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平塚市長にインタビュー -平塚市長 落合かつひろの現在地

湘南人

神奈川県のほぼ中央に位置し、約26万人が暮らす平塚市。富士山と箱根連山を眺望しながら、1年を通じて多彩なマリンスポーツを楽しめる、湘南らしい穏やかな気候が魅力です。

夏の風物詩となっている「湘南ひらつか七夕まつり」では、駅前の商店街が豪華絢爛に飾られ大勢の観光客で賑わうほか、Jリーグ・湘南ベルマーレのホームスタジアムがあることから、スポーツ文化が息づくまちとしても知られています。

恵まれた環境と都市機能が調和し、あらゆる世代が快適に暮らせるまちとして注目される一方、少子高齢化や防災など、解決すべき地域課題も抱えています。

このまちの未来を見据え、「あったかひらつか」を合言葉に4期目の市政を進める落合克宏(おちあい かつひろ)市長に、これまでの歩みとこれからの展望を伺いました。

なお、写真は、2025年7月4日から同月6日にかけて開催された、第73回湘南ひらつか七夕まつりでの様子を撮影したものになります。

「平塚らしさ」とは

Q1 平塚で生まれ育ち、市役所職員としての経験を経て市長に至るまでの歩みの中で、「平塚らしさ」を強く実感された瞬間があれば教えていただけますか?

私はいわゆる「村」のような、小さな共同体の中で育った人間なんですよ。講 (こう)と呼ばれる、お互い助け合いながら暮らす文化が残っているような。

子どもの頃はその意味をあまり意識していませんでした。けれども、大人になっていく中で、人との繫がりのあたたかさ、その大切さを実感するようになりました。

2024年3月に決まった「あったかひらつか」というスローガンも、もともとはそういう意味なんです。平塚の「人のあたたかさ」「気候のあたたかさ」、それがスタート。そして平塚を訪れると、「それもあったか!」とこのまちの宝物に気づくという。

「平塚らしさ」といってまず頭に浮かぶのは、やはり七夕まつりですね。2011年4月に市長に就任しましたが、東日本大震災の年でしたから、震災直後は計画停電などでまちが混乱していて、前任の市長は七夕まつりの開催は困難と判断されていました。けれども、七夕まつりは1951年、戦後の復興を願って始まったものです。

市長に就任して私が最初にしたのは、平塚警察署に出向き、「震災復興のために、七夕まつりを開催させてほしい」とお願いすることでした。「東北に元気を届けたい。どうか警備協力をお願いしたい」と。

私自身、「なんとしても開催したい」という気持ちが強かったですし、中心商店街の方たちや観光協会の方たちからも、「ぜひ実施してほしい」という声が多数寄せられていました。七夕を愛する気持ちや戦後の伝統を絶やしてはいけないという思いが、市民の間に根強くあるのを感じましたね。

市民と向き合う最前線で磨かれた視点

Q2 市役所での経験を経て市長に就任されたことにより、「行政内部を理解している強み」はどのように市政運営に反映されているのでしょうか?


1981年からトータルで約21年間、市の職員として働きました。実務を知っていること、これは市長になってからの強みになりましたね。どこでどんな部署が何をやっているか、組織の構造を把握していますし、在籍した各組織で予算編成にも携わってきましたから。

公民館の主事をやっていた時期もあるんです。平塚には、概ね小学校区ごとに公民館があり、その数は26か所。これは全国的にも平塚だけ。

公民館は、地域の情報や活動の拠点として大きな役割を担っている。主事として地域の方々と密接に関わる中で、叱られることもありましたが、努力すればしっかりと評価してくれる。可愛がってもらいました。まさに、市民との接点の最前線にあたる仕事でしたね。

おかげで今、市長という立場になっても、地域の人たちがどういう考え方をしているのか、「市民の声」を現実味をもって受け止めることができているんだと思います。

私は市役所の中でも、総務や企画のような管理部門ではなくて、現場仕事が中心だったんですよ。最初の配属先は商工課。その後、青少年課で青少年育成。会計課では主に書類をチェックし、市民税課に異動してからは税制関係。特別徴収、つまり給与天引きでの税徴収の管理もやりました。それから、お伝えしたように岡崎公民館の主事。その後は防災課でも働きました。

多様な現場経験を通して、現場感覚が培われたんでしょうね。市民は時に思い思いの要望を持ちますが、行政としては、市民がどう感じているかをとらえながら、同時に全体を見渡す視野で「どうあるべきか」を考える必要があります。そこでの判断力は、長年の現場経験があるからこそだと思っています。

  市長になられて、職員時代とのギャップを感じられる場面もあったのではないでしょうか?

ギャップを大きく感じたということはありませんね。もしひとつあるとしたら、「市を代表する立場として、言動に細心の注意を払う必要がある」ということかな。公民館主事をしていた若い頃は「本庁の常識は地区の非常識、地区の常識は本庁の非常識」と、仕事の対しての考え方について若手職員の間で話したものです(笑)。

しかし今、この立場になってみて思うのは、現場目線で突き進むことも大事ですが、行政を動かす以上、根拠や予算、全体設計をもって考えなければならないということです。

また、職員時代は国や県の政策がそこまで身近ではありませんでした。私は管理職手前までだったので、国や県との直接的な折衝はありませんでしたが、管理職は大変だと思いますよ。直近で言えばコロナ対応。まさか自分が生きている間に、あんなパンデミックが起こるとは思っていませんでした。ワクチン対応や交付金などは、国の方針を受けて自治体が運用しなければならない。国が「交付金を出す」と言えば聞こえはいいですが、実際にその制度を調整し運用するのは自治体ですからね。

もうひとつ言えば、私は市長になる前に、議員を2期8年間務めていたんです。議員の仕事は本来「立法府」であり、政策を提案して推進していく立場。でも実際の地方議会では、議員が提案して具体化というのは、なかなか難しい現実がある。やはり、自治体側がきちんと政策を設計して議会に示し、予算の承認を得て執行していくという「三権分立」に近い役割分担が必要です。

議員時代に感じたのは、批評家というか、チェック機関の役割が大きいから、職員時代の実際に物事を動かす立場とのギャップ。だったら、自分が市長になって、自分が思い描くように市政を進めたいと思った。

私は自分のことを、「政治家」というより「実務家」だと思っているんです。職員の仕事をしていて、議員になりチェックをする立場になって、でももっと具体に、施策を進めていきたいという思いが強かった。だから、市長選に手を挙げたんです。

島津斉彬に魅かれる理由

Q3 「西郷隆盛を見出した名君」として知られる薩摩藩主・島津斉彬に対して、尊敬の念を抱かれているそうですね。どのような点に共感されるのでしょう?

好きなんですよね。西郷や大久保を見出したこともそうだが、「殖産興業」(産業を育成し経済力を付ける政策)など「先を見据える力」があった人だと思います。

「蘭学かぶれだ」なんて批判もされていたそうですし、藩主になるのも遅かったが、人の度量、開明的な行動力は素晴らしいと思う。もう少し長く生きていたら、もっとね、日本を大きく動かす存在になっていたのではないかと思うほどです。実は私は自分の息子の名前に「彬(あきら)」の文字を使っているんですよ(笑)。

斉彬の思想が反映されている点として、市長としてやらなくはならないことは数多くあった中、私が真っ先に考えたのは子育てのことでした。中学校給食、小児医療費。子供がだんだん少なくなる一方で、待機児童が増えていくという問題もあった。未来の担い手である子供たちのための施策を進めたいと思った。

ただ、体制についてはすぐに変革はできない。結果を出していくために、粘り強くやらなくてはならない。そういう思いでやっていこうと思いました。

Q4 今の答えとも通ずるかもしれませんが、これまで多様な施策を推進してこられた中で、「これは自分らしさが如実に表れている」と感じられる政策があれば、1つご紹介いただけますか?


「中学校給食」の導入です。

中学校には長い間、給食がありませんでした。ある程度大きなまちなので、昔はインフラ整備などに力を入れなくてはならず、それがずっと続いていた。給食にまで予算を回す余裕がなかったんです。

私がPTA活動をやっていたとき、保健の先生から「子供がへろへろだ」と聞いたことがありました。先生たちがお金を集めてパンを買って与えるなど、その場しのぎの対応もされていたようです。朝ごはんを食べない子もいれば、お弁当を持ってこられない家庭もある。「誰もが平等に栄養のある食事をとれるようにすべきだ」「それも中学生、育ち盛り」「だからなんとか中学校に給食を」、という強い思いがあった。

しかし、他方では学校施設の老朽化が進んでいました。毎年、大規模改修が必要なのが小学校2校、中学校1校。1棟あたり2億か3億かかる。そのため、当初から全校に導入するのは難しかった。

お弁当の手配など代替策を講じながら段階的に進め、ついに2024年9月、新たに学校給食センターを設立し、中学校でも完全給食が実現しました。市議会議員時代から訴えていて、市長1期目の公約にも掲げていました。長年の思いが実を結んだ瞬間でした。

「落合はハード整備ばかりやっている」と言われたことがあります。たしかに、私が整備した市庁舎、環境事業センター、市民病院——これらは「三大事業」と言われ、市政の大きな柱でした。前任の時代から計画が続いていた事業でしたからね、引き継がなくてはならない事業だった。

その他にも大神地区のツインシティ、大型商業施設、2025年10月に開園するひらつかシーテラスと、ハード整備ばかりじゃないかと思われるが、そうじゃなくて、私には特に子供たちへの思いがあったんです。

平塚市の給食は、自校調理の小学校7校を除いて、小中学校36校が対象。1日1万5000食、県内最大です。栄養価も高い。子供が減っている時代、これから将来を担っていってもらう子たちなのだから、ちゃんとしたものを食べてほしい。

そのおかげもあって、10年連続転入超過。若い世代の転入も一定数ある。ありがたいことです。

Q5 現代のまちづくりは、自治体主導から、住民参加を重視する共創へと変化しています。市長ご自身は、どのような形の住民参加や官民連携を理想とされていますか? 

たとえば自治会を中心として、青少年指導員、民生委員などそうですが、自治でまちを動かすという考え方は大事です。しかし、これだけでは市内の全体最適化という観点で齟齬が出ることもあります。

2006年10月に施行された自治基本条例(住民自治を進めるため市民・議会・行政三者の基本ルールを定めた条例)をまとめる時は大変でした。私は当時、市議会議員として関わっていました。いろんな意見が錯綜して、せめぎあい。

住民の皆さんの思いが大切なのは言うまでもありませんが、全体のバランスや効率性を考慮しないと、独善的になってしまう危険性もあります。そのあたりの“調整役”として、行政の責任は極めて大きいと思います。

湘南ベルマーレの新スタジアム建設問題のこと

平塚市と言って、七夕まつりと並び全国的に有名なのは、湘南ベルマーレのホームスタジアム「レモンガススタジアム平塚」があることではないでしょうか。

前身となる藤和不動産サッカー部は1968年の創部、長い歴史を持つクラブチームです。Jリーグに参加したのは1993年、天皇杯での優勝経験も持ちます。90年代に中田英寿さんが在籍していたことでも知られています。

湘南ベルマーレはJ1の常連チームでありながら、レモンガススタジアム平塚はJリーグが定めるスタジアム基準を満たしていません。J1の基準は、入場可能者数15,000席以上、観客席の3分の1以上を屋根で覆う必要がある、などというものですが、同スタジアムに広範囲を覆う屋根はありません。

※現在は緩和措置が取られ、別途要件を満たし、Jリーグ理事会の承認があればJ1ライセンスが認められることになっています。

過去に湘南ベルマーレ側が新スタジアム建設費の半額負担を市に求めたことがあり、両者の間に一時緊張が生まれたこともありました。

地元のプロスポーツクラブは、単なる応援対象を超えて、まちづくりの重要なパートナーとなり得る存在です。その一方で、さいたま市(浦和レッズ)や神戸市(ヴィッセル神戸)のような政令指定都市ではない、平塚市のような中堅都市にとって、Jリーグがめざす遠大な理想にどう向き合っていくかは、政策上の課題にもなりえます。

湘南ベルマーレとの未来について

Q6 新スタジアム構想を含め、湘南ベルマーレとの関係性および今後の連携について、どのようなビジョンをお持ちかお聞かせください。

湘南ベルマーレはベルマーレ平塚の時代から、平塚に根差した存在。子供たちに夢を与えてくれる大切な存在です。市としても応援していきたい、それが基本姿勢。

ただし、新スタジアム建設の話については、これは直接Jリーグの野々村チェアマンに言いましたが、一企業であるベルマーレに対して、そこまでの責任を自治体が負うことはできません。建物だけで建設費は150億円、ベルマーレの要求はそのうち70億円について、「市に負担を求めたい」という内容だった。それは「市として負担するのは難しい」と明確に申しあげた。

※2024年3月、落合市長は公益社団法人日本プロサッカーリーグを訪問し、野々村芳和チェアマンらと面談し協議を行いました。

Jリーグの助成金などの裏付けがあれば話は分かるが、70億円を市民の税金で賄うという話です。税金はむろん、福祉や教育、市民サービスに充てられるお金。平塚市の市民サービスを考えた時に、ベルマーレのために70億を出せるかと言えば、それは出せない。

ベルマーレの力で、それこそ「民」の力で頑張っていくというなら、もちろん応援します。これもチェアマンに言いましたが、Jリーグのめざす姿、それはよいと思う。入れ物を作って、十分に整った環境の中でやらせたい、それもよいと思う。チェアマンは言いました、「Jリーグがこれまで、どれほど市民に夢を与えてきたか」と。それもよくわかる。けれども、それでもって、Jリーグがめざす理想を実現するための責任を、自治体に押し付けないでほしい。

平塚市には、ベルマーレに協力してもらって実施している「ドリームパスポート」という仕組みがあります。平塚市の小学生は湘南ベルマーレをはじめ、横浜DeNAベイスターズ、Bリーグの横浜ビー・コルセアーズの試合を無料で観戦できるようになっています。

こうした取り組みは、子どもたちの夢や将来の可能性を広げる非常に意義あるものです。市としても、このようにプロスポーツとの連携を通じて、未来の世代にとって魅力あるまちにしていきたいと考えています。

ベルマーレとの連携も同様で、関係性を大切にしながら、持続可能な形で、相互に補完し合える関係を築くこと、これが市としての基本スタンスです。

時代の波を前に、どうまちづくりを進めるか

Q7 平塚市は、製造業を中心に基幹産業が発展してきた歴史を持っています。


日産自動車傘下の日産車体湘南工場閉鎖検討の動向について、まちへの影響と市としての対応策をどのようにお考えかお聞かせください。

報道は衝撃でした。88年続いた会社です。

前身の日本航空工業は飛行機を作っていて、その会社が戦後、日産の子会社となり現在の日産車体になりました。

報道があり、日産車体から連絡もありましたが、車体側は「具体的な話は何も聞いていない」とのことでした。

車体や関連企業に勤めている市民の生活に影響が出てくることを危惧している。課題を抽出しつつ並行して、どう対応するか産業振興部を中心に責任をもって検討していくつもりです。

Q8 今秋、開園を目前に控えた龍城ケ丘の再整備事業ですが、過去には見直しを求める声が上がっていました。市民のご意見をどのように受け止め、事業を進められてきたかご教示ください。

平塚の海は、昔は泳げなかった。砂利を採取していた関係で、いきなりずどんと深くなる。

神奈川県による総合イベント「サーフ'90」が開催されたり、青年会議所が「泳げる海にしよう」と活動したことで、ビーチパーク前は海水浴場として泳げるようになった。ボードウォーク、ビーチバレーコートなどができ、年間を通してビーチスポーツができるようにもなりました。それでもまだまだ平塚の海岸全体を活かせていないと思っていた。そこで、龍城ケ丘プールの跡地周辺を活用して、海辺の総合公園を整備することにしたんです。

Park-PFI(パークPFI)という手法を使いました。この制度が2017年にできたとき、平塚が全国で一番最初に手を挙げたんです。民間の知恵を借りた。

※Park-PFI:都市公園に民間事業者が収益施設(飲食店、売店など)を設置し、その管理・運営も行い、収益を公園の整備や維持管理に充当する制度のこと

時間はかかったが、周辺の塩や風の影響、津波の対応なども含めて、地域の声を聞き納得いただきながら進めてこられたことはよかった。それでも反対の声はどうしても残ってしまうが、市として50回以上、1800人を超える人たちと対話を続けてきました。

魅力的な公園になると思っています。海を見渡せるロケーションが素晴らしい。バーベキューもでき、買い物もできる。ぜひお越しいただきたい。

茅ヶ崎の佐藤光市長ともいろいろ話しているが、茅ヶ崎は湘南初の「道の駅」(2025年7月7日オープン)、平塚は海辺の総合公園。「相乗効果で、お互いに湘南の魅力発信ができればいいね」と。

市民とともに歩む平和への取り組み

Q9 2025年は平塚空襲・終戦から80年、また核兵器廃絶平和都市宣言から40年という節目を迎えます。


不安定な国際情勢が続く中、平和都市としての取り組みや、市政の推進における指針についてどのようにお考えか、お話しいただけますか?

