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慌ただしい現実の中に、小さな安全地帯を持つ――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」

NHK出版デジタルマガジン

慌ただしい現実の中に、小さな安全地帯を持つ――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」

人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、韓国のいまを伝えます

 流行語、新語、造語、スラング、ネットミーム……人々の間で生き生きと交わされる言葉の数々は、その社会の姿をありのままに映す鏡です。本連載では、人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、辞書には載っていない、けれども韓国では当たり前のように使われている言葉を毎回ひとつ取り上げ、その背景にある文化や慣習を紹介します。第1回から読む方はこちら。

#7 무해력(ムヘリョク)

 この春、韓国のSNSには「あの子」の写真がまた流れ始めた。ジャイアントパンダの福宝(プーバオ)だ。ちょうど1年前、2024年4月に中国へ帰国したこのパンダのことを、人々はいまも忘れていない。

 韓国で初めて自然繁殖によって生まれ、エバーランド(京畿道龍仁にある韓国最大級のテーマパーク。動物園エリアもある)で育った福宝は、「龍仁のプーさん」「福姫」などの愛称で親しまれた。帰国の知らせが伝えられたとき、SNSには「行かないで」「ありがとう」「癒やされたよ」という言葉があふれ、多くの韓国人が別れを惜しんだ。

 福宝人気がピークを迎えたのは2023年のこと。園内で泥だらけになって転がる姿や、飼育員にじゃれつく様子は動画で何度も拡散され、「争わず、誰も傷つけず、ただそこにいるだけで癒やしになる存在」として、韓国社会に静かな感動を与えた。

 こうした「福宝現象」をきっかけに、韓国では「무해력(ムヘリョク)(無害力)」という言葉がじわじわと浸透しはじめた。声を荒らげず、誰も否定せず、場の空気をやわらかくする力。それは、ストレスと分断が深まる現代社会に必要とされる新しい価値観だった。

 今回は、この「무해력(ムヘリョク)」というキーワードを通して、韓国の若い世代がどんな「安心」と「やさしさ」を求めているのかを考えてみたい。

ぬいぐるみとともに生きる

 いま、韓国の20〜30代は手のひらサイズのぬいぐるみやキーホルダーに夢中だ。カカオやラインなどのオンラインショップ、街角のアクセサリー店、ダイソーなど、どこにでも売られている。こうしたアイテムは、ただ「かわいい」だけではない。「癒やし」や「安心」、そして「否定されない空気」が詰まっている。

 象徴的なのが、子供向けアニメ『キャッチ! ティニピン』の人気だ。2020年に放送が始まったこの番組は、本来幼児向けに制作されたものだが、大人たちが「今日は피곤핑(ピゴンピン)(疲れピン)」「週末は탕진핑(タンジンピン)(散財ピン)」「야근핑(ヤングンピン)( 残業ピン)」など、キャラになぞらえてその日の気分を「○○ピン」とSNSに投稿するのが定番になった。

 こうした投稿には、対立や批判が生じるリスクがない。「今日の私」をやさしく見つめ、共感でつながる。무해력(ムヘリョク)とは、まさにそうした空気を生む力で、雰囲気をやわらげてくれる。

 この文化を支えるのが「백꾸(ペック)(バッグ飾り)」というトレンドだ。街を歩く人のバッグやリュックには、小さなぬいぐるみやキャラチャームがぶら下がっている。韓国ではジェンダーを問わず当たり前の風景だ。

 近年では、マスコットを付けることを前提にデザインされた「飾れるバッグ」も登場し、人気を集めている。日本の推し活カルチャーでは「痛バッグ(痛バ)」と呼ばれるようだ。

 私もその波に乗ってひとつ購入した。ポケットの位置や透明カバーの仕様が、ぬいぐるみを引き立てるよう工夫されているので、私は気分によって「モケケ」を入れ替えて楽しんでいる。歩きながらちらりと視界に入るだけで、肩の力がふっと抜ける気がして、「無害な存在」の力を日々感じている。

自分の心を守るための選択

 무해력(ムヘリョク)アイテムは、買うだけではなく、作る楽しみにも広がっている。

 最近人気なのが、手編みのぬいぐるみやモチーフをバッグに飾る「編みぐるみ」だ。韓国の出版社によると、こうした手芸本は20〜40代が購買層の9割を占めるという。かつては「母が子どもに作ってあげるもの」とされていた手作りのぬいぐるみが、いまは若者にとっての「自己表現」であり、「癒やし」として再発見されているのだ。

 趣味の編み物といえば、かつてはセーターや帽子といった実用的な手芸が人気だった。ところがコロナ禍以降は、うさぎや花のように自由な形や色を楽しむクラフトが人気を集めている。つくる時間そのものが무해력(ムヘリョク)的で、自分の感性をそっと差し出す行為と言えるかもしれない。

