【静岡の高校サッカー戦後史Vol.54】藤枝北の1962〜64年度、ライバル藤枝東との「対立の構図」鮮明に
【藤枝北③】全国懸け宿敵としのぎ
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。静岡サッカー応援アプリ「シズサカ」でまとめてご覧いただけます。
「対立の構図」こそ、競技力の向上に欠かせない。相きっ抗したチーム同士がしのぎを削りあうことは、相乗効果を生む。1960年代の藤枝の高校サッカーは、こうした状況が当てはまる。
藤枝といえば藤枝東―といわれていたが、1961年(昭和36年)度、藤枝北がスポーツ祭を制し、初めて県の頂点に立ったことで、「対立の構図」が確立される。後輩格の成長で、両校は対戦するたびに見応えのある攻防を繰り広げた。両者の対決は、今ならさしずめ“藤枝ダービー”として話題を呼んだはずだ。
有力校の一角に名を連ねるようになった藤枝北だが、全国行きが懸かった戦いになると、決まって跳ね返される存在があった。藤枝東であり、力を付けた藤枝北といえども、その壁を突き破るのは容易ではなかった。
藤枝東に阻まれ続けた全国行き
62年度の全国選手権県予選。学校初のユース代表、小山益雄(愛知県刈谷市在住)を擁し、決勝に進んだ。初めての決勝進出で意気上がったが、藤枝東に0−3で屈した。
翌63年度は、まず国体予選準決勝で藤枝東と顔を合わせた。松田幸男(藤枝市在住)、堀江喜作(神奈川県海老名市在住)のユース代表コンビを軸にしたチームは、攻守に隙がなく、評価は高かった。事実、押し続けたが、結果は0−1の惜敗だった。
選手権予選も準決勝で藤枝東と対戦した。堀江は試合前のあいさつで、主審が「事実上の決勝戦だから」と語りかけたのを鮮明に覚えている。試合は藁科佳明(故人)のシュートで先制したが追い付かれ、1−1のまま延長、引き分け。抽選の末、勝ちを譲った。
抽選に臨んだ主将の松田は終わった瞬間、込み上げてきたのは無念さではなく、「東高とこれだけ戦えたんだから」との思いだったという。
「伝統の差」を噛みしめて
64年度は選手権予選決勝に駒を進め、またも藤枝東と相まみえた。後半30分の決定機を相手GKの美技で阻まれ、延長も時間切れ寸前に決勝点を奪われ、0−1で涙をのんだ。「伝統の差というのだろうか、藤色のユニホームにはどうしても勝てなかった」とは、右ウイングだった増井佳四郎(現・芳賀、藤枝市在住)。
宿敵との競り合いを制した藤枝東は、62、63年度に選手権連続制覇、64年度は国体準優勝と、全国の強豪としての地位を確固たるものにする。65年度、藤枝北はその強豪を乗り越え、待望の全国へ初名乗りを上げることになる。(敬称略)