「彼らはどういう思いでこの戦略戦術に参加したのか」――特攻隊という組織や戦術に対する疑問
2025年は「昭和100年」×「放送100年」の年です。その記念の年に、『昭和100年×放送100年 音声と写真でよみがえる昭和』3巻シリーズが発売になります。「歴史探偵」半藤一利の遺志を継ぐ昭和史研究の泰斗・保阪正康が、昭和元年から64年までを元NHKアナウンサー村島章惠(あきよし)と対話形式で解説したNHKラジオ深夜便「保阪正康と語る『昭和史を味わう』」。およそ三年にわたって放送された人気企画の待望の書籍化です。
「昭和は、日本人の国民的遺産、人類史の見本市である」(保阪正康)
貴重な写真やイラストが満載で、NHKに残された音声をQRコードで聴きながら読める。唯一無二の「昭和の全歴史を追体験する」驚きのシリーズ第2弾『戦中・占領期編』より今回は「特攻隊と太平洋戦争の本質~「十死零生」の特攻作戦」を特別公開します。
※本記事用に一部再構成しています
特攻隊と太平洋戦争の本質
「十死零生」の特攻作戦
村島 今回は、太平洋戦争の日々その三として、「特別攻撃隊(特攻隊)」をテーマにお送りします。保阪さんは長年、このテーマについてずいぶん取材執筆をされてこられましたね。
保阪 そうですね。私は特攻隊という組織や戦術に疑問を持っているので、これまで、特攻隊員が残した手記、遺稿などをずいぶん集め、読んできました。彼らはどういう思いでこの戦略戦術に参加したのか、それがずっと疑問なのです。これは単に軍事の問題ではなくて、日本人の文化、あるいは死生観と関わり合う問題だと思います。私は特攻関係の本を何冊か書いていますが、書くたびに、私のなかで新しい発見があるのです。年齢を経るにつれて、彼ら特攻隊員を見る私の目が変わりました。彼らはだいたい二十代のはじめで亡くなっています。その彼らの残した遺書などを読む私自身は、年代とともに、彼らは本当は何を訴えたかったのだろうと、読み抜く力がだんだんついてきた感じがしています。
村島 特攻隊という戦術を考えるとき、保阪さんは三つの視点からとらえることが必要だとおっしゃっています。その三つの視点とはどういうことなのでしょうか。
保阪 一つは、「特攻作戦の内実」です。つまり、特攻隊とは具体的にどういう作戦なのかをよく知ることです。二つ目は、「誰が、なぜ命じたのか」です。この作戦は世界の陸海軍の戦争でほとんどおこなわれたことのない戦略です。そのような戦略が、どうして採用されたのかということですね。そして三つ目が、「隊員はどのような人たちで、何を考えていたのか」です。特攻作戦は「十死零生(じっしれいせい)」、作戦行動に参加すれば百パーセント死ぬわけですから、これに参加した人たちが何を考えていたのか、それをきちんと分析して伝えていくことが大事だと思うのです。これらを徹底的に分析することなくして論じると、片方に極端な英雄論が生まれ、もう片方に非礼な犬死論が生まれることになります。
村島 その三つの視点を一つずつ、詳しく見ていきたいと思います。まず一つ目、特攻作戦の内実とはどんなものだったのかということですけれど。
保阪 日本は、当時アメリカを中心とする連合国とは、まったく話にならないほど軍備に開きがありました。結局、軍備の差を人間で埋めていく。人間が飛行機や人間魚雷「回天(かいてん)」、爆装モーターボート「震洋(しんよう)」などに乗って、兵器としてアメリカ軍の航空母艦に体当たり攻撃をする。人間が爆弾になるということですね。そのための飛行機などがつくられていったわけですが、人間が操作してぶつかっていくだけのものですから、立派につくる必要がない。軍備がなく、経済的に考えても粗末な武器しかつくれない日本軍が考えた人間爆弾作戦だったということです。
私は特攻に関して当時の軍の人たちにかなり取材してきたなかで、どういうふうに操縦してぶつかっていくのかと聞いたことがあります。ある特攻隊を指揮していた人が、「君、それは、コンピュータだと思ってくれ」といったのが印象に残っています。人間はコンピュータとして特攻機を制御し、そしてぶつかっていくのだと。先ほどもいったように、他国はこういう作戦を採用していません。それだけに、単に作戦の是非だけではなく、私たちの国が文化的にどういう問題を抱えているのかという別の次元での観察も必要だと思います。
村島 その特攻の第一陣は、昭和十九年(一九四四年)十月二十五日とわかっているのですね。
保阪 海軍兵学校の七十期生関行男(せき・ゆきお)大尉らの「敷島隊」によるレイテ沖海戦での攻撃がその第一陣です。関大尉は上官から、「人間爆弾として特攻作戦をやってくれ」といわれたときに、「こういう作戦を取るようではもう日本も終わりだな」という言葉を吐いたといわれています。
村島 関大尉本人がですか。
保阪 そうです。彼はそうはいいながら、その作戦を実行します。彼は特攻の第一号になったことで英雄になりますね。
村島 フィリピンのレイテ沖海戦のときの戦いですね。
保阪 そうですね。これがきっかけになって、それ以後、沖縄戦までずっと特攻作戦は続くのです。陸海軍合わせて四千人弱の人が特攻作戦に従事して戦死したといわれています。