 こうした「無害でやさしいもの」に惹かれる大人たちは、韓国で「어른이(オルニ)」と呼ばれている。大人を意味する「어른(オルン)」と子どもを意味する「어린이(オリニ)」を組み合わせた言葉だ。ポイントは、ただ単に「子どもっぽい趣味の延長」ではないこと。大人たちは、自分の心を守るためにあえて「無害なもの」を選択をしているのだ。

 ロンドン発のぬいぐるみブランド「ジェリーキャット」も、いまやソウルの어른이(オルニ)たちの間で欠かせないアイテムだ。かつては赤ちゃん向けだったが、いまでは大人向けの癒やしアイテムとして親しまれている。当然、ソウルに住む私もいくつか持っている。

「ぬいぐるみ=子供向け」という固定観念は、もう過去のものになりつつある。カフェや旅先でぬいぐるみと写真を撮る「ぬい撮り」は、韓国でもすっかり定番だ。誰かに見せるためではなく、自分のために。ただそばにいてくれることがうれしいのだ。

「無害なもの」に惹かれる理由

 어른이(オルニ)文化は、ただのかわいいブームではない。それは、日常にささやかな彩りを添えながら、自分を傷つけないための、いまを心地よく生きるための方法だ。

 무해력(ムヘリョク)という言葉も、そうした時代の空気を移している。一見すると「無害」と「力」は矛盾しているように思えるかもしれない。でも、声を荒らげずとも人を動かす、静かでやさしい力がある。

 その背景には、社会の疲弊がある。情報の波に押され、評価され、比べられる日々。SNSでは誰かに傷つけられ、職場では成果と効率を求められる。「正しさ」が過剰になり、それでも「何者かにならなければ」と焦らされる。そんな中で、어른이(オルニ)たちは無害な存在に心を預けているのだ。

 無害なものは主張しない。声を発さずとも、そっと寄り添ってくれる。その存在は、目立たずとも誰かの心を支えている。어른이(オルニ)たちは、そんなやさしさを、自分のバッグに、棚の上に、スマホの壁紙に、そっと忍ばせているのだ。

 政治の現場を見ても、무해력(ムヘリョク)が求められる理由は明らかだ。韓国では近年、選挙のたびに分断が激化し、SNSでは罵倒や誹謗が飛び交う事態が続いている。有権者たちは「どちらかに立たなければならない」という息苦しさを感じている。そんな社会で、無害でやさしい存在に惹かれるのは自然の流れだろう。

 類似した文化は、日本や欧米にもある。「キダルト(kidult、kid+adult)」という言葉は、大人が子供時代の趣味を楽しむカルチャーを指す。フィギュアやレゴ、カードゲームなど、懐かしさや達成感に浸る楽しみがある。

 けれど、韓国の어른이(オルニ)文化は少し違う。어른이(オルニ)たちが求めているのは「懐かしさ」より「避難」だ。ティニピンのキャラになりきり、ぬいぐるみをバッグに付けて、慌ただしい現実の中に小さな安全地帯を持つ。「かつて好きだったもの」に戻るというより、「いまの私を守ってくれるもの」をそばに置く。この感覚が、무해력(ムヘリョク)という価値観と深く響き合っている。

あえて競争を降りる「強さ」

 무해력(ムヘリョク)は、ただの受け身ではない。あえて声を荒らげない、あえて誰も批判しない、あえて人を裁かず、あえて競争を降りる――そんな選択ができる「強さ」のことだ。

 思い出してほしい。ぬいぐるみのやさしい手触り、モケケのほほ笑み、そして竹をむしゃむしゃと食べるだけの福宝。そのどれもが「そこにいるだけでいい」存在だ。

 무해력(ムヘリョク)は、この時代の「静かなサバイバル戦略」なのかもしれない。そして、その무해력(ムヘリョク)の先にあるのが、「아보하(アボハ)」という、小さな幸福のかたちだ(連載第6回参照)。

 何も達成しなくてもいい。ただ今日、穏やかに過ごせたことに感謝する。それは派手じゃないけれど、確かな幸福。キラキラしていないけれど、今日を静かに乗り越えられた自分をやさしく肯定してあげること。それこそが어른이(オルニ)たちが大切にしている一番やさしい生き方なのかもしれない。

 無害なぬくもりの中で、少しだけ自分を許せた今日。それだけで、もう充分ではないだろうか。

プロフィール

金光英実(かねみつ・ひでみ)
1971年生まれ。清泉女子大学卒業後、広告代理店勤務を経て韓国に渡る。以来、30年近くソウル在住。大手配信サイトで提供される人気話題作をはじめ、数多くのドラマ・映画の字幕翻訳を手掛ける。著書に『ためぐち韓国語』(四方田犬彦との共著、平凡社新書)、『いますぐ使える! 韓国語ネイティブ単語集』(「ヨンシル」名義、扶桑社)、『ドラマで読む韓国』(NHK出版新書)、訳書に『グッドライフ』(小学館)など。

タイトルデザイン:ウラシマ・リー

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