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《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 8 竹澤團七(文楽三味線弾き)

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竹沢団七(三味線奏者)

昨年12月に米寿を迎えた三味線弾き、竹澤團七(88)。現役最年長の音色は今も熱く力強い。1954年の初舞台からちょうど70年。文楽の様々な時代を生きてきたその半生、そして文楽の未来に寄せる思いとは?

文楽に夢中になって

母は娘義太夫(現在の女流義太夫)のプロ、義太夫が盛んな四国に生まれた父はその教室の生徒。義太夫節が縁で結ばれた両親のもと、團七さんは1935年、名古屋に生まれた。

「小学校4年生の時に戦争が終わると、家の押入れから出てきた母親の三味線をおもちゃにして歌謡曲などを弾いて遊んでいました。文楽を最初に観たのは小学校6年生の時。演目は覚えていませんが、(豊竹)山城少掾の掾号受領記念で八世(竹本)綱太夫襲名で十世(竹澤)彌七襲名という大変な公演を御園座で観ました。その後、色々と観ましたよ。語りも好きだったけれど人形はそこまででもなく、一番取り憑かれたのが三味線の音色。鶴澤清六師匠がなさった『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段は、学校をサボって何回も聴いて、家でそのメロディーをハーモニカで吹いたりして。御園座の楽屋番のおじさんと仲良くなって無料で入れてくれるようになったので、歌舞伎もしょっちゅう観に行きました。播磨屋(初世中村吉右衛門)の全盛期で、『籠釣瓶花街酔醒』を観たあと『お母ちゃん、おやつないの?』と聞いて『何もない』と言われたら『お袋、そりゃあんまり袖なかろうぜ』。高麗屋(七世松本幸四郎)も好きで、河内山に夢中になり、恥ずかしがり屋だったから押入れの中で声色を真似ていて、お袋に見つかったら『とんだところへ北村大膳』……。変な子だったんです(笑)」

中学生の頃に父親が病気で他界。高校へ行けなくなり、代わりに進んだ定時制高校では演劇部に所属した。

「顧問の先生が『君達は演劇と言ったら新劇やオペラみたいなものしか知らないだろう。古典芸能も勉強しろよ』と言うので、良い先生だなあと。でも、役者になれるとは思っていませんでした。歌舞伎には家柄や門閥があって、入っても一生大部屋だと聞いていたから。それに対して、文楽は実力主義。と言っても三味線弾きになろうと思っていたわけではないのですが、3年生の時、人形遣いの吉田文雀の家内になっていた姉が、綱太夫師匠や彌七師匠に私の話をして。当時、私は18歳。彌七師匠の初舞台は6歳ですから、あの時代の感覚からすると三味線を始めるには年を取り過ぎていたけれど、戦争で後継者がいなくなっていたこともあり、『やってみるか?』と。着の身着のままで京都の彌七師匠の家に内弟子に入りました。彌七師匠にというのは、自分の意思です」

初舞台の頃。       提供:竹澤團七



≫厳しく優しかった彌七師匠


厳しく優しかった彌七師匠

1953年8月に入門し、内弟子としての修業をスタートさせた團七さん。

「内弟子時代は、朝6時頃に起きて、家中、雑巾掛けをして、師匠のお子さん3人が学校へ行く前にご飯を食べさせて、片付けて……。でも、ご飯を食べさせてもらって、一番肝心なお稽古をしてもらえるんだもの。そんなこと、苦労だなんて思わなかった」

翌年1月、竹澤團二郎の名で、大阪の四ツ橋文楽座にて初舞台。「入門した時には、舞台に出るどころか三味線の調子もロクに合わない状態。それから半年で舞台に出るよう頑張りました」と胸を張る。

「大変だったのは、覚えること。文楽の三味線は暗譜でしょう? 1月の初舞台で『寿式三番叟』と『壺坂観音霊験記』のツレ弾きを勤めて、1月の大阪公演が終わったら、1月末に名古屋の公演が6日間。公演は朝の10時過ぎから夜9時過ぎまであり、一部にだいたい4つ出し物があって、必ず昼夜共に道行物や景事物が出るから、大抵それに出してもらう。で、その時分、東京の新橋演舞場でもそうでしたけど、二の替わりと言って、中日から狂言が全部変わるんですよ。だから1月の公演の最中に、次の名古屋の公演のために『団子売』と『義経千本桜』の道行の2つを覚えて、名古屋の公演の後半に向けて『釣女』を覚えなきゃいけない。『なんで俺、こんなに頭悪いんだろう』と焦ったものです。覚えにくいと言えば、袴の畳み方もね。自分の袴だけではなく、師匠はもちろん、先輩方の袴も畳まなければならない。それまでは触ったこともなかったですから」

ただでさえ、初舞台を踏んだばかりで余裕のない中、さらに結核にもかかってしまう。

「そんなにひどくなかったから、療養所にも入らず通い医者で治して。治るまで2年ぐらいかかりましたかね。先生がものすごい文楽ファンで、私にお金を使わせずに治してくれた。その先生のお世話になったおかげで、私は88年生きてきて、一度も入院したことがないんです」

