トラウマや「傷つき」を癒やすには──【学びのきほん 傷つきのこころ学】
精神科医・宮地尚子さんによる「傷とともに生きる人」のための、こころのケア論
人と人との距離感が変わりつつある現代では、誰もが多くの「傷つき」を経験します。
発売1か月で3刷が決定した『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、精神科医で一橋大学大学院教授の宮地尚子さんが、トラウマ研究の第一人者として「傷つき」の背景を分析しながら、数十年培ってきた専門的知識を初めて私たちの日常生活に落とし込んで解説します。
今回、発売時にSNSで多くの方から反響をいただいた「傷を癒すこと」についての宮地さんによる解説を特別公開します。
傷を語り始めること
「傷つき」体験もトラウマ体験と同様に語りにくいものが多いということは、すでにお話ししてきたとおりです。その体験が、重い内容のものであったり、家族間や恋人間といったプライベートな領域で起こったことであったり、セクシュアリティに関わることであったりする場合、とくに語られにくいと言えます。
けれども、これまで紹介したどの事例からも、本人の語りたい、聞いてほしいという切なる叫びが聞こえてくるように思うのです。人に話を聞いてもらって落ち着いた気持ちになれたという体験は、これまでの人生で誰もが経験してきたことでしょう。
なぜ人に話を聞いてもらうと落ち着いた気持ちになれるのか。それにはいくつか理由があります。ひとつには、私たちは誰かに自分の体験を話すとき、ある程度のストーリー性をもって伝えることで、自分の心情を整理できるからです。つまり、「傷つき」体験を人に語るということは、「自分はここに傷ついていたんだ」とか「これが嫌だったんだ」と自身の傷に向き合い、それを認める時間になるのです。
もうひとつは、よい聞き手に出会うことができたとき、「傷つき」体験によって失われた他者への信頼感を取り戻すことができるからです。聞き手からの共鳴や共感をとおして感じる「私はひとりではない」という感覚は、回復の過程においてとても効果のある薬となるでしょう。
一方で、どうしても他人に話すことができない人もいます。その場合は、ひとまず話すことを脇に置いて、一緒に何かの作業に打ち込むというのもひとつの方法です。
男性の性被害をめぐる研究をしている友人がニュージーランドにいます。彼が主宰している自助グループでは、トラウマ体験について話をするのではなく、ガレージで車の修理をしながら、ただ時間を一緒に過ごすのだそうです。何もせずにただ時間を過ごすだけではさすがに間がもたないので、一緒にできる作業をするのがいいと言われています。
自分の傷と向き合い、語り始めることができるタイミングは人それぞれです。また、一度にすべてを語れるようになるとも限りません。しかし、わかってくれる人のそばにいてサポートを得られ、心身の余裕が与えられれば、時間はかかるものの少しずつ傷は癒えていきます。安全な場所に、共感性をもった相手といることで、気持ちの整理がついていくのです。
もちろん、起き上がれない日もあれば、誰とも会わずに心を閉ざしていたいときもあるでしょう。先に紹介したハーマンの『心的外傷と回復』でも、「回復段階の進行は螺旋(らせん)的である」と述べられています。
トラウマの臨床に限らず、精神科や心理の臨床は「虫食いだらけで結末の決まっていない推理小説を読み続ける」ようなものではないかと、私はいつも思っています。支援者側に対してアドバイスするならば、それでも、傷ついた当事者が立ち直る能力(レジリエンス)を信じること。虫食いだらけでもいいので、まずはそばに寄り添って、語り始めるのを待つこと。それが傷つきを癒やすための第一歩になると思います。
『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、「傷つきやすい時代/「傷つく」と「傷つける」/傷つきの練習/傷つきを癒やすには、といった4つのテーマで、「傷つき」について考えていきます。
著者紹介
宮地尚子(みやじ・なおこ)
一橋大学大学院社会学研究科教授。1986年京都府立医科大学卒業。1993年同大学院修了。専門は文化精神医学・医療人類学。精神科の医師として臨床をおこないつつ、トラウマやジェンダーの研究をつづけている。著書に『トラウマ』(岩波新書)、『ははがうまれる』(福音館書店)、『環状島= トラウマの地政学』(みすず書房)、『傷を愛せるか』(ちくま文庫)など。
※刊行時の情報です
◆『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』より抜粋
◆ルビなどは割愛しています