誰それの哲学をまさしく哲学史の一コマとして勉強するということです。
それに続けて「理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されうるにすぎない」とありますね。ここはしばしば「哲学を学ぶことはできない。哲学することを学びうるだけである」というカントの名言として引かれる箇所で、インターネットでもよく目にしますが、このような引用の仕方では、この一節で説かれている哲学史を学ぶ意義についてのカントの主張がないがしろにされてしまっているように感じます。
斎藤 たしかによく見かけますね。たいていは、哲学は受動的に学ぶことはできず、自分で主体的に考えることを学ぶことができるだけだ、といった意味で解釈されている気がします。
國分 このようにパラフレーズしてしまうと、哲学史を学ぶ意義がないがしろにされてしまうだけでなく、「哲学すること」もまた曖昧になってしまいます。 カントはすこし後で、「人が学習しうるのは哲学することだけである。言いかえれば、理性の普遍的な諸原理を遵守しつつ或る種の現存する試みに即して理性の才能を鍛錬することだけである」と説明していますね。
「或る種の現存する試み」とは、これまでに哲学史の中でそれぞれの哲学者が試みてきたことですから、カントの言う「人が学習しうるのは哲学することだけである」とは、一人ひとりが、諸々の哲学体系を勉強しながら、自分の理性的な才能を磨きあげていくことだとわかります。
この続きは『哲学史入門Ⅲ 現象学・分析哲学から現代思想まで』でお楽しみください
國分功一郎
1974年生まれ。東京大学大学院教授。専門は17世紀哲学、現代フランス哲学。著書『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『スピノザ─読む人の肖像』(岩波新書)など。
斎藤哲也
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。