なお、一緒に初舞台を踏んだ同期は、鶴澤清治。まだ8歳だった。

「一緒に稽古して、びっくりしましたよ。私が頭も手も動かない時代に、彼は覚えるのは早いし、手もよく動いて、すぐ弾けて。天才でしたね。清治くんが10歳下で、1年後輩の咲太夫くんが9歳下ですから、私は若く見られたかった。ジーンズを履いたのなんて、文楽では私が最初でしょうね。ある会合にジーンズ姿で寄ったら、(二世野澤)喜左衛門師匠に『なんという格好だ』と言われたことがあります。真っ赤な靴下を履いて楽屋へ上がった時には、山城師匠がじっと見て『なんという足だ』(笑)。彌七師匠はそういうことにはうるさくなかったですが、芸には怖かったですよ。お稽古をしてもらっていると、『違う!』と張扇を投げてくるから、三味線で受けて。落ちた扇を渡すと、またしばらくして飛んできて……。昔はそういうことが普通で、喜左衛門師匠なんて夢中になるとバチを投げてくるから、お弟子の(二世野澤)勝太郎師匠の顔には傷がついていました。でも彌七師匠は、2階の稽古で散々怒っても、『有難うございました』と言って下へ降りたら『おい、おやつ食べるか』。ガラッと変わる。それをこっちもわかっていました。何しろ8年も内弟子にいたんですから」

8年も内弟子修業をしたのには理由がある。

「父親が亡くなってからは貧乏で、お米が買えないから中学校にお弁当も持って行けなかったんです。文楽に入っても、自分の給料で自活できるわけがない。それをわかっているから、師匠はずっと食べさせてくれたんです。内弟子生活が終わったのは、私が結婚したくなったから。家内は20年前に亡くなりましたが、赤坂の芸者で、東京で西川流の舞踊をやっていたんです。ある時、(十七世)中村勘三郎さんと(二世)西川鯉三郎さんと(初世)尾上菊之丞さんがなさっていた『扇の会』の舞踊会で北條秀司さんの『油屋お鹿』をやることになり、私も師匠と一緒に出演したのですが、師匠の楽屋に『教えて下さい』と来たのが、芸妓役の家内でした」

厳しさと優しさを併せ持つ彌七師匠の言葉は、團七さんにとって今も大切な教えだ。

「一番は、『文楽の三味線の演奏には一バチも無駄なバチはないぞ』と言われたこと。作曲者の意図はわからなくても、自分で意味づけて弾くのと弾かないのとでは随分違う。一バチずつ、情景と情の描写をしなさい、と。いちいち考えるわけではなく、瞬間にそうならなきゃいけないんです。『音のないところを弾け』とも言われました。小説で言うなら行間。そこで仕事をする演奏ができなければ、プロとは言えないんです」

彌七師匠と。       提供:竹澤團七



≫竹本津太夫の相三味線として


竹本津太夫の相三味線として

1981年、團七さんは四世竹本津太夫に指名され、團七と改名して相三味線となる。盃を交わし、基本的にはその太夫のみと組むのが、相三味線だ。

「今はもう、相三味線はいないですね。私と津太夫さんのあと、私と同い年の(三世野澤)喜左衛門が(竹本)住太夫さんと相三味線になって、それが最後です。津太夫さんは大変な人格者で、今でも忘れられないのが、私を相三味線に決めて記者会見をした時、隣にいる私の方を向いて、『わてと一緒に勉強しまひょな』とおっしゃったこと。その後もずっとそういう感じでした。『自分が今までやってきたもの、先輩から習ったものはこうだけど、君の習ったものが私と食い違うところがあったら、ちゃんと主張してくれよ』と。そんなことを言う先輩は他にいなかった。実際、『私の師匠がこう弾いていたからこう弾きたいんですけど』と言うと、『それ、私の感覚とちょっと違うな、どっちがいいかな』というふうに、一緒に考えてくれました」

その関係は、津太夫が1987年に他界するまで続いた。

「津太夫師匠は公演のたびに、一番の大物をなさるから、それについていかなきゃならない。大変でしたけど、そりゃあ、やり甲斐がありました。私の人生の中で一番、緊張し、張り合いがあった時代ですね。だけど、これだ!というものがないまま、模索しながら年を経っちゃった気がします。これだと思えるものなんて、みつからないのでしょうね。年を取ると力は弱くなる分、“味”というものがお客さんの心に伝わらなければいけない。それは舞台を重ねる途上で段々とにじみ出てくるものだと思います」

相三味線を勤めた津太夫師匠との舞台。       提供:竹澤團七



≫“味”を表し、“情”を伝える


“味”を表し、“情”を伝える

来る5月公演では、『近頃河原の達引』の「道行涙の編笠」に出演。かつて團七さん自身が作曲したものを、今回、自ら演奏する。

「初演時、私は津太夫師匠の相三味線でその前の堀川猿廻しの段を弾いて、後輩が『道行涙の編笠』を弾いたのだったと思います。文章は残っているけれど、上演が途絶えていて曲が残っていないというものは沢山あるから作曲が必要になるわけですが、当時、『俺なんかがやって大丈夫かな』と、ものすごく緊張しました。というのも、『曾根崎心中』などを作曲された野澤松之輔師匠を私はとても尊敬していて、いつもあの方の曲を弾きながら『なんでこんな良い曲ができるんだろう』と感じていましたから」

自分を陥れようとした武士を殺害してしまった伝兵衛と恋人のおしゅんが、その前の堀川猿廻しの段でおしゅんの母と兄に送り出され、いよいよ心中へと向かうのが、この「道行涙の編笠」だ。

「同じ道行でも『曾根崎心中』や『心中天網島』は死ぬ場面が中心。一方、『桂川連理柵』などは完璧に『死にに行く道』、心中への道行なんですよね。この『近頃河原の達引』もそうです。で、私の勝手な感覚では、ただ金に困って死ぬのではなく、恋愛によって死にに行く人間ってすごく色っぽいはずなので、それを出したい。そして、これは『曾根崎心中』もそうだけれど、散々悲しんでも、最後は『これで未来は結ばれる』という喜びに変わるんじゃないかと思うんです。と頭では考えても、それが曲になっているかどうか……(笑)。ひょっとしたら今回、少し曲を変えるかもしれません。自分でこさえたものは、それができますから。そこにさっき言ったような、今だからこその味みたいなものが加わっていたらいいですね」

文楽の世界で70年。日本の状況も文楽を取り巻く環境も変わる中、團七さんは文楽にどうあってほしいと思うのだろうか。

「文楽も変わったなんてことをよく言いますけれども、本質的には変わっていないと思うんです。本質とは、やっぱり『情』。師匠はよく『文楽の三味線は弾くんじゃない、語るんだ』と言っていました。太夫が情を語るのと一緒に自分も音で語らなければ、文楽の三味線じゃない。そういえば私、きれいな音を出すなと叱られたことがあります。(八世豊竹)嶋太夫くんと『恋娘昔八丈』の鈴が森の段をやっていて、越路太夫さんに、『そこはおばあさんが泣いてるとこや。いい音、さすな』って。そりゃあ、言ったってすぐできるものじゃないんです。でも一応、そう叱らなきゃいけないんですね。本当はこうなのだと、師匠や先輩方から教わったものをしっかりと伝えるのが伝承芸能。『自分はこうやるからお前もこうやれ』という稽古は、私はいじめ、パワハラと言えるんじゃないかなと思いますが、そうではなく普遍的な、演者の個性が変わっても変わらない一番重要なところを伝えるのが文楽の稽古なんです」

令和6年2月国立劇場文楽公演(日本青年館ホール)にて。       提供:国立劇場



≫「技芸員への3つの質問」


「技芸員への3つの質問」

【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード

よく笑い話にするんですけど、先代の(六世)鶴澤寛治師匠のところへお稽古に上がった時、自分の師匠の師匠みたいな方だからガチガチに緊張してしまい、糸を外していてなかなか音にならなくて。そうしたら寛治師匠が「何やってんねん、そんなところ幾ら弾いたって、三味線には『四の糸』はないねんで」。その稽古を見ていた人がいて、あくる日から「おい、四の糸」とからかわれました(笑)。

【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること

開場してどのくらい経ってからかな、壁にヒビが入る大きな地震があったんです。その時、『生写朝顔話』の笑い薬の段の端場を、(豊竹)松香太夫と辞めちゃった(野澤)勝之輔と御簾内で演奏していて、お客さんが揺れて騒ぐ中、演奏をやめなかったので、若い人に贈られる奨励賞というのをもらいました。そういえば、奨励賞を初めてもらったのは、三島由紀夫さんが書いた『椿説弓張月』の伊豆国大嶋の段だったかな。三島さんの奥さんがおめでとうと言ってくださったのを覚えています。二代目の劇場ができる頃には私、生きていないかもしれませんが、三味線弾きからすると、大事なのは音のこもり具合。反響じゃないんですよ。初代国立劇場は、音がよくこもって耳にいい。つまり、余韻余韻が残る。そういう劇場だと、音と音の間の仕事ができます。師匠に言われた『音のないところを弾け』ですね。海外の古いオペラハウスに行くと、まったりした余韻がある。建て替え前の歌舞伎座や新橋演舞場も良かった。二代目国立劇場もそういう音響であるよう願います。

【その3】オフの過ごし方

三味線弾きは「三日滑り」と言って、三日弾かなかったらバチが滑って弾けないんです。私は今、なんかややこしい名前の病気のせいで手が不自由で弾けないことがあるので、余計に練習しないといけません。国立劇場の小劇場は余韻が残るから、手が多少不自由でもなんとか仕事ができたんですけどね。あとは、テレビで野球を見るくらいでしょうか。全くお休みの日にはよく寄席に行きます。

取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)

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