自伝から学ぶ「生き方のスタイル」──福沢諭吉『福翁自伝』【NHK100分de名著】
カラリとした精神が、進むべき道を明るく照らす──福沢諭吉『福翁自伝』を、齋藤孝さんが解説
2025年9月のNHK『100分de名著』では、自伝文学の傑作として名高い福沢諭吉の『福翁自伝』を、教育学者、明治大学文学部教授の齋藤孝さんが紹介します。
福沢諭吉が口述原稿をもとに自ら筆を加えて完成させた『福翁自伝』ははじめ新聞に連載され、1899年に単行本として出版されました。古いしきたりや周囲の言動にとらわれない独立精神を持ち、仲間とともに一心に勉強に励んだ福沢。『福翁自伝』にはその青春と愉快な人生が、硬軟織り交ぜた巧みな日本語でつづられています。
番組テキストでは、「この画期的におもしろい本を、読まないともったいない」と語る齋藤さんとともに、激動の時代を明るく駆け抜けた福沢の精神に触れ、揺れ動く現代を生きるヒントを探っていきます。
今回はテキストから、そのイントロダクションを公開します。
日本一おもしろい自伝文学
私は、世界中のさまざまな自伝を読み比べるのが好きです。好きが高じて、それらの自伝を紹介する本まで出したほどですが、これまで読んできた自伝の中でトップクラスにおもしろく、日本人によるものとしては一番だと考える作品があります。それが、福沢諭吉の『福翁自伝』です。
『福翁自伝』は一八九八〜九九年(明治三十一〜三十二)にかけて新聞に連載され、九九年に単行本として世に出ました。後に小林秀雄をして近代日本人による自伝文学の傑作と評せしめたほか、海外での評価も高く、一九三四年(昭和九)に英訳が、七一年(昭和四十六)にドイツ語訳がそれぞれ出版されています。
高い評価を受けている理由はいくつかあります。まず、本書における福沢の語り口のうまさが挙げられます。半年ほどかけて口述した内容をもとに、自ら筆を加えて完成させたため、口語と文語が絶妙に混ざり合った独特の文体となっています。硬軟織り交ぜた彼の日本語の巧みさには特筆すべきものがあり、このようなスタイルで自分の人生を事細かに語れる人は、ほかにいません。
また、『福翁自伝』には、福沢が生きた時代の様子と、当時の心境の両方が描かれています。福沢の人生の外側と内側が詳細に、しかも楽しく語られているのです。「楽しく語られている」という点が重要で、読んでみると、渋すぎもせず、重すぎもせず、とにかくおもしろい。そのことが高い評価を受けるもう一つの理由です。
「福翁」の古風な響きのせいか、いまも広く読まれているとは言いがたいことが残念でなりません。今月の「100分de名著」では、みなさんと『福翁自伝』を読み進めながら、この本の画期的なおもしろさ、読まないといかにもったいないかをお伝えしたいと思います。
『福翁自伝』を初めて読んだ時に私が感じたのは、「こんなに率直な人がいたのか」という驚きでした。あえて語らなかった出来事などもあるでしょうが、少なくとも話したことについては噓がない。その直截さに感銘を受けたのです。
福沢の明快さ、透明性の高さは、現代の社会にフィットする気質だと思います。たとえば、コンプライアンス遵守が叫ばれるいまの社会では、不祥事やトラブルが起きると、責任者には透明性のある説明が求められます。福沢は物事をクリアに整理し、オープンにできる人物ですから、こういう人が上に立つ組織は、社会的に信頼を得られるはずです。
ハラスメントとかけ離れているという点でも、福沢は現代的な人物です。武士の家に生まれ、前半生は暗殺や斬り合いが当たり前の幕末を生きた福沢ですが、彼は「人に向かって手を上げたことがない」と語っています。また、暴力的でないだけでなく、男尊女卑が当たり前の当時、九人の子どもを男女分け隔てなく育て、女性差別を批判した『女大学評論・新女大学』という画期的な本も書いています。いまで言うパワハラやセクハラとは縁遠い、開明的な人物だったのです。
福沢は自身の性格について、「精神は誠にカラリとしたものでした」と表現しています。「心は」ではなく、「精神は」と語るところがユニークです。彼はその時の心持ちや気分に左右されることなく、常に安定しています。この「カラリとした精神」は福沢という一個人の気質であるとともに、時代が求めた精神でもあると私は考えます。
福沢はバランス感覚にも優れていました。「それはそれ、これはこれ」と切り分けることのできる客観性と合理性を持ち、しがらみにとらわれません。日本と西洋のそれぞれよいところをどう組み合わせたらよいかを、俯瞰して考えていた。人付き合いも同様で、無理に周りに合わせることなく、自分を保っていました。「自分はすごい」と威張ることも、「自分なんか」と卑屈になることもありません。この合理性とバランスのよさがあったからこそ、明治維新という荒波の中にあっても、「自分」という舟を沈没させずに、漕ぎ続けることができたのでしょう。
『福翁自伝』に出合ってから現在まで、私は福沢の言葉を自分の生活に取り込んで、さまざまに活かしています。たとえば、福沢が金言としていた「喜怒色に顕(あら)わさず」という言葉は、私の中にすっかり染み込んでいます。ほかにも、なにかの拍子に福沢の行動を真似してみたくなる。私は『福翁自伝』とそのように付き合ってきました。
いま、AIをはじめとするIT技術の進歩やグローバル化によって、世界情勢は大きく変化しています。事業を立ち上げても、ほかの国により優秀な、あるいは安い報酬で請け負うような競合相手がいれば、インターネットを通じてそちらに仕事が奪われてしまいます。いくらよいものをつくっても、世界との競争では後れを取ることもあるのです。いまの日本は、第二の開国のような状況にあると言っていいでしょう。
どれほど世の中が激しく動いても、福沢は常に心を平静に保ち、合理的に判断し、時代を明るく駆け抜けました。彼の気質や考え方は、激動の時代を生きる私たちに、多くのヒントを与えてくれます。ですから『福翁自伝』は、福沢から私たちに贈られたプレゼントと言えるかもしれません。みなさんとこの本を読み解きながら、いまに通じる福沢の精神に触れ、私たちの文化として引き継ぐことができたらと思います。
教師志望の大学生対象の私の授業では、『学問のすゝめ』と『福翁自伝』を課題図書にしています。気に入った文を選んで、自分の経験と結びつけて、人に話します。
名づけて「諭吉まつり」。みな、「諭吉のこの文が自分にはグッときました」と、「諭吉」になじんでいます。
ぜひ、この機会にみなさんも、「諭吉まつり」に参加してみてください。
『100分de名著』テキストでは、「カラリと晴れた独立精神」「自分を高める勉強法とは」「人生の困難を切り拓く」「事業の達人に学べ」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著として福沢諭吉『文明論之概略』を紹介しています。
講師
齋藤孝(さいとう・たかし)
教育学者、明治大学文学部教授
1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション技法。NHK Eテレ「にほんごであそぼ」の総合指導を務めるなど、子どもの教育に力を入れている。著書に『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス、新潮学芸賞受賞)、『声に出して読みたい日本語』(草思社、毎日出版文化賞特別賞受賞)、『読書力』『教育力』(岩波新書)など多数。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 福沢諭吉『福翁自伝』2025年9月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『福翁自伝』の引用は、岩波文庫版(富田正文校訂、1978年発行、2008年改版)に拠りますが、振り仮名を追加、省略したところがあります。
◆TOP画像:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート