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おれたち日本人には「信仰」がわかるのだろうか?

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おれたち日本人には「信仰」がわかるのだろうか?

リチャード・ドーキンスをひさびさに

リチャード・ドーキンスといえば『利己的な遺伝子』で一世を風靡した学者である。そのドーキンスが無神論の本を著したことはなんとなくしっていた。しっていたが、とくに読んでいなかった。読んでいなかったが、ふと目に止まったので読んでみた。

とくに宗教に関しては、もはや時代は変わったのではないか。十分な知識を持つ人が、世間一般の考えは誤りであり有害であるとの結論に熟考のうえでいたった場合、それを広く知らしめることは、いまや義務とみなされているように思う。少なくとも世人が耳を傾けるような地位や名声を得ている人には、それが求められている。

こうした人が宗教を信じていないと公言すれば、「不信心」(じつに不当な呼び名である)は低い知性やよからぬ性分に由来するという世に流布した偏見は、たちどころに根絶やしにされるだろう。世間の評価も高く、名士と言われるような人たちのどれほど多くが信仰に懐疑的か知ったら、世の人々はさぞや衝撃を受けるに違いない。

……って、これはなんの引用かというと、ドーキンスではない。ジョン・スチュアート・ミルの『ミル自伝』からの一節である。

子ミルは親ミルからやりすぎじゃないかと思われるほどの早期英才教育を受けたことで知られるが、その父ミルの影響で最初から信仰者ではなかった。ジョン・スチュアート・ミルは1806年に生まれて1873年に死んだ。


して、おれが読んだドーキンスは1941年に生まれて、おれが読んだのは『さらば、神よ 科学こそが道を作る』という本を書いたのは2019年のことである。ベストセラーとして知られるのは『神は妄想である』で、こちらは2007年だった。


では、『さらば、神よ』はどんな本なのか。原題は『Outgrowing God A Beginner’s Guide』だ。

要するに無神論の入門書というか、青少年向けに書かれた本といってよい。ティーンエイジャー向けというか。


これを読んでおれは驚いた。リチャード・ドーキンス級の人が、今、この時代に、英語圏、キリスト教圏の国の若者に、こんなものを書かなければならないほどなのか。やはり欧米の信仰心というものはそんなに根強いのか、と。


アメリカの信仰心

もっとも、たとえばアメリカではキリスト教離れが進んでいるという話もある。

米国でキリスト教離れが止まらない、教会の閉鎖も急増中

米国ではいま、多くの教会が急速に閉鎖に追い込まれている。米国人がキリスト教から離れ始めているからである。米社会でいったい何が起きているのか。

全米にはいま約38万の教会があるといわれているが、米東部コネチカット州にあるハートフォード宗教研究所は、「今後20年で30%の教会が存続できなくなる可能性がある」という報告結果を発表した。

こちらの記事によれば、1972年に92%が自らをキリスト教徒と答えていたのに、2020年には64%に減っているという。


一方で、無宗教者も増えている。

アメリカの宗教離れが止まらない!?:増える無宗教者("Nones")と分断される社会

そのような宗教国家アメリカにいま激震が走っている。みずからをキリスト教徒とみなすひとが人口の九割を超えていた時代は過ぎ去り、1972年にはわずか5%だった「宗教的な所属をもたない」("religiously unaffiliated”)あるいは「無宗教」("nones”)を世論調査の質問表で選択するひとがいまでは人口の30%を占めるほどになっているという。対照的にキリスト教徒と自認するひとは人口の60%まで低下した。

こちらの記事によれば、21〜37%のアメリカ人が自らを無宗教とみなしているという。


無神論と無宗教は違う。

むしろ興味深いのは、そうした無宗教者たちの多くが、なんらかの「神」(God)や「至上の存在あるいは力」(Supreme Being or Power)を信じているという点にある。また、特定の団体などに属する意味での「宗教」(religion)は否定するが、精神世界には興味をもつスピリチュアルな人たちもこのなかには含まれている。したがって、無宗教者が増加しているとはいえ、あらゆる宗教を否定する、単純な世俗化が起きていると理解されるべきではないのだ。

「空飛ぶスパゲティモンスター教」を信じているわけでもないようだ。そして、こうも書かれている。

無宗教者が学歴や所得といった社会指標において、全米の平均や無神論者たちよりもはるかに低い値を示している

ジョン・スチュアート・ミルの言っていたこととは違うようだ。


まあ、そういうわけで、宗教離れはおきている。それでも、だ。いまだにリチャード・ドーキンスが『さらば、神よ』と啓蒙書を書かなければならない。


無神論と不可知論と……

現代アメリカにおいて「無神論者」というのはかなり強い意味を持つらしい。選挙戦で「あなたは無神論者かどうかはっきりしろ」と迫る場合もあるらしい。無論、「無神論者である」と言い切ることは難しい。

そこで、べつの名乗りをすることもあるらしい。

名前のある神を信じなくても、「無神論者」という言葉を避けたがる人は大勢いる。そのなかには、ただ「私にはわからない、知りようがない」と言う人もいる。彼らはたいてい「不可知論者(agnostic)」を自称する。

このほかにも、「阪神論者」、バースを神とする関西の……、誤変換だ、「汎神論者」。「私の神は私たちが理解していないすべての深い謎である」と、アルベルト・アインシュタインが述べたような、非アブラハムの神であるとか。あるいは、時空の始まりに万物を作動させただけの「理神論者」だとか。


このあたりの違いは、信仰者、アブラハムの神を信じるものからしたら大きな違いがあるのだろう。

「無神論」と言い切ることへの抵抗というものがそこにはありそうだ。「ありそうだ」としか言えないのは、おれがアブラハムの神を信じる人と交流したことがなく、また、そのような環境(外国)に行ったことすらないからだ。


で、日本人はどうなんだよ?

と、こんなところで、今まで避けてきた「日本はどうなんだよ?」という話になる。「日本人のお前はどうなんだよ?」という話になる。というか、する。


正直、変な上から目線で、「まだ欧米ってそんなところでウロウロしているの?」というのがおれの最初の感想であった。ドーキンスがこんなのを書かなきゃいけないの、遅れてるー。


……とかいうのは、「変な上から目線」にすぎないとわかっている。

もう一度言っておきたい。世界の中のある土地に生まれてしまうということは、ドーキンスが「私がむかつくことのひとつは、小さい子どもに親の宗教のレッテルを貼る習慣だ」と言おうと、「カトリックの子」、「プロテスタントの子」、「イスラム教の子」として生まれてきてしまう。その環境の多くは、その土地のエートスというものがあり、そこから独立して生きることはむずかしい。ジョン・スチュアート・ミルのような特殊な環境にない限り、周囲の宗教を身に着けてしまう。


このごろ、「宗教二世」というと、社会にとってかなり異端とされる新興宗教の信者の子を指すことになるだろうが、伝統宗教の場合でも二世……どころか何十世になるに違いない。


でも、日本人の場合どうなの? と、なると、家の環境と関係あろうとなかろうと、そこまで確固たる信仰を持っている人はあまり多くないかもしれない。なんとなく仏教かもしれない、神社に行くかもしれない、いや、原始的なアニミズムみたいなもんですよ……。


さんざんああだこうだと言われてきた日本人の宗教観ということになる。戒律嫌いの儀礼好き、八百万の神原理主義……。

おれは正月になると神社と寺をはしごする。クリスマスは祝わないかもしれないが、スーパーで安くチキンやケーキを売っていたら買ってしまうかもしれない。チキンやケーキがクリスマス? まあいい。このなんとなく「日本人的でしょ?」の宗教観みたいなやつ。日本人は日本教とか、そういう言い方もある。


日本教といえば山本七平だが、山本七平の本にこんなエピソードがあった。南方で日本兵を捕虜にした米兵が、現人神を信じるおろかな日本人にダーウィンの進化論を教えようとしたら、そんなもの当然知っていると言われ驚いたという話だ。

日本人好みのエピソードのように思える。それはそれ、これはこれ。でも、これで命を捨てて戦争までしてしまう。一神教のものから見たら、異教徒よりも狂っているように見えるかもしれない。


おまえの信仰はどうなんだよ?

では、おれの信仰はどうなんだよ? という話をしたい。

たとえば、あり得ない話だが、諸国の外国人たちと会話するとする。「おまえは神を信じているか? なんの宗教を信じているのか?」。そんなことを訊かれたら、おれは迷いなく「仏教徒だ」と言うつもりだ。


だが、「I am a Buddhist and I follow Jodo Shinshu.」ということになる。この英語が正しいか知らない。


我が家は浄土真宗だった。我が家というか、母方は代々浄土真宗の檀家だった。父方はよくわからない。化学博士で、パーキンソン病を患った祖父は、病にかかったあとキリスト教の洗礼を受けたという話だが、そういう話が伝わっているだけで、同居していた我が家にはいっさいキリスト教の影もなかった。葬式も、今で言う家族葬的な感じで済ませたのではなかったか。


まあとにかく、父方の親戚とは縁遠かった。

それはどうでもいいが、法事となると母方の親戚の集まりということになって、それが浄土真宗の寺であった。そこからおれは浄土真宗をフォローするように……なったわけではなかった。ぜんぜん違う。


おれが勝手に仏教に興味を持ったのは、勝手に松岡正剛の『空海の夢』を読んだところからだった。

ずいぶんうさんくさいところから入ったな、と言われればそうかもしれないが、「仏教」というものを「なんまいだー」くらいでしか認識していなかったおれには目からウロコのところがあった。仏教とはこういう解釈もできるものなのか、と。


その次に接近したのが禅というか、鈴木大拙の禅、鈴木大拙の仏教であった。最初は『鈴木大拙随聞記』という本から入った。こんなことが書いてあった。

『神が天地をつくった』という。神が創造者になるということは、能造と所造とが分かれるということになる。ところが東洋のほうでは、『神がまだ道あれとも、光あれとも、何ともいわない前の神を掴め』というのだ。神が『光あれよ』といえば、もう二つに分かれてしまう。だから『光あれよ』ともいわない、唇のまだ動く以前の神をつかめという。これは天地未分だ。それが六祖慧能の『不思善、不思悪、父母未生以前の汝の本来の面目を見よ』
ということになる。

ということになるのだよ。おれはずいぶん鈴木大拙の本も読んだし、周辺の本も読んだし、批判も読んだ。して、なお、おれのなかには鈴木大拙の影響は大きい。え、でも浄土真宗なの?


結局おれも親の宗教を受け継いだのか

でも、最後には浄土真宗がいいな、となってしまった。これは吉本隆明の影響が大きい。

仏教の本をいろいろと読み進めるうちに、『最後の親鸞』にぶち当たった。

これに大きな影響を受けた。空海の世界の広さも、一遍上人のアナーキーもいいだろう。でも、親鸞がいい。そう思った。


と、思ったおれの父は吉本隆明信者であった。本棚一つ、全部吉本隆明の本で占められていた。『試行』も創刊号から全冊揃えていた。

おれはそんな父による教育を受けていた。教育ではないか。でも、影響は受けていた。本は読んだことなかったが。


おれが吉本隆明を読み始めたのは、一家離散して、父と会わなくなって何年も経ってからだ。なにから読み始めたのかは忘れた。ただ、三つ子の魂なんとやら、おれに吉本隆明はしっくりきた。そして、その親鸞論、信仰論もしっくりきた。

……つまり「人間は、真実の信仰の場所にいける時もあるし、また時に応じてそこにいけなくて、不信の状態に陥ることもある。人間とはそういうものなんだ。だからそういうものにとって真宗の信仰はどうなるのがいいのか」という具合に、親鸞は人間を理解しているわけです。