村島 ここで、特攻隊のニュースの音声がありますのでお聴きいただきたいと思います。太平洋戦争の直前から戦後にかけて映画館で毎週上映された「日本ニュース」第二百三十四号、昭和十九年十一月二十三日から一週間上映されたものです。
神風特別攻撃隊の基地に、海軍基地航空部隊指揮官、福留中将は訪れて、親しく送る最後の言葉。聞くはまさに飛び立つ時を待つ、若き神鷲。自若として敵艦と差し違えんことを祈る。
敵艦船はこの海面にある。地図を指して語る勇士の合い言葉は、必中の二字に尽きる。愛機に向かって急ぐ最後の駆け足。
進発。進発。ただその日を期して、隊員たちは激しい訓練を続けた。実戦にも増した激しい訓練を続けた。そして今、訓練さながらに突撃の時は来た。手を合わせて、一億の民は祈る。必中の成功を。
▼特攻隊のニュースの音声
https://nhktext.jp/showa2-5
村島 この特攻作戦というのは、先ほど保阪さんもおっしゃいましたけれど、十死零生、十の死、ゼロの生きるということで、要するに百パーセントの死ということですね。
保阪 百パーセントの死というのは、軍事作戦の上ではまったく常識外れというか、あり得ない作戦です。国家のシステムで特攻作戦を実行するということは、軍事指導者たちの責任になります。そこで、若いパイロットたち、戦況に困惑している青年たちがやむにやまれず、「私たちの体を爆弾として使ってください」と、特攻作戦を志願したという形にするなどして自らの責任を逃れる司令官もいました。そのあたりのところが、日本の特攻作戦が問題を含んでいる点だと思います。
村島 二番目の「誰が、なぜ命じたか」という点についてはいかがでしょう。
保阪 特攻作戦は海軍が考えたのですが、一般的には、海軍第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)が主導する形で進んだといわれています。しかし、必ずしもそうではありません。太平洋戦争が進むなかで、日米の戦力には大きな開きがあることがしだいに判明していく。連合艦隊が壊滅状態でアメリカ海軍の機動部隊に対抗できなくなる。こうなったら起死回生の作戦しかない。人間を爆弾にして体当たり攻撃するしかないとの声が海軍のなかで自然に上がってきて、それが公然化していったのです。
大西瀧治郎がそれを主導したといわれているのは、たしかにそれは当たっていないとはいえません。海軍の戦力が落ちてアメリカと戦えなくなった状況のときに、最後に残された手段は、人間が爆弾となって敵戦艦に致命的な打撃を与えることだというのを誰もが思うようになった。それを「やる」というのは、そのときそのポジションにいた人、つまり航空艦隊司令長官が決断するわけですから、そういう意味でいえば大西瀧治郎だったということです。大西は、戦争が終わったあと自決しています。大西自身は特攻作戦を「統率の外道」というような言い方もしていました。大西が責任をとるような形で自決したことによって、彼だけが特攻作戦を主導したように思われていますが、私は、それは違うのではないかと思います。
村島 そうしますと、特攻作戦を考え始めたのは海軍で、陸軍もだんだんそれに賛同するようになっていった。
保阪 そうですね、陸軍もそれにならって進みます。陸軍の場合は、先ほど少しお話ししたように、あくまでも志願という形にしようとしています。しかし現実には、それは命令です。と同時に、本人が断れない状況に追い込まれていくということです。
村島 そういう空気が醸成されていったということですね。
保阪 そうです。
保阪正康(ほさか まさやす)著
1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。個人誌「昭和史講座」の刊行により菊池寛賞、『ナショナリズムの昭和』で和辻哲郎文化賞など受賞多数。
村島章惠(むらしま・あきよし) 聞き手
1948年、東京都生まれ。元NHKアナウンサー。慶應義塾大学法学部卒。72年にNHK入局。2008年退局後はNHKディレクターとして「ラジオ深夜便」などを担当し、現在もラジオ第2放送のNHKカルチャーラジオ「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」の番組制作に携わる。
ヘッダーイラスト:保光敏将
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序 なぜ、今、「昭和」なのか
第一章 震災復興と金融恐慌で始まった昭和
第二章 昭和初期の農村の苦境
第三章 昭和初期の都市圏、二つの顔
第四章 昭和初期の子どもたちの暮らし
第五章 満洲事変と軍部の暴走
第六章 『昭和天皇実録』を読む 1
第七章 『昭和天皇実録』を読む 2
第八章 国際連盟脱退以降の国際関係
第九章 戦前の正月風景
第十章 泥沼化していった日中戦争
第十一章 日米開戦への道
第一章 サンフランシスコ講和条約と東西冷戦
第二章 国際社会への復帰
第三章 経済の復興「もはや戦後ではない」
第四章 「六〇年安保」の時代
第五章 高度経済成長の始まり
第六章 都市と農村の生活環境の変化
第七章 東京オリンピック
第八章 日本万国博覧会とその時代
第九章 日本列島改造
第十章 行財政改革
第十一章 昭和から平成へ