『古代中国』皇帝が死んだ後、後宮の妃たちはどうなった?悲しき8つの運命
「佳麗三千(3千人の美女がいる)」と称された古代中国の後宮。
華やかな衣装、贅を尽くした宮殿、そして皇帝の寵愛を受けた妃たちの姿は、しばしば絢爛なイメージとともに語られてきた。
だが皇帝の死後、後宮の女性たちの運命は大きく分かれた。
中には、皇子の母として太后に迎えられ、政治の実権を握る者もいれば、特別な寵愛や立場を生かして新たな地位を築いた妃嬪もいた。
一方では冷遇され、過酷な末路をたどる女性たちも少なくなかった。
今回は、古代中国の後宮において、皇帝の崩御後に妃嬪たちが辿った「八つの運命」を紹介したい。
① 「出宮」〜外の世界へ放り出される
皇帝の崩御をきっかけに、最も多くの妃たちが迎えるのが「出宮」だった。
といっても、それは晴れて自由の身になるという意味ではない。
後ろ盾であった皇帝を失ったことで、彼女たちは“必要のない存在”となり、宮廷から追い出されるようにして外の世界へ放り出された。
新皇帝にとっては、父の後宮はあくまで前代の遺物であり、政治的・礼法的にも整理が求められたのだ。
出宮を命じられた妃嬪の行き先はさまざまだが、多くの場合は実家か、郊外の屋敷に移された。
中には僧院に入れられる者もいれば、地方の官吏に引き取られる例もあった。
ただし、出宮にあたって一応の補償金が与えられることもあり、身分によっては衣食住には困らない待遇もあったようだ。
しかし、宮中という閉ざされた空間しか知らずに生きてきた女性たちにとって、突然の「社会復帰」は決してやさしいものではない。
ましてや子もおらず、実家の力も弱ければ、ひっそりと暮らすしか道は残されていなかった。
特に、明代以降は「皇帝に仕えた女性は、他者に再び嫁すべきではない」という貞節観念が強まり、妃嬪たちの行き先はますます限られていった。
後宮から出るという決定は、表向きは穏やかな処分に見える。
だが、その実態は、人生の静かな幕引きに等しかった。
② 「守陵」〜死者とともに生きる孤独
皇帝の死後、一部の妃嬪たちには「守陵(しゅりょう)」という任務が与えられた。
陵墓の番を任されるという名目で、妃嬪たちは宮中を離れ、人里離れた寂しい地へと送られていったのだ。
表向きは“皇帝の霊を守る役目”を与えられたように見えるが、実態としては宮廷からの穏便な追放、あるいは生涯にわたる懲罰に近かった。
守陵は名誉ある任務とされつつも、選ばれるのはたいてい、子を持たず、政治的後ろ盾もない妃嬪たちだった。
後宮における存在意義を失った彼女たちは、新皇帝にとっては不要な存在であり、しかもむやみに殺すこともできない。
そうした“中途半端な存在”が、陵墓に幽閉されるというかたちで処理されたのだった。
記録によれば、漢の成帝の皇后・趙飛燕(ちょうひえん)は、失脚後に守陵を命じられたともされ、その知らせを受けた夜のうちに自ら命を絶ったという。
後宮で絶大な寵愛を受け、一時は権勢を振るった彼女にとって、ひっそりと陵墓に暮らす老後は、何よりも耐え難い屈辱だったのだろう。
一方で、守陵を進んで受け入れた者もいる。
成帝の妃であった班婕妤(はん しょうよ)は、晩年、自らの意思で皇帝の陵墓に仕える道を選んだと伝えられている。
これは、自己犠牲という儒教的美徳の実践であると同時に、後宮内の権力闘争から身を引くための穏やかな逃避でもあった。
守陵とは、表向きは敬意に満ちた務めであっても、実際には世間から隔絶された長い孤独の始まりでもあったのだ。
③ 「出家」〜尼僧として生きる
出宮もできず、守陵にも回されない妃嬪たちにとって、もう一つの「穏当な処遇」として選ばれたのが「出家」である。
出家は、表向きこそ“仏門への帰依”とされたが、実際には王朝の新たな秩序の中で、妃嬪たちの影響力を排除するための制度として機能していた。
とくに南北朝以降、仏教が国家と強く結びつくようになると、いわば「後宮の余生施設」としての尼寺が整備され始める。
妃嬪たちは皇室の名義で出家し、一定の身分と暮らしを保障される代わりに、俗世から隔絶された人生を送ることを求められた。