だけど蓮如は、自分も信仰の人だし、それから真宗に帰依している並み居る人たちもみんな信仰の人だということを、ちっとも疑っていないという状態で、ものを言っているわけです。

だけど、人間に対する考え方としては、本当じゃないように思えます。親鸞の考え方のほうが、本当のような気がします。人間というのはいつでも信じることと信じないこと、浄土を信じるか信じないかということだけじゃなくて、他人を信じるか信じないかということでもそうなのですが、信じている時もあるし、時に不信に陥る時もあるのが人間のあり方で、そんなに人間は立派ではないけれど、そんなに駄目でもないんだよというのが、親鸞の人間に対する考え方だと思います。

「そんなに人間は立派ではないけれど、そんなに駄目でもないんだよ」というあたりがいい。

そして、信仰者として立派でないところをまあしょうがねえよというくらいに肯定するところがいい。

弟子に「自分は名号念仏を称えても、少しも喜ばしい心にならないし、浄土がいいところだと言われても、そこへゆこうという気持ちがちっとも起こらない。これはどうしてだろうか」と聞かれて、「おれもそうだ」と答える。

そのうえで、「もしも我々が煩悩具足の人間でなくて、すぐにでも浄土にいきたい気持ちになれるのだったら、阿弥陀仏の第十八願などいらないことになり、阿弥陀仏のほうで、これでは救済も不要だと落胆されるだろう。自分たちはごく自然に命脈が尽きた時に浄土へゆけばいいんだよ」と言う。


あくまで、阿弥陀仏が願ったこと。これこそ他力本願。浄土へ行くため善行をつもうとかいう人間のはからいなどは、むしろ不要。もう、救われちまっているんだ。

これがキリスト教の予定説と違うところは、「救済されない人間が予定されていない」ことだ。悪人正機というくらいだ。薬があるのにあえて毒を飲むことはないが、さりとて人間は契機があれば千人だって殺してしまう。そういう必然を背負っている。


しかし、信仰の内側に行くには?

と、ここまで急に浄土真宗の話をしておいて、そもそも最初に信仰していると書いておいて、おれのなかに信心というものがない。「信」の内側にいるとはとうてい思えない。それは吉本隆明も一緒で、内側の人間のことがあと一歩でわからんという。


それでも、おれには宗教があるといえるのだろうか。正直、わからん。

「阿弥陀様のほうで勝手にやっていてくれるから」でいいのか。「南無阿弥陀仏」と口にすることはあるよ。エアトゥーレの子にナムアミダブツというのがいるし。関係ねえな。でも、わからん。「わからんというのがいいんだ」と言われることが信仰になるのか。なったとしたら、それはもはや信仰だろうか? 宗教だろうか?

ちょっとどの本か忘れたが、吉本隆明は鮎川信夫との対談でこんなことを述べていた。

「本当に親鸞が考えている死というのは「正定のくらい」であって、突きつめていけば、仏教、特に浄土教に対する全体的な〈不信〉のような気がします。親鸞は仏教徒ではないのか。多分もうぎりぎりのところまで仏教徒でないわけだと思うんです」

親鸞自身すら「不信」というのだから、もうわけがわからない。


というわけで、「神をさらば」したと思いながらも、信仰にとらわれるおれ。信仰への目覚めは、なにか雷に打たれるようなものかとも想像するが、想像にすぎない。

理屈なのか、理屈でないのか。世の中、信仰に目覚めた人が、そのきっかけについて書いた本も多いだろう。でも、それはもう信仰の内側からの声だ。たぶん、届いてこない。


ところで、おれは雷に打たれたいのだろうか。

もしも大安心がえられるならば、アブラハムの宗教でも信じてやっていいと思っているが、いまのところお誘いもこない。こんなおれにくるはずもない。というか、そのまえにドーキンス先生に叱られてきたほうがいいのだろうか?

***


【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Japanexperterna.se

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