国際情勢の報道を見ていて、私は一番に子供が気になるんです。子供は将来を担う存在、大げさに響くかもしれないが、「宝」だと思っている。私は基本的に、戦争というものは絶対にあってはならない。

核兵器廃絶平和都市宣言をして40年、「アイ・ラブ・ピース」を合言葉にずっとやってきました。七夕まつりも復興祈願から始まったというのはお伝えした通りです。

中心商店街もね、今は区画整理で綺麗になったが、諸先輩方に聞くと、戦後は本当に大変だったと。そのことを思うと、戦争は絶対にやっちゃいけない、そういう思いがある。

平塚市は平和首長会議に加盟しています。日本非核宣言自治体協議会にも参加している。これからも、核のない、平和な世界を目指していきたい。

2023年11月には、リトアニアのカウナス市と姉妹都市提携を結びました。ナチスドイツの迫害から逃げてきた難民を救済した『命のビザ』で著名な、杉原千畝(すぎはら ちうね)さんが勤務していた日本領事館が置かれていた都市です。

リトアニアは2回ロシアに併合され、苦労して独立し平和を築いた。「アイ・ラブ・ピース」、核兵器廃絶、カウナスとの姉妹都市。しっかりと主張し、この取り組みを続けていきたい。

Q10 今後の平塚市政において、市民の皆様に「ここに注目してほしい」「共に育んでいきたい」と思われる具体的な取り組みや分野があれば、ぜひご紹介ください。


市長ご自身が見据える「未来の平塚」のビジョンについてもお伺いしたいです。

かつては「商都平塚」と呼ばれ、お店を開けていれば売れるという時代もありました。長崎屋、 十字屋、梅屋、いずれも平塚が発祥の地です。それもあったからこそ、七夕まつりが賑わった。体力があったんですね。

「平塚駅周辺地区をみんなのリビングに!」——これをコンセプトに駅周辺のまちづくりに取り組んでいきます。平塚を訪れた人たちに、いっそう快適に過ごしてもらえるように。

中心街の人たちと地権者の人たちが、本気になって、一緒に汗を流して協力してくれるか。行政がしっかりと"まちがめざすべき方向"を示す。でも、彼らに一緒に動いてもらわなくちゃできない。ここは我々の努力が必要。

もうひとつは、今秋開園する龍城ケ丘のひらつかシーテラス。平塚の海の魅力を発信していきたい。

村上総務大臣が言っていたけど、「1700以上の自治体があるが、そんなにいらなくなるのではないか」と。乱暴に聞こえるけど、これは本当にそうかもしれない。これからの時代、1つ1つの自治体が同じ行政サービスを提供していく、それはもう難しいかもしれない。

とはいえ平塚には26万もの人たちがいる。どうやって持続可能なまちにしていくか。先を見据えて、子育て、社会福祉、働き方、楽しみ、すべてについて、平塚の魅力を発信しながら、持続可能なまちを作っていく。

最終的にはこの言葉に行き着くんですよね、「あったかひらつか」(笑)。この言葉を全面に打ち出して、平塚の魅力を発信していきたい。

ぜひ、平塚にきてもらい、楽しんでいってほしい。

“あったかいまち”であり続けるために

かつては商都と呼ばれ、人々の賑わいと、湘南の自然、そして平和への願いを育んできたまち・平塚。

そして今、「あったかひらつか」という、平塚らしさの詰まった未来志向の合言葉ともに、市政は進みます。

人のぬくもりを真ん中に据えた、“あったかいまち”であり続けるために。

落合かつひろプロフィール

生年月日:1957年10月1日最終学歴:明治大学法学部卒業趣味:スポーツ(バスケットボール、野球、バドミントンなど)

【略歴】

1981年4月 平塚市役所に就職
2002年12月 平塚市役所を退職
2003年4月 平塚市議会議員に初当選
2007年4月 平塚市議会議員に再選
2007年5月 第48代平塚市議会議長に就任(2007年度〜2008年度)
2011年4月 第21代平塚市長に就任(現在4期目)

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