有名な例が、武則天である。
彼女はもともと唐の太宗・李世民の妃の一人であったが、太宗の死後に感業寺へ送られ、尼となった。
しかし彼女はその後、唐の高宗・李治の後宮に戻り、最終的には自ら皇帝の座にまで上りつめることになる。
武則天のような例は極めて稀ではあるが、「出家=一生の終わり」とは限らず、体制が変われば、再び表舞台に立つ道も残されていた、
また『宋史』には、哲宗の皇后だった孟氏が後宮の粛清に巻き込まれて廃され、出家したものの、後の政変によって「元祐太后」として復権し、実際に垂簾政治をおこなったことが記されている。
※垂簾政治(すいれんせいじ)とは、皇帝に代わり、皇后や太后が簾の奥から政治を行う形態。
とはいえ、彼女たちのように実際に復権できた例はごくわずかであり、大半の女性たちは寺院の静寂な暮らしの中でその生涯を終えている。
表向きは安穏で清らかな出家という道も、実際には後宮から静かに排除するための装置にほかならなかったのだ。
④ 「殉葬」〜皇帝とともに墓へ
皇帝の死とともに命を奪われる「殉葬」は、最も過酷な仕打ちであった。
そもそも殉葬は、王や貴族の死に際し、生者をあの世への供え物とする習わしとして始まったとされる。
やがて制度化されると、その対象は妃嬪や側女にとどまらず、宦官や侍女にまで広がっていった。
こうした風習に対し、儒家の祖・孔子は早くから否定的な立場を取っていた。
しかし、その考えが社会や国家に広く受け入れられるには、まだ多くの時間を要した。
実際、秦の始皇帝が没した際には、多くの妃嬪が生きたまま殉葬させられたと伝えられている。
『史記』によれば、子のない後宮の女性たちはすべて墓に陪葬され、地中深くに閉じ込められて命を奪われたという。
「二世曰:『先帝後宮非有子者,出焉不宜』皆令從死,死者甚眾」
意訳: 二世皇帝は言った。「先帝の後宮に仕えていた者で、子を持たぬ女は外に出すべきではない。」そうして彼女たちをすべて殉死させ、多くの命が奪われた。
引用:『史記』巻六「秦始皇本紀」より
また、明の開祖・朱元璋は、いったん廃れていた殉葬制度を復活させた数少ない君主である。
晩年の彼は、後宮の秩序維持と忠誠の証を重視し、制度として妃嬪らの殉死を命じた。
法令にもこれが明文化され、彼の死後には実際に数十人の女性が陵墓に殉葬されたと伝えられる。
しかし、その苛烈さに対する批判も強く、ついに明英宗の代で制度は公式に廃止された。
以後、生者が皇帝とともに命を絶たれることはなくなったものの、形式的な「自死の強要」や「儀礼的殉葬」といった形で、なお名残が続いたともされる。
妃嬪にとっての殉葬とは、抗うすべもない一方的な命令であり、寵愛の深さがむしろ死を呼び込む皮肉な制度でもあった。
名を残すことも許されず、ただ静かに墓中に消えていった彼女たちの最期は、栄華の陰に潜むもっとも痛ましい終焉の一つと言えるだろう。
⑤ 「賜死」〜新たな権力者による粛清
皇帝の死によって終わるのは一つの時代だけではない。後宮における力の均衡もまた、大きく変化する。
ときに新たな皇后や太后、あるいは皇帝自身の親族・側近の手によって、先帝の愛妃たちは“処分”の対象とされることがあった。
それが「賜死(しし)」という形での粛清である。
これは刑罰ではなく、あくまで「恩寵」による死、つまり自害を命じる儀礼的措置とされた。
しかし、実際には権力闘争や私怨の結果であることが多く、その実態は暗殺に近かった。
最もよく知られているのが、前漢初期の戚夫人(せきふじん)の例である。
彼女は漢の祖・劉邦の寵妾であり、劉邦の子である趙王・如意を皇太子に立てようとした。
だが、正妻である呂雉(りょち)はこれを激しく憎み、劉邦の死後、戚夫人を捕らえて凄惨な拷問の末に殺害した。
また、後漢末の皇后・窦妙(とうみょう)は、皇帝の崩御直後に、夫が寵愛した貴人・田聖をその場で処刑した。
これらの事例に共通しているのは、「賜死」が制度としてではなく、個人の感情や政治的打算によって実行されている点である。
後宮における“女の戦い”の最も陰惨な帰結であり、妃嬪という身分がいかに不安定な立場であったかを物語っている。
⑥ 「宮中での余生」〜老境を迎える静かな日々
皇帝の崩御後も、運よく出宮や出家、殉葬の対象とならなかった妃嬪たちは「宮中にとどまり続ける」という選択肢を与えられることがあった。
とくに身分の高い貴妃や寵愛を受けた妃嬪、または高齢の妃嬪たちは、そのまま皇宮内の一角に住まい、慎ましく余生を送った。
この処遇は一見すると穏やかで安定した老後のように見えるが、実際には階級や寵遇によって生活の質には大きな格差があった。
格式の高い妃には専属の侍女や医師がつき、衣食住に不自由のない環境が整えられた一方、階級の低い者には自給自足を求められることもあった。
耕作や裁縫で生計を立てたり、一族からの援助でなんとか暮らしを維持していた者もいたという。
また、宋代以降はこうした女性たちのために専用の居所が整えられるようになった。
たとえば北宋では「掖庭(えきてい)」がその役割を果たし、明・清の時代には離宮や外苑の一角が後宮の年長者の居住地とされた。
とはいえ、後宮においては「現役」から外れた女性たちは、しばしば忘れられた存在となった。
儀礼には呼ばれず、日々の決定権も持たず、ただ静かに老いを重ねていく。
その暮らしは侘しく、時に孤独であったが、少なくとも命を脅かされることのない、数少ない安定した運命の一つではあった。
⑦ 「随子終老」〜皇子に仕えて生きる
皇帝とのあいだに皇子をもうけた妃嬪たちは、他の女性たちとは異なる道を歩むことができた。
その最たるものが「随子終老(ずいし しゅうろう)」と呼ばれる生き方である。
皇子に付き従い、その封地や邸宅で余生を送るという穏やかな道であった。
儒教では「子は母を敬い、養うべし」とされ、妃が皇子を産んだという事実は、後宮における彼女の確かな地位を意味していた。
皇子が諸侯に封じられれば、その地で「王太妃」として遇され、やがて皇帝となれば、「皇太后」として後宮の頂点に立つこともできた。
また、明代以降には、皇子の昇進にあわせて母の位階も引き上げられる制度が整備されるようになった。
「母以子貴(子の位によって母の位も上がる)」という儒教的観念は、実際の官制や封号にまで影響を与え、明文化されたのである。
こうした「随子終老」は、妃嬪にとって最も安定し、名誉ある晩年のかたちとされた。
裏を返せば、子を産むことができなかった妃嬪たちは、たとえ同じく皇帝に仕えた身であっても、まったく異なる結末を迎えることになったのである。
⑧ 「新皇帝の後宮に再編入」〜禁じられた引継ぎ
「先帝の後宮に属した妃嬪が、そのまま新たな皇帝の後宮に再び迎えられる」ーー本来これは、礼法上きわめて不適切とされる行為だった。
儒教では、父の妃に手を出すことは「大逆無道」の禁忌とされ、とくに「継母を娶る」ことは、天の秩序を乱す行いとして非難された。
とはいえ、王朝のはじまりや政変の混乱期には、先代の皇帝に仕えていた妃が、そのまま新しい皇帝の後宮に入るということもあった。
その一例が、隋の煬帝・楊広である。
彼は父・隋文帝の崩御後、父の妃だった宣華夫人・陳氏を自分の後宮に迎え入れた。
この行動は大きな非難を呼んだが、彼自身はあくまで正当なものとし、父の葬儀が終わらぬうちに関係を持ったとも言われている。
また、先述した唐代の武則天も、この禁忌を越えた存在だった。
彼女はもともと太宗・李世民の側室(才人)だったが、皇帝の死後に出家。
その後、太宗の子である高宗に見初められて再び宮中へ戻り、やがて正式に皇后となり、最終的には自ら皇帝に即位するという、禁忌を超越した存在となっている。
しかし時代が進むにつれ、旧帝の妃が新帝の後宮に入ることは表立って消えていった。
このように後宮とは、いつの時代においても栄光と苦悩、愛と権力が交錯する場所であった。
そして皇帝の死は、制度の名のもとに、数多の女性たちの運命を翻弄し続けたのである。
参考 :『史記』秦始皇本紀『漢書』外戚伝『宋史』『隋書』他
文 / 草の実堂編集部